第35話 蒼き夜明けの誓い
その日の朝、世界は静寂に包まれていた。
場所は、レーヴァニア王国とアルメスト帝国を隔てる大河、ライン川に架かる『双竜橋』。
数日前まで、ここは両軍が銃口を向け合い、一触即発の緊張が張り詰めていた最前線だった。
しかし今、橋の上には砲声も怒号もない。
あるのは、川面を渡る風の音と、歴史の転換点に立ち会う数千の兵士たちの、息を呑むような気配だけだ。
時刻は午前五時。
東の空が白み始め、世界が深い瑠璃色に染まる時間。
『夜明け前』。
私たちが最も愛し、そして待ち望んだ刻だ。
「……寒くありませんか、セレスタ」
隣に立つアレンが、小声で気遣ってくれる。
彼はもう、ボロボロの軍服姿ではない。王宮の仕立て屋が急造した、儀礼用の正装に身を包み、その背筋はピンと伸び、歴戦の英雄の風格を漂わせていた。
「平気よ。……胸が熱くて、寒さなんて感じないわ」
私もまた、アークレイン家の象徴である蒼いドレスを纏っていた。
泥だらけの作業着から着替えた時、マリーが「やっぱりお嬢様にはこれが一番です」と泣いて喜んでくれたものだ。
私たちは今、帝国の代表団として、橋の中央へと歩を進めていた。
橋の向こう側からは、レーヴァニア王国の代表団が歩いてくる。
先頭を歩くのは、銀髪を厳格になでつけた初老の男。
私の父、リオネル・アークレイン大公だ。
カツ、カツ、カツ。
父の足音が、橋の石畳に響く。
無線越しに話したとはいえ、顔を合わせるのはあの「北の離れ」での決裂以来だ。
橋の中央。
国境線を示す白いラインの前で、私たちは足を止めた。
距離にして、わずか二メートル。
けれど、この距離を縮めるために、私たちはどれだけの血と涙を流してきただろう。
父が、ゆっくりと私を見た。
その瞳は相変わらず氷のように冷ややか……に見えたが、奥底には以前にはなかった柔らかな光が揺らめいていた。
「……遅かったな」
父の第一声は、憎まれ口だった。
「お前を待たせるとは、帝国の時計は壊れているのか?」
「いいえ、お父様。……最高の朝日を待っていたのですわ」
私が微笑んで返すと、父はふっと口元を緩め、視線を私の隣——アレンへと移した。
「……君が、アレン・ヴァルシュか」
「はい。……お初にお目にかかります、アークレイン閣下」
アレンは緊張した面持ちで、しかし堂々と敬礼した。
父は、アレンの顔をまじまじと見つめた。まるで、十年前に失った友の面影を探すように。
「……似ているな。頑固そうな目元が、父親そっくりだ」
「父をご存知で?」
「ああ。……私の、唯一の友人だった」
父の声が、微かに震えた。
鉄仮面が完全に外れ、そこにはただの「後悔を背負った男」の顔があった。
「……すまなかった。君の父を死なせ、君たちに重荷を背負わせた。……すべては、私の弱さが招いたことだ」
一国の宰相が、敵国の若者に頭を下げた。
周囲の兵士たちがどよめく。
しかし、アレンは静かに首を横に振った。
「頭を上げてください、閣下。……父は、貴方を恨んではいませんでした。そして私も」
アレンは一歩踏み出し、父に右手を差し出した。
「過去を清算するために、私たちはここに来たのではありません。……父たちが夢見た未来を、ここから始めるために来たのです」
父は驚き、濡れた瞳でアレンを見つめ……そして、その手を力強く握り返した。
「……ありがとう。……本当に、ありがとう」
固い握手。
十年の時を超えて、分断されていた友情が、息子という架け橋を通じて再び繋がった瞬間だった。
「さて、湿っぽい話はここまでだ」
父は目元を拭い、威儀を正した。
侍従が、調印用のテーブルを運んでくる。
その上に置かれたのは、私が命がけで守り抜いた鉄箱と、中に入っていた『蒼い薔薇(恒久平和条約草案)』だ。
「両国の政府は、この草案を基礎とした停戦協定に合意した。……だが、これに署名する資格があるのは、我々老人ではない」
父は羽ペンを取り、私とアレンに差し出した。
「この条約を完成させなさい。……お前たちの手で」
これは、単なる調印式ではない。
世代交代の儀式であり、新しい時代への継承だ。
私はアレンと顔を見合わせた。
彼は深く頷いた。
私たちはテーブルに向かい、並んでペンを執った。
紙の上には、父と母、そしてアレンの父の署名がある。
その下に、私たちは新たな歴史を刻む。
『アルメスト帝国特命全権大使代理:アレン・ヴァルシュ』
『レーヴァニア王国特命全権大使代理:セレスタ・アークレイン』
ペン先が紙を走る音が、静寂の中に響く。
最後の一画を書き終えた瞬間。
——サーッ……。
東の空から、強烈な光が差し込んできた。
日の出だ。
瑠璃色だった世界が、黄金色に塗り替えられていく。
川面が輝き、私たちの顔を照らす。
「……調印、完了」
父が宣言した。
その声は、震えていた。
一瞬の静寂の後。
わぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!
両岸から、地鳴りのような歓声が沸き起こった。
兵士たちが帽子を投げ、抱き合い、涙を流している。
敵も味方もない。ただ「戦争が終わった」という喜びだけが、国境を埋め尽くしていた。
「……終わりましたね、セレスタ」
アレンがペンを置き、眩しそうに目を細めた。
逆光に照らされた彼の横顔は、憑き物が落ちたように穏やかだった。
「いいえ、アレン。……始まりよ」
私は彼に向き直った。
公務は終わった。ここからは、私たちの時間だ。
「……ねえ。忘れていないでしょうね?」
「何をです?」
「『シチュー』の約束よ。……私、お腹がペコペコなの」
私が悪戯っぽく言うと、アレンは吹き出し、それから真剣な眼差しで私を見つめた。
「ええ。行きましょう。……ですがその前に、一つだけ手続きが必要です」
「手続き?」
「条約には署名しましたが……私たち個人の『条約』が、まだ口約束のままですから」
アレンは私の手を取り、その場に片膝をついた。
群衆の歓声が一瞬止まり、注目が集まる。
父が、驚いて目を丸くしている。
「セレスタ・アークレイン」
アレンは懐から、小さな箱を取り出した。
中に入っていたのは、宝石のついた指輪ではない。
道端の露店で売っているような、安物の銀の指輪。
でも、それは丁寧に磨き上げられ、朝日でキラキラと輝いていた。
「私は、資産も地位もない、ただの貧乏官僚です。……貴女に贅沢な暮らしをさせてあげることはできないかもしれない。また、不味いシチューを食べさせることになるかもしれない」
彼は真っ直ぐに、私の瞳を見つめた。
「でも、貴女を孤独にさせることだけは、絶対にしません。……貴女が泣く時は隣で泣き、笑う時は隣で笑うことを誓います」
涙が、溢れて止まらなかった。
どんなキザな愛の言葉よりも、その不器用な誓いが嬉しかった。
「……私と、結婚してくれませんか」
「……馬鹿な人」
私は涙を拭い、彼の手を取って立たせた。
「貴方は分かっていないわ。……私は大公令嬢よ? 贅沢には飽き飽きしているの」
私は彼の首に腕を回し、耳元で囁いた。
「私が欲しいのは、ドレスでも宝石でもない。……貴方の隣という『居場所』だけよ」
私は彼の唇に、自分の唇を重ねた。
万雷の拍手と、指笛が鳴り響く。
父が「やれやれ」と肩をすくめ、それでも祝福するように拍手をしているのが見えた。
アレンが私を抱きしめ、くるりと回る。
世界が回る。
空の青と、川の青、そして私たちの未来の色が混ざり合う。
「……愛しています、セレスタ」
「私もよ、アレン。……これから先も、ずっと」
私たちは抱き合ったまま、昇りゆく太陽を見上げた。
母が愛した詩の通りだった。『夜明け前の闇こそが、最も美しい蒼を呼ぶ』。
長い闇を越えて広がった空は、今、希望に満ちた透き通るような蒼色に変わっていた。
国境の橋の上。
かつて敵同士だった二つの国が、そして二人の男女が、今ここに一つになった。
これは、歴史の教科書には「蒼い薔薇の奇跡」として数行で記される出来事かもしれない。
けれど、私たちにとっては、永遠に色褪せることのない、愛と戦いの記憶。
「さあ、行きましょう。……美味しいシチューを食べに!」
私は彼の手を引き、光の中へと歩き出した。
二人の手には、未来への地図がしっかりと握りしめられていた。




