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蒼き大公家の令嬢は、敵国の青年官僚に恋をする 〜捨てられた令嬢と左遷された官僚が、世界を覆す最強のふたりになる話〜  作者: ぱる子
第5章:蒼き未来へ

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第36話 戦後処理という名のデート

 『双竜橋』での歴史的な調印式から一ヶ月。

 世界は劇的なスピードで変わり始めていた。


 アルメスト帝国とレーヴァニア王国の間で正式な停戦協定が結ばれ、国境の封鎖は解除された。

 かつて憎しみ合っていた両国の市民たちは、戸惑いながらも、少しずつ交流を再開し始めている。

 『蒼い薔薇条約』——私たちが結んだ条約は、そう呼ばれるようになっていた。


 そして、その激動の中心地である帝都の片隅、外務省の一室で、私は死にかけていた。


「……終わらないわ」


 私は山積みになった書類の塔に突っ伏した。

 目の前には、関税撤廃に関する細則、捕虜交換のリスト、資源共同開発の予算案……。

 かつてアレンが一人で処理していた仕事量の、さらに十倍はあるだろうか。


「弱音を吐かないでください、レディ。……君が言い出したことでしょう? 『細かい詰めは私がやる』と」


 向かいの席で、アレンが涼しい顔でペンを走らせている。

 彼はもう、以前のような「下級官僚」ではない。

 皇帝直属の『戦後復興特別補佐官』という肩書きを持つ、帝国の若き英雄だ。

 とはいえ、着ているスーツは相変わらず安物だし、眼鏡(新調したもの)の奥の真面目な瞳も変わっていないけれど。


「だって、帝国の役人ときたら仕事が遅いんだもの! これじゃあ条約の発効が来年になってしまうわ」

「彼らも必死なんですよ。……今まで『敵』だと思っていた国の姫君が、上司として乗り込んできたんですから」


 アレンは苦笑し、淹れたてのコーヒーを私のデスクに置いた。

 香ばしい香り。

 私はそれを啜り、生き返る心地がした。


「……でも、悪くない気分よ」


 私は書類の山を見上げた。

 かつては、これらは「戦争のための準備」だった。

 でも今は、すべての書類が「平和を作るためのレンガ」だ。

 一枚処理するたびに、誰かの生活が守られ、未来が確かなものになっていく。


「それに……」


 私はコーヒーカップ越しにアレンを見た。


「貴方と一緒にいられるなら、残業もデートみたいなものだわ」

「……仕事中に口説かないでください。計算を間違えます」


 アレンが顔を赤らめ、咳払いをした。

 その反応が可愛くて、私はついクスクスと笑ってしまう。


 私たちは今、帝都のホテルではなく、外務省内に設けられた「合同調整室」で寝食を共にしている。

 公私混同?

 ええ、大いに結構。誰にも文句は言わせない。

 私たちは世界を救ったのだから、これくらいの役得はあってもいいはずだ。


***


 午後のお茶の時間。

 マリーが、焼きたてのクッキーと新聞を持って入ってきた。


「お嬢様、アレン様。……本国から、良いニュースが届きましたよ」

「良いニュース?」


 私が新聞を受け取ると、一面トップに痛快な見出しが躍っていた。


 『ミルティン伯爵家、軍事費横領の疑いで強制捜査』

 『ガレス氏、国外逃亡を図るも逮捕——婚約破棄の慰謝料請求も?』


「あら、やっと捕まったのね」


 私は優雅にクッキーをかじった。

 アレンが放送局前で行った告発は、帝国だけでなく、レーヴァニア国内にも波及したのだ。

 ミルティン家が帝国の軍需産業とも裏で繋がり、戦争を長引かせて利益を得ようとしていた証拠が、次々と明るみに出た。


「お父様も、仕事が早いわね」


 父リオネルは、この機を逃さなかった。

 彼は自らの政治責任を問われる前に、ミルティン家を「国賊」として断罪し、トカゲの尻尾切りのように切り捨てたのだ。

 冷徹だが、見事な手腕だ。おかげで、私の婚約は正式に、そして完全に白紙となった。


「ガレス氏は、取り調べで泣き喚いているそうですよ。『騙されたんだ』って」

「見苦しいわね。……ま、精々冷たい牢屋で反省することね」


 私は新聞を畳み、ゴミ箱へ放り投げた。

 あの男の顔など、二度と見たくもない。私の人生から、完全に退場してもらった。


「……これで、君は自由の身ですね」


 アレンが、少し真剣な声で言った。

 彼は仕事を止め、私を真っ直ぐに見つめている。


「アークレイン家も、今回の件でかなり影響力を落としました。……君の父上も、もう君を政略結婚の道具にはできないでしょう」

「ええ。……ざまぁみろ、ってところね」

「では」


 アレンは立ち上がり、私のデスクの前まで来た。

 そして、躊躇いがちに、しかし確かな意志を持って言った。


「落ち着いたら……正式に、申し込みに行きます」

「……何を?」

「結婚を、です。……君の父上に」


 心臓がトクンと跳ねた。

 国境の橋の上でのプロポーズは、勢いもあった。

 でも、これは違う。

 平穏な日常の中で、改めて交わされる現実的な約束だ。


「……本気?」

「本気です。……以前も言いましたよね? 君を幸せにする権利は、誰にも譲らないと」


 アレンは私の手を取り、指先に口づけた。


「私はまだ貧乏官僚のままですが……一生かけて、君に『美味しいシチュー』を食べさせ続けます」

「……ふふ」


 涙が滲んだ。

 この人は、どうしてこう、私の心の柔らかいところを的確に突いてくるのだろう。


「期待しているわ、アレン。……お父様は手強いわよ? 『娘をやるには、まず私を論破してみせろ』とか言い出しかねないわ」

「望むところです。……外交交渉なら、負ける気はしませんから」


 頼もしい言葉。

 この人と一緒なら、どんな頑固な父でも、どんな困難な未来でも、きっと乗り越えていける。


***


 その日の夜。

 私たちは仕事を早めに切り上げ、街へ出た。

 「戦後処理」という名目の、ささやかなデートだ。


 帝都の夜は、以前とは見違えるほど明るくなっていた。

 灯火管制が解かれ、ガス灯が通りを照らしている。

 行き交う人々の顔にも、笑顔が戻っていた。


「……変わったわね、この街」

「ええ。……君が変えたんですよ」


 アレンが隣で微笑む。

 私たちは腕を組み、石畳を歩いた。

 向かった先は、高級レストラン『銀の匙』……ではなく、あの路地裏の安酒場だった。


「……本当にここでいいんですか? 今日は奮発して、いい店を予約しようと思っていたんですが」

「いいのよ。……ここが一番、落ち着くもの」


 私は古びた木の扉を開けた。

 店内は相変わらず喧騒に包まれていたが、その熱気は以前のような殺伐としたものではなく、活気に満ちたものだった。


「おっ! 英雄のお出ましだ!」


 誰かが叫ぶと、店中の客が一斉にこちらを向き、歓声を上げた。

 労働者たちが駆け寄ってきて、アレンの肩を叩き、私に握手を求めてくる。


「ありがとうよ! あんたたちのおかげで、息子が戦場から帰ってきたんだ!」

「パンの値段が下がったぞ! 今日は俺の奢りだ!」


 もみくちゃにされながら、私たちは笑い合った。

 これが、私たちが守りたかったもの。

 数字や条文の向こう側にある、生きた人々の体温。


 ようやく席につき、運ばれてきたのは、やはりあの『黒いシチュー』だった。

 見た目は相変わらず悪い。

 でも、一口食べると……。


「……美味しい」


 私は目を見開いた。

 塩辛さは消え、野菜の甘みと肉の旨味がしっかりと出ている。

 パンも、以前のような石のような固さではなく、ふっくらと柔らかい。


「物流が回復したんです。……新鮮な野菜と、レーヴァニアからの小麦が届くようになったから」


 アレンが嬉しそうに解説する。


「これが、『蒼い薔薇』の味ですよ、セレスタ」


 涙が出そうになった。

 私たちが命がけで繋いだ条約が、こうして形になって、私たちの舌を楽しませてくれている。

 世界は、確実に良くなっているのだ。


「……最高のご馳走ね」


 私はスプーンを置き、アレンを見た。

 彼もまた、シチューを頬張りながら、幸せそうに笑っている。


 この笑顔を、ずっと守りたい。

 この温かい時間を、永遠に続けたい。


「アレン」

「はい?」

「……結婚式のドレス、まだ決めてないの」

「え?」

「お父様にお願いして、一番高いやつを作らせるわ。……貴方の給料三年分くらいのやつを」

「さ、三年分……!?」


 アレンが目を白黒させる。

 私はテーブルの下で、彼の手を握った。


「冗談よ。……でも、覚悟しておいてね。私、これから一生、貴方に贅沢な『愛』を要求するつもりだから」

「……ええ。望むところです」


 アレンは私の手を握り返し、優しく微笑んだ。


「私の全てを捧げて、お支払いしますよ。……一生かけて」


 安酒場の喧騒の中、私たちはグラスを合わせた。

 中に入っているのは安いエールだけど、その味はどんなヴィンテージワインよりも甘く、芳醇だった。


 戦いは終わった。

 でも、私たちの人生という名の旅は、まだ始まったばかりだ。

 窓の外、帝都の夜空には、満天の星が輝いていた。

 それはまるで、私たちの未来を祝福する、無数の宝石のようだった。

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