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蒼き大公家の令嬢は、敵国の青年官僚に恋をする 〜捨てられた令嬢と左遷された官僚が、世界を覆す最強のふたりになる話〜  作者: ぱる子
第4章:国境を越える愛

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第29話 夜明け前の誓い

 地下水道の隠れ家に、かりそめの静寂が訪れていた。

 作戦開始まで、あと三時間。

 兵士たちは泥だらけの簡易ベッドで、あるいは壁にもたれて、死んだように眠っている。

 明日になれば、彼らの多くは命を落とすかもしれない。

 それでも、彼らの寝息は穏やかだった。希望という名の灯火が、この暗い地下室を照らしているからだろうか。


 私は眠れなかった。

 毛布にくるまり、天井のコンクリートの染みを見つめていた。

 目を閉じれば、明日の光景が浮かんでくる。

 銃声。怒号。そして、アレンが……。


(駄目よ、悪い想像をしては)


 私は首を振り、そっと起き上がった。

 部屋の隅、通信機材が置かれた一角に、小さなランプの光が見える。

 アレンだ。

 彼はまだ起きていた。


 私は音を立てないように近づいた。

 彼はヘッドホンを耳に当て、複雑な配線を調整していた。

 その背中は、以前よりもずっと痩せて小さく見えたけれど、纏っている空気は研ぎ澄まされた刃物のように鋭い。


「……眠れないのですか?」


 振り返りもせず、彼が言った。

 私は苦笑して、彼の隣の木箱に腰掛けた。


「ええ。……貴方こそ、少しは休まないと」

「私は大丈夫です。……機材の最終チェックをしておきたくて」


 彼はヘッドホンを外し、私の方を向いた。

 ランプの光に照らされたその顔は、疲労の色が濃かった。目の下の隈、無精髭、そして頬の傷跡。

 痛々しい。

 けれど、眼鏡のないその瞳は、吸い込まれるほど深く、優しかった。


「……足、痛みますか?」


 私が彼の左足を指差すと、彼は薄く笑って、包帯の上から軽く叩いた。


「少し疼きます。……雨が降っているのかもしれませんね」

「無理をしないで。……私が代わろうか?」

「いいえ。……これは、私の仕事ですから」


 アレンは視線を機材に戻し、愛おしそうに真空管を撫でた。


「父は、言葉で国を守ろうとしました。……私は、その父の夢を継いだつもりでしたが、結局は何も守れなかった。……多くの仲間を死なせ、君を危険に晒し、こうして武器を取ることになってしまった」


 彼の声に、微かな悔恨が滲む。

 彼は、まだ自分を責めているのだ。

 理想と現実の狭間で、傷つきながら。


「……でも、今度こそ」


 彼は拳を握りしめた。


「この放送で、終わらせます。……父が届かなかった声を、君の声に乗せて、世界中に届けてみせる。……それが、生き残った私の、最後の贖罪です」


 贖罪。

 そんな悲しい言葉を使わないで。

 私は彼の手を両手で包み込んだ。

 冷たくて、ごつごつした手。


「アレン。……それは贖罪じゃないわ」

「……」

「希望よ。……貴方が生き残ってくれたから、私たちはこうして繋がることができた。……貴方の戦いは、決して無駄じゃなかったわ」


 私が真っ直ぐに見つめると、彼は目を見開き、それから……泣きそうな顔で微笑んだ。


「……君には、敵いませんね。……昔から」

「昔って、たった数ヶ月前のことよ?」

「私にとっては、もう何年も前のように感じます。……あの港で、君に『通訳はいらない』と言われた日が」


 懐かしい記憶。

 灰色だった世界が、鮮やかに色づき始めたあの日々。


「あの時の君は、強くて、眩しくて……手も届かない高嶺の花でした。……まさか、こんな泥だらけの地下で、肩を並べることになるとは」

「幻滅した?」

「まさか」


 アレンは首を振り、私の手を引き寄せた。


「……恋をしました。……何度も、何度も」


 彼の直球の言葉に、心臓が跳ねる。

 顔が熱くなるのを感じた。


「安酒場で、不味いシチューを平らげた君に。……雨の教会で、弱さを見せてくれた君に。……そして今、この絶望的な状況で、誰よりも前を向いている君に」


 彼の指先が、私の頬を伝う。

 その触れ方は、壊れ物を扱うように繊細で、震えていた。


「……私もよ」


 私は彼の掌に頬を押し付けた。


「私も、貴方に恋をしたわ。……不器用で、真面目で、誰よりも優しい貴方に」


 私たちは見つめ合った。

 言葉はいらなかった。

 互いの瞳に映る、自分自身の姿。

 泥と煤にまみれた、みすぼらしい男女。

 けれど、今の私には、世界中のどんな宝石よりも美しく見えた。


「……ねえ、アレン」

「はい」

「約束、覚えている?」

「……シチューのことですか?」


 彼は悪戯っぽく片眉を上げた。


「ええ。……『次はもっと美味しい店を探しておく』って言ったわよね?」

「言いましたね。……まだ、果たせていませんが」

「だから、明日は絶対に生きて帰るの」


 私は彼の胸ぐらを掴み、引き寄せた。

 至近距離。

 彼の鼓動が聞こえる。


「放送が終わったら、王都へ行きましょう。……私の故郷へ」

「……王都へ?」

「ええ。王都には『銀の匙』という、すごく高いレストランがあるの。……そこで、最高級のシチューをご馳走してちょうだい」

「……高そうですね。私の安月給では、皿洗いをしないといけないかもしれない」

「構わないわ。……私も一緒に洗うから」


 二人で笑い合った。

 涙が滲むような、切ない笑い。

 これは叶わぬ夢物語なんかじゃない。

 私たちが未来を信じるための、祈りのような約束だ。


「……分かりました。約束します」


 アレンは真剣な表情に戻り、私の腰に手を回した。


「必ず、君をそこへ連れて行きます。……そして、君の父上にも挨拶に行かなければなりませんね」

「ふふ、お父様? きっと激怒するわよ。『どこの馬の骨だ』って」

「でしょうね。……でも、私は引き下がりませんよ。君を幸せにする権利を、誰にも譲るつもりはありませんから」


 その言葉が、私の心の最後の鍵を開けた。

 もう、我慢できなかった。


「……アレン」


 私は背伸びをして、彼の首に腕を回した。

 彼も、何かを堪えるように息を飲み、それから強く、私を抱きしめた。


 唇が重なる。

 不器用で、少し塩辛い、涙の味がするキス。

 初めてのキス。

 

 これが最後かもしれない。

 そんな恐怖を塗り潰すように、私たちは何度も口づけを交わした。

 互いの体温を、匂いを、鼓動を、魂に刻みつけるように。


「……愛しています、セレスタ」


 唇が離れた瞬間、彼が囁いた。

 病室で聞いた時よりも、ずっと力強く、生気に満ちた声だった。


「私もよ。……世界で一番、愛してる」


 私は彼の胸に額を押し当て、乱れた呼吸を整えた。

 恐怖は消えていた。

 この温もりが、私を無敵にしてくれる。


「……そろそろ、時間です」


 アレンが時計を見た。

 午前五時。

 兵士たちが起き出す時間だ。


 私たちは身体を離した。

 名残惜しいけれど、ここからは「恋人」ではなく「戦友」に戻らなければならない。


「行きましょう、アレン」

「ええ。……世界を変えに」


 アレンは松葉杖をつき、私はランプを手にした。

 二人の影が、地下道の壁に長く伸びる。


「総員、起床!」


 ジャックの声が響き渡る。

 兵士たちが一斉に起き上がり、武器を手にする。

 彼らの顔には、もう迷いはなかった。


 私たちは円陣を組んだ。

 汚れた手と手が重なり合う。


「作戦目標は、帝都中央放送局の占拠! そして、全土への真実の放送だ!」


 アレンが叫ぶ。


「我々は捨て石ではない! この国の未来を切り開く、最初の(つぶて)だ! 行くぞ!」

「「オオオオオッ!!」」


 雄叫びが地下道を震わせる。

 私たちは地上への梯子を登り始めた。


 頭上のマンホールの隙間から、薄明かりが差し込んでいる。

 夜明けだ。

 決戦の朝が来た。


 私は胸元の『蒼い薔薇』を押さえ、深呼吸をした。

 冷たい朝の空気が、肺を満たす。


(見ていて、お父様。……そして、この国のすべての人たち)


 私は光の中へと飛び出した。

 隣には、最愛の人がいる。

 もう何も、怖くない。

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