第27話 地下組織の再会
鉄の梯子を降りきると、そこは異界だった。
足首まで浸かる汚水。鼻を曲げるような腐敗臭。
懐中電灯の光が届く範囲はわずかで、その先は漆黒の闇に飲み込まれている。
時折、ネズミが水面を跳ねる音だけが、不気味に響き渡っていた。
「……お嬢様、足元にお気をつけて」
「ええ。ありがとう、マリー」
私たちは互いの手を握りしめ、ぬかるんだ通路を進んだ。
地図はない。
頼りになるのは、「地下にネズミ(脱走兵)がいる」という噂と、私の直感だけだ。
かつて栄華を極めた帝都の地下に、これほど広大な闇が広がっているとは。
まるで、この国の腐敗が具現化したかのようだ。
アレンは本当に、こんな場所にいるのだろうか。
あの潔癖なほど几帳面な彼が、この汚濁の中で息を潜めているなんて。
——ザッ。
不意に、前方の闇から乾いた音がした。
足音だ。それも一つではない。
「……誰だ」
低い声と共に、数本のライトが一斉にこちらに向けられた。
眩しさに目を細める。
光の向こうに、銃口の黒い穴が見えた。
「動くな。……憲兵か?」
男たちの声には殺気が籠もっている。
ボロボロの軍服。伸び放題の髭。
彼らは、噂通り北部戦線から逃げ延びてきた脱走兵たちだ。
追い詰められた獣のような目をしている。
「撃たないで! 私たちは敵じゃないわ!」
私は両手を上げ、ライトの光の中に進み出た。
汚れた作業着姿だが、隠しきれない気品が彼らを戸惑わせたようだ。
「女……?」
「こんな場所に、何をしに来た。スパイか?」
「人を探しているの。……アレン・ヴァルシュという名の男を」
その名前を出した瞬間、彼らの空気が変わった。
警戒から、動揺へ。
「……なぜ、参謀の名を知っている」
一人の男が銃口を下げずに問うた。
参謀。
その響きに、心臓が跳ねる。
やはり、彼はここにいる。そして、ただ隠れているだけではなく、何かを「指揮」しているのだ。
「私は……彼の、友人よ」
「友人だと? 笑わせるな。参謀は貴族や特権階級を一番憎んでいなさる」
「いいえ、違うわ。彼は……」
言いかけたその時。
奥の通路から、静かな、しかしよく通る声が響いた。
「——銃を下ろせ」
その声を聞いた瞬間、私の時間が止まった。
聞き間違えるはずがない。
雨の教会で、血まみれの舞踏会で、私の名を呼んでくれたあの声を。
兵士たちが道を開ける。
闇の奥から、一人の男がゆっくりと姿を現した。
松葉杖をついている。左足を引きずっている。
着ているのは血と泥にまみれた軍服。
黒髪は伸び、頬には新しい傷跡が増えている。かつて彼を象徴していた黒縁眼鏡はない。
けれど、その瞳の奥に宿る理知的な光だけは、少しも変わっていなかった。
「……アレン」
喉が震えて、声にならない。
幻ではない。
彼は生きていた。地獄の底から這い上がり、この地下の王となって、私を待っていてくれたのだ。
「……やはり、君か」
アレンは私を見て、ふっと小さく息を吐いた。
驚いてはいなかった。
まるで、私がここに来ることを最初から知っていたかのように。
「馬鹿な人ですね。……こんな汚い場所まで降りてくるなんて」
「……貴方が、待っていると思ったからよ」
私は駆け出した。
汚水が跳ねるのも構わず、彼に飛びついた。
彼は松葉杖を捨て、倒れそうになる身体を支えながら、片腕で私をしっかりと受け止めた。
強い力。
骨がきしむほど、強く抱きしめられる。
泥と鉄の匂い。そして、愛しい彼の体温。
「……生きてた……! 本当によかった……!」
涙は出なかった。
ただ、体中の血が沸騰するような歓喜があった。
彼が生きてさえいれば、世界が滅んでも構わないとさえ思った。
「君こそ……無事だったんですね。あの国から逃げ出してくるなんて」
「当たり前でしょ。……貴方が『生きろ』って言ったんじゃない。生きるためには、貴方が必要だったのよ」
私は彼の胸に顔を埋めたまま言った。
アレンは私の背中に手を回し、震える声で囁いた。
「信じていました。……君なら必ず、あの『蒼い薔薇』の謎を解き、ここへ戻ってくると」
「……ええ。持ってきたわ」
私は身体を離し、胸元から油紙に包まれた書類を取り出した。
『恒久平和条約草案』。
私たちの希望の結晶。
アレンはそれを受け取ると、愛おしそうに撫でた。
「父の……文字だ」
「貴方のお父様と、私の父が作ったものよ。……彼らは敵同士じゃなかった。友だったの」
「……そうでしたか」
彼は目を細め、天井を見上げた。
そこには何もないコンクリートの壁しかないけれど、彼にはきっと、十年前の父たちの姿が見えているのだろう。
「これで、戦える」
アレンの瞳に、鋭い光が戻った。
官僚としての、そして今は反乱軍の参謀としての光だ。
「場所を変えましょう。……ここは話をするには寒すぎる」
***
案内されたのは、地下道の奥にある、かつての貯水槽を利用した広い空間だった。
そこには、数十人の男たちが屯していた。
簡易ベッドには負傷兵が横たわり、中央のテーブルには帝都の地図や無線機が置かれている。
ここは、レジスタンスの司令部だった。
「……すごいわね。これだけの人数を、貴方が?」
「彼らは皆、北部戦線で『捨て駒』にされた兵士たちです」
アレンは椅子に腰掛け、苦々しく語り始めた。
「第09要塞防衛戦……あれは虐殺でした。上層部は、敵の進軍を遅らせるためだけに、我々を盾にして逃げた。……弾薬も食料も持たせずに」
「……」
「私は、生き残った仲間を率いて脱走しました。……そして誓ったんです。この腐りきった軍部と政府を、内側から食い破ってやると」
彼の言葉には、以前のような「制度の中で変える」という甘さはなかった。
あるのは、修羅の道を歩む覚悟。
彼は、地獄を見て変わったのだ。より強く、より冷徹に。
「アレン。……その足は?」
私が包帯の巻かれた左足を指差すと、彼は淡々と答えた。
「砲撃の破片です。……走ることはできませんが、頭は動きます」
「治療は?」
「最低限のことはしました。……それより、時間がない」
アレンはテーブルの地図を指差した。
「明日正午、帝都市民の総点呼が行われます。それは、政府による恐怖政治の始まりです。……同時に、それを隠れ蓑にして、軍部はレーヴァニアへの本格侵攻作戦『鉄槌』を発動させるつもりです」
「『鉄槌』……?」
「総動員した兵力で、一気に国境を突破し、王都を焦土にする作戦です。……これを許せば、両国は共倒れになる」
戦慄が走る。
父が恐れていた「三ヶ月で地図から消える」という悪夢が、現実になろうとしている。
「止める手段はあるの?」
「あります。……そのために、この『蒼い薔薇』が必要だった」
アレンは条約草案を地図の上に置いた。
「この草案には、十年前に両国が合意しかけた『平和の論理』が詰まっています。そして何より……アークレイン大公と、私の父の署名がある」
「それが、どう役に立つの?」
「正統性です」
彼は私を真っ直ぐに見た。
「現在の戦争指導部は、『レーヴァニアは対話不可能な野蛮国だ』というプロパガンダで国民を扇動しています。しかし、もし『かつて両国は平和条約を結ぶ寸前までいっていた』という事実が公になれば? そして、それを潰したのが軍部の強硬派だったと証明できれば?」
「……国民の支持が揺らぐ」
「ええ。特に、今のような食糧難と強制徴兵に喘ぐ市民たちは、戦争の大義名分を疑い始めるでしょう。……それが、クーデターの引き金になります」
クーデター。
アレンは、この地下組織を使って、政府を転覆させるつもりなのだ。
ペンを捨て、剣を取った彼。
その姿は痛々しく、けれど何よりも頼もしかった。
「……私もやるわ」
私は彼の手を握った。
「私はレーヴァニアの代表として、ここにいる。……この条約を完成させるためには、私のサインが必要でしょう?」
「セレスタ……」
「二人で始めたことよ。最後まで二人でやり遂げましょう」
アレンは一瞬、泣きそうな顔をした。
張り詰めていた糸が緩んだような、少年の顔。
彼は私の手を引き寄せ、その甲に額を押し当てた。
「……ありがとう。君がいてくれて、本当によかった」
その言葉だけで、ここまで来た苦労がすべて報われた気がした。
泥だらけの地下室。
汚れた服。傷ついた身体。
けれど、今ここで私たちは、世界で一番強い絆で結ばれている。
「作戦開始は明朝。……総点呼の裏をかいて、放送局を占拠します」
アレンが顔を上げ、宣言した。
「君の声を、全土に届けるんだ。……『蒼い薔薇』の真実を」
放送局の占拠。
それは命がけの賭けだ。失敗すれば、今度こそ二人とも処刑される。
でも、怖くはなかった。
私はアレンの肩に手を置き、微笑んだ。
「ええ。……最高の演説をしてみせるわ」
地下の隠れ家に、反撃の狼煙が上がる。
失われた時を取り戻し、奪われた未来を掴み取るために。
恋人たちの最後の戦いが、幕を開けようとしていた。




