第38話 プロポーズ
季節は巡り、初夏。
アークレイン大公邸の庭園には、目も眩むような色彩が溢れていた。
かつて母が愛し、そして父が心を閉ざすとともに荒れ果てていた「北の離れ」の薔薇園。
そこは今、父の手によって見事に再生されていた。
赤、白、黄色、ピンク。
色とりどりの薔薇が咲き誇る中、一際目を引くのは、庭の中央に植えられた、深い青紫色の花々だった。
本物の「蒼い薔薇」ではないけれど、父が世界中から集めさせた、それに最も近い色の品種だという。
「……綺麗ね」
私は夜風に吹かれながら、その青い花弁に指先で触れた。
今夜は、アークレイン家主催のガーデンパーティーが開かれている。
名目は、妹シルヴィアの快気祝いと、平和条約発効の記念。
けれど、招待客たちの関心は別のところにあった。
『あの方が、噂の……』
『帝国の若き英雄か。……平民出身とは思えぬ気品だ』
グラスを手にした貴族たちの視線が集まる先。
そこには、一人の青年が立っていた。
アレン・ヴァルシュ。
今日の彼は、私の見立てで仕立てた、濃紺のタキシードを完璧に着こなしている。
かつての「安っぽい事務官」の面影はない。
数々の修羅場をくぐり抜け、一国の運命を背負った男だけが持つ、静かな自信と風格が漂っていた。
「……人気者ね、アレン」
私が近づくと、彼は取り囲んでいた貴婦人たちに優雅に一礼して会話を切り上げ、ホッとしたような顔で私に向き直った。
「勘弁してください、セレスタ。……貴女の国の貴族たちは、質問攻めが好きなんですか? 『好きな食べ物は』『休日の過ごし方は』と、まるで尋問だ」
「ふふ。……みんな、貴方に興味津々なのよ。あの『氷の令嬢』の心を溶かした男が、一体どんな人物なのかって」
私が悪戯っぽく笑うと、彼は困ったように眼鏡の位置を直した。
その仕草だけは、昔と変わらない。
「……少し、抜け出しませんか? 酔ってしまいそうだ」
「ええ。……いい場所があるわ」
私は彼の手を取り、人目を盗んでパーティー会場から離れた。
向かった先は、薔薇園の奥にある、小さなガゼボ(東屋)。
月明かりだけが照らす、二人だけの場所。
***
ガゼボのベンチに座ると、遠くから楽団の演奏が微かに聞こえてきた。
ワルツの調べ。
あの日、帝国の舞踏会で、血に染まりながら聞いた旋律とは違う、穏やかで優しい音色。
「……平和ですね」
アレンが夜空を見上げて呟いた。
「ええ。……夢みたいだわ」
私たちはこの数ヶ月、怒涛の日々を過ごしてきた。
条約の細部を詰め、反対派を説得し、両国の架け橋として走り回った。
ようやく、それが実を結び、こうして穏やかな夜を迎えることができたのだ。
「セレスタ」
「何?」
「……覚えていますか? 私たちが初めて、二人きりで話をした夜のことを」
アレンが懐かしそうに目を細める。
「帝都のホテルのバルコニー。……あの日、私たちは『同盟』を結びました」
「ええ。覚えているわ。……『嘘をつかないこと』『諦めないこと』、そして『辛い時はシチューを奢ること』」
「あの夜……私は月に見惚れていました。でも本当は、月よりも美しいものが隣にあることに、気づいてしまっていたんです」
アレンが私の方を向いた。
その瞳は、真剣そのものだった。
「身分違いも、国籍の違いも、敵同士であることも分かっていました。……それでも、止められなかった。貴女を知れば知るほど、惹かれていく自分を」
心臓が、トクンと高鳴る。
国境の橋の上でのプロポーズは、勢いもあった。公衆の面前での宣言だった。
でも、今は違う。
誰もいない、静かな夜の底で、一人の男としての言葉が紡がれようとしている。
アレンは立ち上がり、私の前に立った。
そして、居住まいを正し、深く息を吸い込んだ。
「……私は、欲深い男です。平和な世界を作るだけでは、満足できない」
彼は懐から、小さな包みを取り出した。
それは、あの日橋の上でくれた安物の指輪……ではなく、新しく用意された、小ぶりだが美しいサファイアの指輪だった。
アークレインの蒼。そして、私たちの誓いの色。
「一生分の給料を前借りする覚悟で、買いました」
彼は照れくさそうに笑い、それから片膝をついた。
その姿は、どんな絵画の騎士よりも美しかった。
「セレスタ・アークレイン様」
彼は私の手を取り、その甲に熱い口づけを落とした。
「国のためでも、世界平和のためでもありません。……ただ、僕の人生のために、君が必要なんです」
ストレートな言葉が、胸を貫く。
大義名分などない。
ただ、一人の男として、一人の女を求めている。そのシンプルさが、何よりも嬉しかった。
「僕の朝には、君の笑顔が必要です。……僕の夜には、君の温もりが必要です。……君がいない未来なんて、どんなに平和でも意味がない」
アレンの瞳が、潤んでいる。
「大公令嬢としての君を、鳥籠から連れ出したい。……貧乏くじを引かせることになるかもしれないけれど、世界で一番、自由で幸せな女性にすると誓います」
彼は指輪を差し出した。
「……僕と、結婚してください」
涙が溢れて、視界が滲んだ。
言葉が出てこない。
喉の奥が熱くて、胸がいっぱいで。
私は知っている。
彼がこの言葉を口にするために、どれだけの努力をしてきたかを。
平民という出自のコンプレックスを乗り越え、父に認められるだけの実績を作り、そして私への愛を貫き通した。
そのすべてが、この指輪に込められている。
「……ずるい人」
私は涙を拭い、精一杯の笑顔を作った。
「『貧乏くじ』だなんて、言わせないわ。……貴方は、私が命がけで勝ち取った、最高の大当たりなんだから」
私は左手を差し出した。
アレンの手が震えながら、私の薬指に指輪を通す。
サイズはぴったりだった。
「……はい。……喜んで、お受けします」
私が答えると、アレンは顔をくしゃくしゃにして、私を強く抱きしめた。
「ありがとう……! セレスタ、愛しています……!」
「私もよ、アレン。……誰よりも、愛している」
私たちは月光の下、長く口づけを交わした。
薔薇の香りと、彼の匂い。
温かい体温。
これこそが、私が求めていた「本当の居場所」だ。
「……さて」
しばらくして、アレンが少し緊張した面持ちで身体を離した。
「これからが、最後にして最大の難関ですね」
「え?」
「お父上への報告です。……この指輪を見せたら、大公閣下は卒倒されるか、剣を抜かれるか……」
「ふふ、大丈夫よ」
私はアレンの腕に手を回し、ウィンクした。
「お父様、最近は庭いじりに夢中なの。『孫ができたら、ここで遊ばせるんだ』なんて、庭師に漏らしているそうよ」
「えっ……孫!?」
「だから、既成事実を作ってしまえば、こちらの勝ちよ」
「き、既成事実って……!」
アレンが顔を真っ赤にして狼狽える。
相変わらず初心な彼が愛おしくて、私は声を上げて笑った。
「冗談よ。……行きましょう、アレン。二人で頭を下げれば、きっと許してくれるわ」
私たちは手を取り合い、パーティー会場へと歩き出した。
光の溢れる館の方へ。
そこには、少し不機嫌そうな顔をして、でもきっと心の中では祝福してくれている父が待っているはずだ。
夜空には満天の星。
私たちの行く末を照らすように、蒼い月が優しく輝いていた。
身分も、国境も越えた恋。
それは今、永遠の愛へと変わった。
物語はここで一区切り。
けれど、私たち二人の人生という名の新しい章は、まだ始まったばかりなのだ。




