第29話 夜明け前の誓い
地下水道の隠れ家に、かりそめの静寂が訪れていた。
作戦開始まで、あと三時間。
兵士たちは泥だらけの簡易ベッドで、あるいは壁にもたれて、死んだように眠っている。
明日になれば、彼らの多くは命を落とすかもしれない。
それでも、彼らの寝息は穏やかだった。希望という名の灯火が、この暗い地下室を照らしているからだろうか。
私は眠れなかった。
毛布にくるまり、天井のコンクリートの染みを見つめていた。
目を閉じれば、明日の光景が浮かんでくる。
銃声。怒号。そして、アレンが……。
(駄目よ、悪い想像をしては)
私は首を振り、そっと起き上がった。
部屋の隅、通信機材が置かれた一角に、小さなランプの光が見える。
アレンだ。
彼はまだ起きていた。
私は音を立てないように近づいた。
彼はヘッドホンを耳に当て、複雑な配線を調整していた。
その背中は、以前よりもずっと痩せて小さく見えたけれど、纏っている空気は研ぎ澄まされた刃物のように鋭い。
「……眠れないのですか?」
振り返りもせず、彼が言った。
私は苦笑して、彼の隣の木箱に腰掛けた。
「ええ。……貴方こそ、少しは休まないと」
「私は大丈夫です。……機材の最終チェックをしておきたくて」
彼はヘッドホンを外し、私の方を向いた。
ランプの光に照らされたその顔は、疲労の色が濃かった。目の下の隈、無精髭、そして頬の傷跡。
痛々しい。
けれど、眼鏡のないその瞳は、吸い込まれるほど深く、優しかった。
「……足、痛みますか?」
私が彼の左足を指差すと、彼は薄く笑って、包帯の上から軽く叩いた。
「少し疼きます。……雨が降っているのかもしれませんね」
「無理をしないで。……私が代わろうか?」
「いいえ。……これは、私の仕事ですから」
アレンは視線を機材に戻し、愛おしそうに真空管を撫でた。
「父は、言葉で国を守ろうとしました。……私は、その父の夢を継いだつもりでしたが、結局は何も守れなかった。……多くの仲間を死なせ、君を危険に晒し、こうして武器を取ることになってしまった」
彼の声に、微かな悔恨が滲む。
彼は、まだ自分を責めているのだ。
理想と現実の狭間で、傷つきながら。
「……でも、今度こそ」
彼は拳を握りしめた。
「この放送で、終わらせます。……父が届かなかった声を、君の声に乗せて、世界中に届けてみせる。……それが、生き残った私の、最後の贖罪です」
贖罪。
そんな悲しい言葉を使わないで。
私は彼の手を両手で包み込んだ。
冷たくて、ごつごつした手。
「アレン。……それは贖罪じゃないわ」
「……」
「希望よ。……貴方が生き残ってくれたから、私たちはこうして繋がることができた。……貴方の戦いは、決して無駄じゃなかったわ」
私が真っ直ぐに見つめると、彼は目を見開き、それから……泣きそうな顔で微笑んだ。
「……君には、敵いませんね。……昔から」
「昔って、たった数ヶ月前のことよ?」
「私にとっては、もう何年も前のように感じます。……あの港で、君に『通訳はいらない』と言われた日が」
懐かしい記憶。
灰色だった世界が、鮮やかに色づき始めたあの日々。
「あの時の君は、強くて、眩しくて……手も届かない高嶺の花でした。……まさか、こんな泥だらけの地下で、肩を並べることになるとは」
「幻滅した?」
「まさか」
アレンは首を振り、私の手を引き寄せた。
「……恋をしました。……何度も、何度も」
彼の直球の言葉に、心臓が跳ねる。
顔が熱くなるのを感じた。
「安酒場で、不味いシチューを平らげた君に。……雨の教会で、弱さを見せてくれた君に。……そして今、この絶望的な状況で、誰よりも前を向いている君に」
彼の指先が、私の頬を伝う。
その触れ方は、壊れ物を扱うように繊細で、震えていた。
「……私もよ」
私は彼の掌に頬を押し付けた。
「私も、貴方に恋をしたわ。……不器用で、真面目で、誰よりも優しい貴方に」
私たちは見つめ合った。
言葉はいらなかった。
互いの瞳に映る、自分自身の姿。
泥と煤にまみれた、みすぼらしい男女。
けれど、今の私には、世界中のどんな宝石よりも美しく見えた。
「……ねえ、アレン」
「はい」
「約束、覚えている?」
「……シチューのことですか?」
彼は悪戯っぽく片眉を上げた。
「ええ。……『次はもっと美味しい店を探しておく』って言ったわよね?」
「言いましたね。……まだ、果たせていませんが」
「だから、明日は絶対に生きて帰るの」
私は彼の胸ぐらを掴み、引き寄せた。
至近距離。
彼の鼓動が聞こえる。
「放送が終わったら、王都へ行きましょう。……私の故郷へ」
「……王都へ?」
「ええ。王都には『銀の匙』という、すごく高いレストランがあるの。……そこで、最高級のシチューをご馳走してちょうだい」
「……高そうですね。私の安月給では、皿洗いをしないといけないかもしれない」
「構わないわ。……私も一緒に洗うから」
二人で笑い合った。
涙が滲むような、切ない笑い。
これは叶わぬ夢物語なんかじゃない。
私たちが未来を信じるための、祈りのような約束だ。
「……分かりました。約束します」
アレンは真剣な表情に戻り、私の腰に手を回した。
「必ず、君をそこへ連れて行きます。……そして、君の父上にも挨拶に行かなければなりませんね」
「ふふ、お父様? きっと激怒するわよ。『どこの馬の骨だ』って」
「でしょうね。……でも、私は引き下がりませんよ。君を幸せにする権利を、誰にも譲るつもりはありませんから」
その言葉が、私の心の最後の鍵を開けた。
もう、我慢できなかった。
「……アレン」
私は背伸びをして、彼の首に腕を回した。
彼も、何かを堪えるように息を飲み、それから強く、私を抱きしめた。
唇が重なる。
不器用で、少し塩辛い、涙の味がするキス。
初めてのキス。
これが最後かもしれない。
そんな恐怖を塗り潰すように、私たちは何度も口づけを交わした。
互いの体温を、匂いを、鼓動を、魂に刻みつけるように。
「……愛しています、セレスタ」
唇が離れた瞬間、彼が囁いた。
病室で聞いた時よりも、ずっと力強く、生気に満ちた声だった。
「私もよ。……世界で一番、愛してる」
私は彼の胸に額を押し当て、乱れた呼吸を整えた。
恐怖は消えていた。
この温もりが、私を無敵にしてくれる。
「……そろそろ、時間です」
アレンが時計を見た。
午前五時。
兵士たちが起き出す時間だ。
私たちは身体を離した。
名残惜しいけれど、ここからは「恋人」ではなく「戦友」に戻らなければならない。
「行きましょう、アレン」
「ええ。……世界を変えに」
アレンは松葉杖をつき、私はランプを手にした。
二人の影が、地下道の壁に長く伸びる。
「総員、起床!」
ジャックの声が響き渡る。
兵士たちが一斉に起き上がり、武器を手にする。
彼らの顔には、もう迷いはなかった。
私たちは円陣を組んだ。
汚れた手と手が重なり合う。
「作戦目標は、帝都中央放送局の占拠! そして、全土への真実の放送だ!」
アレンが叫ぶ。
「我々は捨て石ではない! この国の未来を切り開く、最初の礫だ! 行くぞ!」
「「オオオオオッ!!」」
雄叫びが地下道を震わせる。
私たちは地上への梯子を登り始めた。
頭上のマンホールの隙間から、薄明かりが差し込んでいる。
夜明けだ。
決戦の朝が来た。
私は胸元の『蒼い薔薇』を押さえ、深呼吸をした。
冷たい朝の空気が、肺を満たす。
(見ていて、お父様。……そして、この国のすべての人たち)
私は光の中へと飛び出した。
隣には、最愛の人がいる。
もう何も、怖くない。




