第31話 蒼き声の演説
『——帝国民の皆さん。聞こえますか』
私の声が、マイクを通じて電気信号に変わり、雨に濡れた帝都の空へと放たれた。
スタジオの中は、戦場だった。
バリケードの向こうでは、憲兵隊が扉をこじ開けようと斧を振るっている。
ドガン、ドガン、という暴力的な音が響くたび、護衛の兵士たちが銃を構え直す。
いつ突入されてもおかしくない。私の命は、風前の灯火だ。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
ガラスの向こう、調整卓の前に座るアレンと目が合ったからだ。
彼はヘッドホンを片耳に当て、無数のスイッチを操作しながら、私に向かって静かに頷いた。
『大丈夫。君の声は届いている』
その瞳がそう語っていた。
彼が守ってくれているこの回線を、一秒たりとも無駄にはできない。
「私は、レーヴァニア王国のセレスタ・アークレインです。……貴方がたが『魔女』と呼び、忌み嫌う敵国の女です」
私はあえて、挑発的な言葉から始めた。
ラジオを聞いている人々は、今頃驚愕し、憎悪をたぎらせているだろう。
それでいい。無関心よりはずっといい。
「私はこの国に来て、多くのものを見ました。……煤にまみれた空。疲れ切った労働者たち。そして、高騰するパンと、薄められたスープ」
脳裏に浮かぶのは、アレンと食べたあの安酒場の光景。
塩辛くて、泥のような味のシチュー。
「貴方がたの指導者は言います。『戦争に勝てば、生活は豊かになる』と。『隣国から奪えば、腹いっぱい食べられる』と。……ですが、それは嘘です」
私は手元の資料——アレンが集めた軍部の裏帳簿を握りしめた。
「戦争が始まってから、貴方がたの生活は豊かになりましたか? ……いいえ、逆のはずです。物価は上がり、家族は戦場へ奪われ、食卓からは笑顔が消えた。……肥え太ったのは、兵器を作る一部の貴族たちだけです」
バリケードの一部が破られ、憲兵の銃口が覗く。
銃弾が天井を掠めた。
私は悲鳴を上げそうになるのを堪え、声を張り上げた。
「私は知っています! 貴方がたが本当は、戦争なんて望んでいないことを! ただ、今日を生き延びたいだけだということを!」
——届いて。お願い、届いて。
闇市の老人へ。地下水道の脱走兵たちへ。
そして、アレンの母、マーサさんへ。
「私の父、アークレイン大公もまた、貴方がたの敵として描かれています。……ええ、父は冷酷な男かもしれません。……ですが」
私は胸元のポケットから、古びた手帳を取り出した。
『蒼い薔薇』。
十年前の真実。
「十年前。……私の父と、貴国の外交官は、ある『約束』を交わしていました。……それは、戦争ではなく、平和によって両国を救うための条約でした」
マイクに向かって、条約草案の表紙を見せることはできない。
だから、私は言葉で紡いだ。
「関税をなくし、互いの資源を分け合い、手を取り合って生きる未来。……それが、かつて確かに存在した『可能性』だったのです。ですが、それは軍部の野心によって握りつぶされました。……その条約を作った貴国の外交官は、口封じのために戦場へ送られ、殺されました」
アレンの背中が、ピクリと震えた。
私は彼を見つめたまま、告げた。
「その外交官の名前は、フレデリック・ヴァルシュ。……今、私の目の前で、命がけでこの放送を守っている、アレン・ヴァルシュ事務官の父です」
アレンが驚いたように顔を上げた。
私は涙ぐみながら微笑んだ。
言ってやるわ。貴方の名前を。貴方のお父様の名誉を。
貴方は「裏切り者」なんかじゃない。この国の誇りなのだと。
「アレン・ヴァルシュは、父の遺志を継ぎ、平和のために戦い続けました。……私を守るために銃弾を受け、左遷され、それでも諦めずにこの真実を私に託しました」
ドォォォン!!
爆発音がして、扉が完全に吹き飛んだ。
黒煙と共に、憲兵隊が雪崩れ込んでくる。
「放送を止めろ! 殺せ!!」
隊長が叫ぶ。
護衛の兵士たちが応戦するが、多勢に無勢だ。
アレンが立ち上がり、松葉杖を捨てて、調整卓の前に仁王立ちになった。
彼は自分の身体を盾にして、放送機材を守ろうとしている。
時間がない。
これが、最期の言葉になるかもしれない。
私はマイクを両手で包み込み、祈るように叫んだ。
「私は、敵国の女です! ……でも、私はこの国を憎めなかった!」
涙が溢れて、頬を伝う。
「だって、この国のシチューは温かかった! 貧民街の人々は優しかった! ……そして何より、私はこの国で、世界で一番愛する人と出会ったから!」
私の言葉に、突入してきた憲兵たちが一瞬、足を止めた。
ラジオの向こうの何百万という人々が、息を飲んだ気配がした。
「私が愛したのは、国境線でも、イデオロギーでもありません! ……この国の土と、そこに生きる貴方がたです!」
これは外交官としての演説ではない。
一人の恋する女の、魂の告白だ。
「お願いです、銃を置いてください! ……隣人を殺さないで! その引き金は、貴方の家族に向けられているのと同じなのです!」
「黙れェッ!!」
憲兵の一人が、私に向けて発砲した。
バァン!
衝撃。
マイクスタンドが弾け飛び、火花が散る。
私は床に投げ出された。
「セレスタ!!」
アレンが叫び、足を引きずって私に覆いかぶさる。
その背中に、憲兵たちの銃口が向けられる。
万事休す。
放送は途切れた。
私たちはここで死ぬ。
「……よくやった。見事だったよ」
アレンが私の耳元で囁いた。
彼は震えていたけれど、その顔は晴れやかだった。
「貴様ら、終わりだ!」
憲兵隊長が軍刀を抜き、アレンの首に突きつける。
私はアレンにしがみついた。
死ぬなら一緒だ。
その時だった。
——ウウウウウウウウッ!!
窓の外から、地響きのような音が聞こえてきた。
サイレンではない。
それは、無数の人々の「声」だった。
「な、なんだ!?」
憲兵たちが狼狽えて窓に駆け寄る。
私もアレンに支えられながら、割れた窓から下を覗き込んだ。
そして、息を飲んだ。
放送局を取り囲む大通りを、群衆が埋め尽くしていた。
市民だ。
鍋や釜を持った主婦、スコップを持った労働者、杖をついた老人。
数千、いや数万の人々が、雪崩のように放送局へ押し寄せている。
『戦争反対!』
『ヴァルシュを殺すな!』
『あのお嬢ちゃんを助けろ!』
怒号と歓声が入り混じったシュプレヒコール。
それは、先ほどまでの「作られた熱狂」ではない。本物の、民意の爆発だった。
「馬鹿な……! 暴動だと!? 鎮圧しろ!」
隊長が無線で叫ぶが、返ってくるのは悲鳴だけだ。
「無理です! 数が多すぎます! 兵士たちの中にも、銃を捨てる者が……!」
私の声は、届いたのだ。
アレンが繋いでくれた電波に乗って、人々の凍りついた心に火をつけたのだ。
さらに、遠くから砲撃のような音がした。
しかしそれは破壊の音ではなかった。
軍の主力部隊の一部が、反旗を翻して議会へ向かった合図の空砲だった。
「……聞こえますか、セレスタ」
アレンが私の肩を抱き、涙ぐみながら言った。
「これが、君が起こした奇跡です。……『蒼い薔薇』が、咲いたんですよ」
眼下に広がる、人の波。
その一人一人が、私たちの味方だ。
私は力が抜け、その場にへたり込んだ。
安堵と、感動で、涙が止まらなかった。
憲兵たちは動揺し、武器を下げ始めた。
もはや彼らに、私たちを処刑する大義名分はない。
外には数万の証人がいるのだから。
「……勝ちましたね」
アレンが私を抱きしめる。
泥と汗の匂い。
今までで一番、温かくて、力強い抱擁。
「ええ。……勝ったわ」
私は彼の背中に腕を回し、泣きじゃくった。
私たちは生き残った。
そして、世界を変えたのだ。
雨が上がり、雲の切れ間から光が差し込む。
その光は、放送局の塔を、そして抱き合う私たちを、祝福するように照らし出していた。
これが、帝国の「長い一日」の終わりであり、新しい時代の夜明けだった。




