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蒼き大公家の令嬢は、敵国の青年官僚に恋をする 〜捨てられた令嬢と左遷された官僚が、世界を覆す最強のふたりになる話〜  作者: ぱる子
第4章:国境を越える愛

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第35話 蒼き夜明けの誓い

 その日の朝、世界は静寂に包まれていた。


 場所は、レーヴァニア王国とアルメスト帝国を隔てる大河、ライン川に架かる『双竜橋』。

 数日前まで、ここは両軍が銃口を向け合い、一触即発の緊張が張り詰めていた最前線だった。

 しかし今、橋の上には砲声も怒号もない。

 あるのは、川面を渡る風の音と、歴史の転換点に立ち会う数千の兵士たちの、息を呑むような気配だけだ。


 時刻は午前五時。

 東の空が白み始め、世界が深い瑠璃(ラピスラズリ)色に染まる時間。

 『夜明け前』。

 私たちが最も愛し、そして待ち望んだ(とき)だ。


「……寒くありませんか、セレスタ」


 隣に立つアレンが、小声で気遣ってくれる。

 彼はもう、ボロボロの軍服姿ではない。王宮の仕立て屋が急造した、儀礼用の正装に身を包み、その背筋はピンと伸び、歴戦の英雄の風格を漂わせていた。


「平気よ。……胸が熱くて、寒さなんて感じないわ」


 私もまた、アークレイン家の象徴である蒼いドレスを纏っていた。

 泥だらけの作業着から着替えた時、マリーが「やっぱりお嬢様にはこれが一番です」と泣いて喜んでくれたものだ。


 私たちは今、帝国の代表団として、橋の中央へと歩を進めていた。

 橋の向こう側からは、レーヴァニア王国の代表団が歩いてくる。


 先頭を歩くのは、銀髪を厳格になでつけた初老の男。

 私の父、リオネル・アークレイン大公だ。


 カツ、カツ、カツ。

 父の足音が、橋の石畳に響く。

 無線越しに話したとはいえ、顔を合わせるのはあの「北の離れ」での決裂以来だ。

 

 橋の中央。

 国境線を示す白いラインの前で、私たちは足を止めた。

 距離にして、わずか二メートル。

 けれど、この距離を縮めるために、私たちはどれだけの血と涙を流してきただろう。


 父が、ゆっくりと私を見た。

 その瞳は相変わらず氷のように冷ややか……に見えたが、奥底には以前にはなかった柔らかな光が揺らめいていた。


「……遅かったな」


 父の第一声は、憎まれ口だった。


「お前を待たせるとは、帝国の時計は壊れているのか?」

「いいえ、お父様。……最高の朝日を待っていたのですわ」


 私が微笑んで返すと、父はふっと口元を緩め、視線を私の隣——アレンへと移した。


「……君が、アレン・ヴァルシュか」

「はい。……お初にお目にかかります、アークレイン閣下」


 アレンは緊張した面持ちで、しかし堂々と敬礼した。

 父は、アレンの顔をまじまじと見つめた。まるで、十年前に失った友の面影を探すように。


「……似ているな。頑固そうな目元が、父親そっくりだ」

「父をご存知で?」

「ああ。……私の、唯一の友人だった」


 父の声が、微かに震えた。

 鉄仮面が完全に外れ、そこにはただの「後悔を背負った男」の顔があった。


「……すまなかった。君の父を死なせ、君たちに重荷を背負わせた。……すべては、私の弱さが招いたことだ」


 一国の宰相が、敵国の若者に頭を下げた。

 周囲の兵士たちがどよめく。

 しかし、アレンは静かに首を横に振った。


「頭を上げてください、閣下。……父は、貴方を恨んではいませんでした。そして私も」


 アレンは一歩踏み出し、父に右手を差し出した。


「過去を清算するために、私たちはここに来たのではありません。……父たちが夢見た未来を、ここから始めるために来たのです」


 父は驚き、濡れた瞳でアレンを見つめ……そして、その手を力強く握り返した。


「……ありがとう。……本当に、ありがとう」


 固い握手。

 十年の時を超えて、分断されていた友情が、息子という架け橋を通じて再び繋がった瞬間だった。


「さて、湿っぽい話はここまでだ」


 父は目元を拭い、威儀を正した。

 侍従が、調印用のテーブルを運んでくる。

 その上に置かれたのは、私が命がけで守り抜いた鉄箱と、中に入っていた『蒼い薔薇(恒久平和条約草案)』だ。


「両国の政府は、この草案を基礎とした停戦協定に合意した。……だが、これに署名する資格があるのは、我々老人ではない」


 父は羽ペンを取り、私とアレンに差し出した。


「この条約を完成させなさい。……お前たちの手で」


 これは、単なる調印式ではない。

 世代交代の儀式であり、新しい時代への継承だ。


 私はアレンと顔を見合わせた。

 彼は深く頷いた。

 私たちはテーブルに向かい、並んでペンを執った。


 紙の上には、父と母、そしてアレンの父の署名がある。

 その下に、私たちは新たな歴史を刻む。


 『アルメスト帝国特命全権大使代理:アレン・ヴァルシュ』

 『レーヴァニア王国特命全権大使代理:セレスタ・アークレイン』


 ペン先が紙を走る音が、静寂の中に響く。

 最後の一画を書き終えた瞬間。


 ——サーッ……。


 東の空から、強烈な光が差し込んできた。

 日の出だ。

 瑠璃色だった世界が、黄金色に塗り替えられていく。

 川面が輝き、私たちの顔を照らす。


「……調印、完了」


 父が宣言した。

 その声は、震えていた。


 一瞬の静寂の後。

 わぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!

 両岸から、地鳴りのような歓声が沸き起こった。

 兵士たちが帽子を投げ、抱き合い、涙を流している。

 敵も味方もない。ただ「戦争が終わった」という喜びだけが、国境を埋め尽くしていた。


「……終わりましたね、セレスタ」


 アレンがペンを置き、眩しそうに目を細めた。

 逆光に照らされた彼の横顔は、憑き物が落ちたように穏やかだった。


「いいえ、アレン。……始まりよ」


 私は彼に向き直った。

 公務は終わった。ここからは、私たちの時間だ。


「……ねえ。忘れていないでしょうね?」

「何をです?」

「『シチュー』の約束よ。……私、お腹がペコペコなの」


 私が悪戯っぽく言うと、アレンは吹き出し、それから真剣な眼差しで私を見つめた。


「ええ。行きましょう。……ですがその前に、一つだけ手続きが必要です」

「手続き?」

「条約には署名しましたが……私たち個人の『条約』が、まだ口約束のままですから」


 アレンは私の手を取り、その場に片膝をついた。

 群衆の歓声が一瞬止まり、注目が集まる。

 父が、驚いて目を丸くしている。


「セレスタ・アークレイン」


 アレンは懐から、小さな箱を取り出した。

 中に入っていたのは、宝石のついた指輪ではない。

 道端の露店で売っているような、安物の銀の指輪。

 でも、それは丁寧に磨き上げられ、朝日でキラキラと輝いていた。


「私は、資産も地位もない、ただの貧乏官僚です。……貴女に贅沢な暮らしをさせてあげることはできないかもしれない。また、不味いシチューを食べさせることになるかもしれない」


 彼は真っ直ぐに、私の瞳を見つめた。


「でも、貴女を孤独にさせることだけは、絶対にしません。……貴女が泣く時は隣で泣き、笑う時は隣で笑うことを誓います」


 涙が、溢れて止まらなかった。

 どんなキザな愛の言葉よりも、その不器用な誓いが嬉しかった。


「……私と、結婚してくれませんか」

「……馬鹿な人」


 私は涙を拭い、彼の手を取って立たせた。


「貴方は分かっていないわ。……私は大公令嬢よ? 贅沢には飽き飽きしているの」


 私は彼の首に腕を回し、耳元で囁いた。


「私が欲しいのは、ドレスでも宝石でもない。……貴方の隣という『居場所』だけよ」


 私は彼の唇に、自分の唇を重ねた。

 万雷の拍手と、指笛が鳴り響く。

 父が「やれやれ」と肩をすくめ、それでも祝福するように拍手をしているのが見えた。


 アレンが私を抱きしめ、くるりと回る。

 世界が回る。

 空の青と、川の青、そして私たちの未来の色が混ざり合う。


「……愛しています、セレスタ」

「私もよ、アレン。……これから先も、ずっと」


 私たちは抱き合ったまま、昇りゆく太陽を見上げた。

 母が愛した詩の通りだった。『夜明け前の闇こそが、最も美しい蒼を呼ぶ』。

 長い闇を越えて広がった空は、今、希望に満ちた透き通るような蒼色(スカイブルー)に変わっていた。


 国境の橋の上。

 かつて敵同士だった二つの国が、そして二人の男女が、今ここに一つになった。


 これは、歴史の教科書には「蒼い薔薇の奇跡」として数行で記される出来事かもしれない。

 けれど、私たちにとっては、永遠に色褪せることのない、愛と戦いの記憶。


「さあ、行きましょう。……美味しいシチューを食べに!」


 私は彼の手を引き、光の中へと歩き出した。

 二人の手には、未来への地図がしっかりと握りしめられていた。

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