第37話 帰郷、そして
『蒼い薔薇条約』の締結から、さらに一ヶ月。
季節は巡り、春の足音が聞こえ始めた頃。
私は再び、レーヴァニア王国の王都に戻ってきた。
前回は、囚人のような護送馬車での帰還だった。
その前は、追っ手から逃れるための決死の脱出だった。
だが、今回は違う。
王都の港には、鮮やかな五色の紙吹雪が舞い、軍楽隊のファンファーレが響き渡っていた。
桟橋を埋め尽くすのは、銃を持った兵士ではなく、花束や小旗を持った市民たちだ。
「……すごい人出ですね」
隣に立つアレンが、タラップの上から目を見張る。
彼は帝国の正式な外交特使として、パリッとした礼服に身を包んでいる。
見慣れない正装に少し居心地が悪そうだが、その胸には皇帝から授与された『平和勲章』が輝いていた。
「ええ。……これが、平和の風景よ」
私は微笑み、彼の手を取った。
私もまた、アークレイン家の令嬢としてではなく、レーヴァニア王国の外交官として、この場に立っている。
私たちがタラップを降りると、わぁぁぁっと大歓声が上がった。
『蒼い薔薇の乙女!』
『帝国の英雄万歳!』
かつて私を「売国奴」「ふしだらな女」と罵ったかもしれない人々が、今は涙を流して私たちを祝福している。
現金なものだ、と笑う気にはなれなかった。
彼らもまた、戦争の恐怖から解放され、心の底から安堵しているのだから。
「行きましょう、アレン。……お父様が待っているわ」
迎えの馬車は、アークレイン家の紋章が入った儀礼用の四頭立てだった。
御者台には、懐かしい顔——執事のセバスチャンが座っていた。
彼は私を見るなり、ハンカチで目元を拭い、深々と頭を下げた。
「おかえりなさいませ、お嬢様。……そして、ヴァルシュ様」
「ただいま、セバスチャン」
馬車に乗り込むと、沿道の人々が手を振る中、私たちは大公邸へと向かった。
車窓から見える王都は、以前のような淀んだ空気はなく、活気に満ちていた。
運河の水はきらめき、市場には帝国の物産も並び始めている。
世界は、確実に前に進んでいる。
***
アークレイン大公邸。
重厚な鉄の門が開かれると、そこには整列した使用人たちが待っていた。
かつて私に冷ややかな視線を向けていた彼らが、今は誇らしげな顔で頭を下げている。
その中には、私の相棒——マリーの姿もあった。
「お嬢様!」
マリーが駆け寄ってくる。
彼女は一足先に帰国し、屋敷の準備を整えてくれていたのだ。
「マリー、元気だった?」
「はい! ……もう、待ちくたびれましたよ」
彼女は泣き笑いの顔で、私と、そしてアレンの手を握った。
「旦那様が、書斎でお待ちです。……朝から随分とソワソワされていて、ネクタイを三回も変えていらっしゃいました」
「ふふ、お父様らしいわね」
私はアレンと顔を見合わせ、頷いた。
いよいよだ。
あの「北の離れ」での決裂以来、父と直接会うのはこれが初めてになる。
国境の橋の上では公的な挨拶しか交わしていない。
これから始まるのは、家族としての再会だ。
私たちは長い廊下を歩いた。
かつては鳥籠への道のように感じられたこの廊下が、今は未来への花道のように思える。
書斎の扉の前。
アレンが一度深呼吸をし、居住まいを正した。
緊張しているのが伝わってくる。
私は彼の手をきゅっと握り、ノックをした。
「……入れ」
中から、聞き慣れた低い声がした。
扉を開ける。
書斎の空気は、以前と変わらず静謐だった。
父リオネルは、窓辺に立って庭を眺めていたが、私たちが部屋に入るとゆっくりと振り返った。
逆光の中、その表情は読み取れない。
だが、以前のような鋭利な刃物のような威圧感は消え、どこか枯れたような、穏やかな雰囲気を纏っていた。
「……戻りました、お父様」
私が一礼すると、父は短く鼻を鳴らした。
「予定より三十分遅い。……相変わらず、帝国の時計は遅れているようだな」
「沿道の歓迎に応えていたのです。……国民の笑顔を見るのも、外交官の仕事ですから」
私が軽口で返すと、父の口元がわずかに緩んだ。
「……口が減らないところも相変わらずか」
父は視線を私の隣へ——アレンへと移した。
アレンは一歩進み出て、最敬礼をした。
「お久しぶりでございます、アークレイン閣下。……この度は、温かい歓迎を感謝いたします」
「ふん。……歓迎などしていない。条約の発効手続きのために場所を提供しただけだ」
父は憎まれ口を叩きながらも、アレンを見る目は優しかった。
彼は机の引き出しから、一本の古い万年筆を取り出した。
装飾が擦り切れ、インクの染みがついた年代物だ。
「……これは、君の父上が使っていたものだ」
アレンが息を呑む。
「十年前、条約の草案を作っていた時……彼はよく、このペンで修正を入れていた。『言葉は正確でなければならない』とな」
「父の……」
「あの日、彼が去る時に忘れていったのだ。……いつか返そうと思っていたが、機会を失ったままでな」
父は立ち上がり、アレンの前に歩み寄ると、そのペンを彼の手のひらに乗せた。
「……返しておく。本来の持ち主の息子に」
「……ありがとうございます」
アレンは震える手でペンを受け取り、大切そうに胸に抱いた。
それは、十年越しの遺品返還であり、父なりの謝罪と和解の印だった。
「座りたまえ。……茶でも飲もう」
父がソファーを勧める。
私たちは座り、セバスチャンが淹れた紅茶を飲んだ。
話題は、自然とこれからの両国のことに及んだ。
経済協力の具体的な進め方、人的交流の拡大、軍縮のスケジュール。
アレンと父は、まるで長年の同僚のように熱心に議論を交わした。
私はその様子を、静かに眺めていた。
かつては敵対し、憎しみ合っていた二人が、今は同じテーブルで未来を語り合っている。
アレンの父、フレデリックの夢見た光景が、ここにある。
「……そういえば」
一通り話が終わった頃、父がふと私を見た。
「シルヴィアの容体だが、随分と良くなったそうだ」
「本当ですか!?」
「ああ。帝国の最新医療技術を取り入れた治療法が功を奏したらしい。……夏には、療養所を出て自宅に戻れるだろう」
妹の回復。
それは、私たちが結んだ条約の、具体的な恩恵の一つだった。
国境が開かれ、技術や薬が行き交うようになったことで、救われた命がある。
「よかった……。本当によかった……」
私は目頭を押さえた。
政略結婚の道具としてではなく、ただの姉として、妹の回復を喜べる日が来るなんて。
「……それとな」
父は少しバツが悪そうに視線を逸らした。
「北の離れだが……改装することにした」
「改装、ですか?」
「ああ。……あそこは少し、陰気すぎる。窓を大きくして、庭も手入れし直すつもりだ。……薔薇を植えようと思ってな」
薔薇。
かつて母が愛し、そして父が「焼き捨てた」と言った花。
「……どんな色の薔薇ですか?」
「……さあな。庭師に任せている」
父は素っ気なく答えたが、その耳が少し赤くなっているのを私は見逃さなかった。
きっと、蒼い薔薇ではないかもしれないけれど、色とりどりの花が咲き誇る美しい庭になるだろう。
母の魂が、安らかに眠れるような。
***
夕方。
父は「少し用がある」と言って、一人で屋敷を出て行った。
行き先は告げなかったが、私には分かっていた。
私はアレンを誘い、こっそりと父の後を追った。
向かった先は、屋敷の裏山にある、アークレイン家の墓地だった。
夕日が、木々の影を長く伸ばしている。
墓地の一角、ひときわ手入れされた白亜の墓石の前に、父の背中があった。
母、セフィリアの墓だ。
父は墓石の前に跪き、長い間、動かなかった。
手には、一輪の花を持っている。
それは、温室で育てられたのだろうか、季節外れの小さな蒼い花だった。
私たちは木陰に隠れ、息を殺して見守った。
風に乗って、父の独り言が微かに聞こえてくる。
「……セフィリア。……終わったよ」
低く、枯れた声。
「お前が守り、託した種が……ようやく芽吹いた。……あの子たちが、咲かせてくれた」
父は花を墓前に供え、墓石を愛おしそうに撫でた。
「私は……間違っていたのかもしれん。……国を守るために心を殺すことが、強さだと信じていた。……だが、あの子は違った。心を燃やし、愛することで、私よりも強く、国を守ってみせた」
父の肩が、小さく震えている。
「……あの子は、お前に似て強いな。……そして、選んだ男も、悪くない」
父は立ち上がり、空を見上げた。
夕焼け空に、一番星が光り始めている。
「新しい時代が来たんだな。……我々の時代は、終わりだ。……これからは、あの子たちが作る世界を、見守るとしよう」
父の声は、どこまでも穏やかで、憑き物が落ちたようだった。
鉄仮面の下にあったのは、ただ妻を愛し、娘の幸せを願う、不器用な一人の男の心だったのだ。
「……行きましょう、アレン」
私はアレンの袖を引いた。
これ以上、邪魔をしてはいけない。
あれは、父と母だけの時間だ。
私たちは音を立てないように、その場を離れた。
帰り道、アレンがぽつりと言った。
「……お父上は、まだお母様を愛していらっしゃるんですね」
「ええ。……ずっと、愛していたのよ。不器用なだけ」
私はアレンの腕に頭をもたせかけた。
「私たちも、あんなふうになれるかしら。……何年経っても、想い合えるような」
「なりますよ。……いや、してみせます」
アレンは真面目な顔で断言した。
「私は不器用ですが……君への愛だけは、誰にも負けませんから」
「ふふ。……期待しているわ」
屋敷に戻ると、夕食の支度が整っていた。
今日のメニューは、豪華なフルコース……ではなく、アレンのリクエストで作らせた『特製シチュー』だそうだ。
父が帰ってきたら、三人で食卓を囲もう。
昔話をして、未来の話をして、そして……。
アレンがしようとしている「大事な話」の援護射撃をしてあげなくては。
窓の外、王都の夜景が輝き始めている。
その光の一つ一つに、人々の平和な営みがある。
私たちが守り、そしてこれからも紡いでいく、愛おしい光の海。
「おかえりなさい、セレスタ」
心の中で、自分自身に言った。
長い旅を終えて、私はようやく、本当の意味で「家」に帰ってきたのだ。




