第26話 変わり果てた帝都
上陸から三日後。
私たちは、貨物列車の荷台に揺られ、帝都アルメストへと戻ってきた。
季節は晩秋から初冬へと移ろい、帝都の空からは冷たい霙が降り注いでいた。
だが、肌を刺す寒さ以上に私を戦慄させたのは、この街を覆う「熱」だった。
かつて私が知る帝都は、煤煙と無関心が漂う、灰色の街だった。
しかし今は、どす黒い赤色に染まっていた。
「……酷い」
物陰から大通りを覗き見たマリーが、口元を押さえて呻く。
街中の至る所に、巨大な垂れ幕やポスターが掲げられていた。
『撃て! 懲らしめよ! 傲慢なるレーヴァニアに鉄槌を!』
『我が国の生存圏を守れ!』
『スパイを見つけたら即通報を!』
そして、醜悪な風刺画。
欲にまみれた豚として描かれた私の父リオネルの顔と、その横で毒蛇のように描かれた私の絵。
『魔女セレスタ、正義の弾丸から逃亡中』
そんな見出しが踊っている。
道行く人々も変わっていた。
かつて安酒場で見かけたような疲れた労働者たちは姿を消し、代わりに殺気立った自警団や、軍歌を歌いながら行進する若者たちが通りを占拠している。
誰も彼もが目を血走らせ、見えない敵を探しているようだった。
「完全に、狂っています……」
「ええ。……これが、戦争なのね」
私はフードを目深に被り直した。
今の私たちは、汚れた作業着を着た出稼ぎ労働者に変装している。顔には煤を塗り、髪も帽子の中に隠している。
だが、もし正体がバレれば、即座に「魔女」として石を投げられ、処刑台へ送られるだろう。
「行きましょう。……まずは、情報を集めないと」
私は震えるマリーの手を引き、路地裏へと消えた。
目指す場所は、アレンが以前教えてくれた「情報の吹き溜まり」——旧市街の地下にある闇市だ。
***
地下の闇市は、腐った油と、絶望の臭いが充満していた。
食糧配給が滞っているのか、人々は痩せ細り、高騰した闇米を奪い合うように買っている。
戦争を賛美する地上の熱狂とは裏腹に、ここには戦争の「痛み」が凝縮されていた。
私たちは、路地の奥にある一軒の古書店に入った。
店主は、片足の義足を引きずった老人だ。
ハンス氏から教わった合言葉——『一番不味いシチューの店はどこだ』と告げると、老人は無言で奥の部屋へと通してくれた。
そこは、反戦派の知識人や、軍を脱走した者たちが身を潜める隠れ家の一つだった。
「……驚いたな。まさか『魔女』ご本人が、死地に戻ってくるとは」
老人がランプを灯し、私をまじまじと見つめた。
私はフードを取り、蒼銀の髪を露わにした。
「取引をお願いします。……この指輪と引き換えに、情報をください」
私は母の形見であるサファイアの指輪を差し出した。
家一つ買えるほどの価値がある宝石だ。
老人は目を丸くしたが、すぐに首を振って押し返した。
「金はいらんよ。……あんたがアレン・ヴァルシュの『想い人』だってことは、ここの連中はみんな知ってる」
「アレンを……ご存知なのですか!?」
「ああ。あいつは官僚のくせに、俺たちみたいなはみ出し者の面倒をよく見てくれたからな。……あんたを助けたせいで左遷されたって聞いた時は、みんなで泣いたもんさ」
老人は悲しげに目を伏せた。
アレン。貴方は本当に、どこに行っても愛される人なのね。
胸が熱くなるのを堪え、私は核心を切り出した。
「彼を探しています。……彼は『北部国境資料整理室』に左遷されたと聞きました。でも、北部は今、激戦区です。彼の安否は……?」
私の問いに、部屋の空気が凍りついた。
老人は言い淀み、奥にいた元軍人らしき男と視線を交わした。
「……嬢ちゃん。覚悟して聞いてくれ」
老人が重い口を開いた。
「開戦と同時に、北部の公務員は全員、現地招集された。アレンもだ。……彼は『第104懲罰大隊』に編入された」
「懲罰……大隊……」
以前、マリーが調べてくれた情報と同じだ。
やはり、彼は最前線に送られたのだ。死ぬために戦う部隊へ。
「その部隊は、三日前の『第09要塞』防衛戦に投入された。……帝国軍は、彼らを捨て駒にして、主力部隊を撤退させたんだ」
「捨て駒……?」
「要塞は陥落した。……レーヴァニア軍の猛砲撃を受けて、跡形もなく消し飛んだそうだ」
目の前が真っ暗になった。
消し飛んだ?
あのアレンが?
「生存者は……?」
「公式発表では『全滅』だ。……捕虜のリストにも名前はない。行方不明者(MIA)扱いだが、あの地獄じゃあ……骨も残らん」
老人は言葉を濁した。
つまり、死んだということだ。
「嘘よ……」
私はふらりとよろめき、壁に手をついた。
嘘だ。信じない。
彼は約束したはずだ。『生きる』と。
私が『蒼い薔薇』を持って戻ってくるのを待つと。
「諦めな、嬢ちゃん。……戦争ってのは、そういうもんだ。いい奴から死んでいく」
元軍人の男が、吐き捨てるように言った。
「あんたも、こんな国にいたら殺されるぞ。さっさと逃げたほうがいい」
部屋中の視線が、私に「憐れみ」を向けている。
可哀想な未亡人を見るような目。
違う。
私は未亡人なんかじゃない。
私は、彼の「共犯者」だ。まだ、終わっていない。
「……感謝します」
私は顔を上げ、乾いた声で言った。
「でも、私は信じません。……死体を確認するまでは」
「嬢ちゃん……」
「彼は、そんな簡単に死ぬような男じゃありません。……どんな泥の中でも、這いつくばって生き延びる、しぶとい人です」
私は胸元の『蒼い薔薇』を服の上から握りしめた。
この書類が、熱を持っている限り、彼もまた熱を持っているはずだ。
根拠はない。ただの女の勘だ。
でも、その勘だけが、今の私を支える唯一のよすがだった。
「……そうか。なら、一つだけ噂を教えてやろう」
私の目に宿る狂気じみた光を見たのか、老人がためらいがちに言った。
「帝都の地下水道に、最近『ネズミ』が住み着いたって噂がある」
「ネズミ?」
「ああ。北部から逃げ延びてきた脱走兵たちが、地下に潜伏しているらしい。……もしかしたら、その中にあんたの探し人がいるかもしれん」
地下水道。
帝都の地下に張り巡らされた、巨大な迷宮。
汚水と闇の世界。
アレンなら。
華やかな表舞台を追われ、泥水をすすることに慣れた彼なら、そこを拠点にするかもしれない。
いや、そうであってくれと願うしかない。
「ありがとう。……行ってみます」
「おいおい、正気か? あそこは憲兵すら寄り付かない無法地帯だぞ! 生きて帰れる保証はねぇ」
「だからこそ、彼はそこにいるはずです」
私はフードを被り直し、店を出ようとした。
その時、ラジオから臨時ニュースが流れた。
『——大本営発表! 我が軍は、国賊およびスパイを一掃するため、明日正午より、帝都市民の総点呼を実施する! 身分証を持たぬ者は、即刻拘束せよ!』
総点呼。
つまり、一軒一軒、しらみつぶしに調べるということだ。
明日になれば、もう地上に逃げ場はない。
動くなら、今夜しかない。
***
外に出ると、霙は冷たい雨に変わっていた。
夜の帝都は、灯火管制によって深い闇に沈んでいる。
その闇の中を、私たちは地下水道の入り口を目指して歩いた。
「お嬢様、本当に……アレン様は生きていらっしゃるでしょうか」
マリーが不安そうに問いかける。
私は強く頷いた。
「生きているわ。……だって、まだ『不味いシチュー』の借りを返してもらっていないもの」
それは強がりだった。
本当は、足がすくむほど怖い。
もし、地下に行っても彼がいなかったら?
もし、そこで彼の死を決定づける証拠を見つけてしまったら?
(いいえ、考えるな。進むのよ、セレスタ)
目的のマンホールの前に立つ。
蓋の隙間からは、強烈な腐臭と、冷たい風が吹き上がってくる。
この下は、地上の秩序が通じない闇の世界。
私は重い鉄の蓋に手をかけた。
冷たく、濡れている。
「行くわよ、マリー」
私は蓋をずらし、暗黒の口を開けた。
ここを降りれば、もう後戻りはできない。
真実を知るか、それとも闇に飲まれるか。
私は、アレンが待っていると信じる奈落へと、その足を一歩踏み出した。




