第36話 戦後処理という名のデート
『双竜橋』での歴史的な調印式から一ヶ月。
世界は劇的なスピードで変わり始めていた。
アルメスト帝国とレーヴァニア王国の間で正式な停戦協定が結ばれ、国境の封鎖は解除された。
かつて憎しみ合っていた両国の市民たちは、戸惑いながらも、少しずつ交流を再開し始めている。
『蒼い薔薇条約』——私たちが結んだ条約は、そう呼ばれるようになっていた。
そして、その激動の中心地である帝都の片隅、外務省の一室で、私は死にかけていた。
「……終わらないわ」
私は山積みになった書類の塔に突っ伏した。
目の前には、関税撤廃に関する細則、捕虜交換のリスト、資源共同開発の予算案……。
かつてアレンが一人で処理していた仕事量の、さらに十倍はあるだろうか。
「弱音を吐かないでください、レディ。……君が言い出したことでしょう? 『細かい詰めは私がやる』と」
向かいの席で、アレンが涼しい顔でペンを走らせている。
彼はもう、以前のような「下級官僚」ではない。
皇帝直属の『戦後復興特別補佐官』という肩書きを持つ、帝国の若き英雄だ。
とはいえ、着ているスーツは相変わらず安物だし、眼鏡(新調したもの)の奥の真面目な瞳も変わっていないけれど。
「だって、帝国の役人ときたら仕事が遅いんだもの! これじゃあ条約の発効が来年になってしまうわ」
「彼らも必死なんですよ。……今まで『敵』だと思っていた国の姫君が、上司として乗り込んできたんですから」
アレンは苦笑し、淹れたてのコーヒーを私のデスクに置いた。
香ばしい香り。
私はそれを啜り、生き返る心地がした。
「……でも、悪くない気分よ」
私は書類の山を見上げた。
かつては、これらは「戦争のための準備」だった。
でも今は、すべての書類が「平和を作るためのレンガ」だ。
一枚処理するたびに、誰かの生活が守られ、未来が確かなものになっていく。
「それに……」
私はコーヒーカップ越しにアレンを見た。
「貴方と一緒にいられるなら、残業もデートみたいなものだわ」
「……仕事中に口説かないでください。計算を間違えます」
アレンが顔を赤らめ、咳払いをした。
その反応が可愛くて、私はついクスクスと笑ってしまう。
私たちは今、帝都のホテルではなく、外務省内に設けられた「合同調整室」で寝食を共にしている。
公私混同?
ええ、大いに結構。誰にも文句は言わせない。
私たちは世界を救ったのだから、これくらいの役得はあってもいいはずだ。
***
午後のお茶の時間。
マリーが、焼きたてのクッキーと新聞を持って入ってきた。
「お嬢様、アレン様。……本国から、良いニュースが届きましたよ」
「良いニュース?」
私が新聞を受け取ると、一面トップに痛快な見出しが躍っていた。
『ミルティン伯爵家、軍事費横領の疑いで強制捜査』
『ガレス氏、国外逃亡を図るも逮捕——婚約破棄の慰謝料請求も?』
「あら、やっと捕まったのね」
私は優雅にクッキーをかじった。
アレンが放送局前で行った告発は、帝国だけでなく、レーヴァニア国内にも波及したのだ。
ミルティン家が帝国の軍需産業とも裏で繋がり、戦争を長引かせて利益を得ようとしていた証拠が、次々と明るみに出た。
「お父様も、仕事が早いわね」
父リオネルは、この機を逃さなかった。
彼は自らの政治責任を問われる前に、ミルティン家を「国賊」として断罪し、トカゲの尻尾切りのように切り捨てたのだ。
冷徹だが、見事な手腕だ。おかげで、私の婚約は正式に、そして完全に白紙となった。
「ガレス氏は、取り調べで泣き喚いているそうですよ。『騙されたんだ』って」
「見苦しいわね。……ま、精々冷たい牢屋で反省することね」
私は新聞を畳み、ゴミ箱へ放り投げた。
あの男の顔など、二度と見たくもない。私の人生から、完全に退場してもらった。
「……これで、君は自由の身ですね」
アレンが、少し真剣な声で言った。
彼は仕事を止め、私を真っ直ぐに見つめている。
「アークレイン家も、今回の件でかなり影響力を落としました。……君の父上も、もう君を政略結婚の道具にはできないでしょう」
「ええ。……ざまぁみろ、ってところね」
「では」
アレンは立ち上がり、私のデスクの前まで来た。
そして、躊躇いがちに、しかし確かな意志を持って言った。
「落ち着いたら……正式に、申し込みに行きます」
「……何を?」
「結婚を、です。……君の父上に」
心臓がトクンと跳ねた。
国境の橋の上でのプロポーズは、勢いもあった。
でも、これは違う。
平穏な日常の中で、改めて交わされる現実的な約束だ。
「……本気?」
「本気です。……以前も言いましたよね? 君を幸せにする権利は、誰にも譲らないと」
アレンは私の手を取り、指先に口づけた。
「私はまだ貧乏官僚のままですが……一生かけて、君に『美味しいシチュー』を食べさせ続けます」
「……ふふ」
涙が滲んだ。
この人は、どうしてこう、私の心の柔らかいところを的確に突いてくるのだろう。
「期待しているわ、アレン。……お父様は手強いわよ? 『娘をやるには、まず私を論破してみせろ』とか言い出しかねないわ」
「望むところです。……外交交渉なら、負ける気はしませんから」
頼もしい言葉。
この人と一緒なら、どんな頑固な父でも、どんな困難な未来でも、きっと乗り越えていける。
***
その日の夜。
私たちは仕事を早めに切り上げ、街へ出た。
「戦後処理」という名目の、ささやかなデートだ。
帝都の夜は、以前とは見違えるほど明るくなっていた。
灯火管制が解かれ、ガス灯が通りを照らしている。
行き交う人々の顔にも、笑顔が戻っていた。
「……変わったわね、この街」
「ええ。……君が変えたんですよ」
アレンが隣で微笑む。
私たちは腕を組み、石畳を歩いた。
向かった先は、高級レストラン『銀の匙』……ではなく、あの路地裏の安酒場だった。
「……本当にここでいいんですか? 今日は奮発して、いい店を予約しようと思っていたんですが」
「いいのよ。……ここが一番、落ち着くもの」
私は古びた木の扉を開けた。
店内は相変わらず喧騒に包まれていたが、その熱気は以前のような殺伐としたものではなく、活気に満ちたものだった。
「おっ! 英雄のお出ましだ!」
誰かが叫ぶと、店中の客が一斉にこちらを向き、歓声を上げた。
労働者たちが駆け寄ってきて、アレンの肩を叩き、私に握手を求めてくる。
「ありがとうよ! あんたたちのおかげで、息子が戦場から帰ってきたんだ!」
「パンの値段が下がったぞ! 今日は俺の奢りだ!」
もみくちゃにされながら、私たちは笑い合った。
これが、私たちが守りたかったもの。
数字や条文の向こう側にある、生きた人々の体温。
ようやく席につき、運ばれてきたのは、やはりあの『黒いシチュー』だった。
見た目は相変わらず悪い。
でも、一口食べると……。
「……美味しい」
私は目を見開いた。
塩辛さは消え、野菜の甘みと肉の旨味がしっかりと出ている。
パンも、以前のような石のような固さではなく、ふっくらと柔らかい。
「物流が回復したんです。……新鮮な野菜と、レーヴァニアからの小麦が届くようになったから」
アレンが嬉しそうに解説する。
「これが、『蒼い薔薇』の味ですよ、セレスタ」
涙が出そうになった。
私たちが命がけで繋いだ条約が、こうして形になって、私たちの舌を楽しませてくれている。
世界は、確実に良くなっているのだ。
「……最高のご馳走ね」
私はスプーンを置き、アレンを見た。
彼もまた、シチューを頬張りながら、幸せそうに笑っている。
この笑顔を、ずっと守りたい。
この温かい時間を、永遠に続けたい。
「アレン」
「はい?」
「……結婚式のドレス、まだ決めてないの」
「え?」
「お父様にお願いして、一番高いやつを作らせるわ。……貴方の給料三年分くらいのやつを」
「さ、三年分……!?」
アレンが目を白黒させる。
私はテーブルの下で、彼の手を握った。
「冗談よ。……でも、覚悟しておいてね。私、これから一生、貴方に贅沢な『愛』を要求するつもりだから」
「……ええ。望むところです」
アレンは私の手を握り返し、優しく微笑んだ。
「私の全てを捧げて、お支払いしますよ。……一生かけて」
安酒場の喧騒の中、私たちはグラスを合わせた。
中に入っているのは安いエールだけど、その味はどんなヴィンテージワインよりも甘く、芳醇だった。
戦いは終わった。
でも、私たちの人生という名の旅は、まだ始まったばかりだ。
窓の外、帝都の夜空には、満天の星が輝いていた。
それはまるで、私たちの未来を祝福する、無数の宝石のようだった。




