第25話 戦場となった海
『黒鯨号』の船室は、狭くてカビ臭かったけれど、私にとってはウェディングドレスを脱ぎ捨てるための最高の更衣室だった。
私は純白のドレスを脱ぎ、マリーが船員から借りてきた作業着——ぶかぶかのズボンと、分厚いウールのシャツに着替えた。
美しいレースも、コルセットも、もういらない。
唯一、身につけたままなのは、胸元に隠した『蒼い薔薇(条約草案)』と、太ももの短剣だけだ。
「……似合いますか?」
「ええ。とっても勇ましいですわ、お嬢様」
マリーが涙目で笑う。彼女もまた、商人の娘風の服の上から、汚れてもいいように厚手のジャケットを羽織り、髪をきゅっと結い上げている。
私は長い蒼銀の髪を後ろで束ね、キャスケット帽の中に押し込んだ。
鏡に映る私は、煤で汚れ、男物の服を着ているが、その瞳だけはかつてないほど強く輝いていた。
アークレイン家の令嬢は死んだ。ここにいるのは、ただの密航者だ。
その時、船が大きく揺れ、急停止した。
エンジンの音が止まる。
船体が軋むような、不吉な静寂。
「……何かしら?」
嫌な予感がして、私は甲板へと駆け上がった。
***
甲板に出ると、船員たちが手すりにしがみつき、凍りついたように海を見つめていた。
眼帯の船長が、忌々しげに舌打ちをする。
「クソッ……最悪のタイミングだ。貧乏くじを引いちまったぞ」
私が彼の視線の先を追うと、そこには絶望的な光景が広がっていた。
右舷側、レーヴァニアの方角から、黒い煙を吐きながら迫る巨大な艦影。
アークレイン家の家紋を掲げた、レーヴァニア海軍の駆逐艦だ。
そして左舷側、帝国の領海からは、無骨な鉄の装甲を纏った帝国海軍の巡洋艦が、砲塔をこちらに向けて停泊している。
ここは公海上の緩衝地帯。
私たちは、両国海軍の睨み合いのど真ん中に、飛び込んでしまったのだ。
「囲まれた……」
血の気が引く。
レーヴァニアの駆逐艦から、発光信号が送られてくる。
『貴船ハ停船セヨ。臨検ヲ行ウ』
臨検。つまり、乗り込んで調べるということだ。
もしアークレイン家の私兵が乗り込んできたら、私の顔を見られた瞬間に終わりだ。
かといって、逃げれば撃沈される。
「おしまいだ。降伏するしかねぇ」
船長が弱音を吐き、白旗を用意させようとする。
「待って!」
私は叫んだ。
「降伏したら、私たちはどうなるの?」
「どうなるもこうもねぇ! 密輸の罪で全員縛り首か、運が良くて強制労働だ!」
「だったら、逃げるしかないじゃない!」
「馬鹿言え! 相手は軍艦だぞ! 大砲一発で木端微塵だ!」
船長は私の胸ぐらを掴みかけたが、マリーが間に割って入った。
私は一歩も引かず、船長を睨みつけた。
「……船長。貴方、この海を知り尽くしているんでしょう? ここから一番近い『安全地帯』はどこ?」
「あん? そんなもんあるわけねぇだろ。……強いて言えば、あそこの『魔の三角岩』くらいだが……」
彼が指差したのは、両艦隊のちょうど中間地点にある、岩礁が突き出した危険な海域だった。
波が荒く、渦を巻いている。大型船では座礁必至の難所だ。
「あそこなら、大型艦は入れない。……でも、この船だって入ればバラバラだ」
「やってみなきゃ分からないわ」
「死ぬ気か!?」
「座して縛り首になるのと、一か八か賭けるのと、どっちがマシ!?」
私の剣幕に、船長がたじろぐ。
そこへ、レーヴァニア艦から威嚇射撃の号砲が轟いた。
ドォォォン!!
水柱が船のすぐ横で上がる。船員たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
「……もう時間がないわ」
私は船長の手から舵輪を奪おうとした。
「貴方がやらないなら、私がやる!」
「おい、やめろ! 素人が触るんじゃねぇ!」
「私は外交官の娘よ! 彼らの心理なら分かるわ!」
私は叫んだ。
「見て! レーヴァニア艦も帝国艦も、互いに砲口を向け合っている。……彼らは怖がっているのよ。自分たちが先に撃って、全面戦争の引き金を引くことを!」
これは、アレンと議論した軍事心理学の応用だ。
国境での小競り合いは始まっているが、本格的な艦隊決戦の命令はまだ出ていないはずだ。現場の指揮官は、責任を負うことを何より恐れる。
「私たちが『魔の三角岩』へ逃げ込めば、彼らは追撃できない。……誤って敵艦に砲弾を当ててしまうリスクがあるからよ! 彼らは撃てない!」
船長が目を見開いた。
荒くれ者の彼にはない、冷徹な政治的計算。
それが、一筋の光明に見えたのだろう。
「……クソッ! 女の度胸に負けたとあっちゃ、海の男の名折れだ!」
船長はニヤリと笑い、舵輪を強く握り直した。
「野郎ども! 帆を張れ! エンジン全開だ! あの岩礁の隙間をすり抜けるぞ!」
「「アイアイサー!!」」
船員たちが活気づき、ロープを引く。
『黒鯨号』が大きく傾き、急旋回を始めた。
***
船は波を切り裂き、岩礁地帯へと突っ込んでいく。
背後で、レーヴァニア艦からの砲撃音が連続する。
ドカン! バシャン!
水柱が左右で上がるが、直撃はしない。私の読み通り、彼らは帝国艦への誤射を恐れて、狙いを定めきれていないのだ。
「捕まってろ! 舌噛むぞ!」
船長が叫ぶ。
目の前に、牙のような岩が迫る。
渦巻く潮流。
船体が軋み、悲鳴を上げる。
「いけぇぇぇッ!」
船長が巧みな操舵で、岩と岩の隙間——わずか数メートルの水路を滑り抜けさせる。
船底が岩を擦る嫌な音がしたが、止まらない。
波しぶきが甲板を洗い、私たちはびしょ濡れになった。
そして。
視界がふっと開けた。
「……抜けた!」
誰かが叫んだ。
船は岩礁地帯を突破し、外洋へと飛び出していた。
振り返ると、両国の艦隊は岩礁の向こう側で立ち往生している。これ以上追えば、彼らが座礁するからだ。
「ざまぁみろ!」
船員たちが帽子を投げて歓声を上げる。
私もマリーと抱き合い、膝から崩れ落ちた。
助かった。
アークレイン家の追っ手だけでなく、海軍の包囲網さえも突破したのだ。
「……へっ。とんでもねぇお姫様だ」
船長が呆れたように、しかし尊敬を込めて私を見た。
「あんた、外交官の娘って言ったな。……こりゃあ、親父さんより大物になるかもしれねぇな」
「……買いかぶりすぎよ」
私は濡れた髪をかき上げ、笑った。
足は震えている。心臓もまだ痛いほど脈打っている。
でも、気分は最高だった。
私は自分の力で、運命をこじ開けたのだ。
***
日没が近づく頃。
船は帝国の領海深くへと侵入していた。
遠く水平線に、陸地が見えてくる。
アルメスト帝国、北部沿岸。
アレンがいる場所。
だが、その景色は、私が以前見た灰色の街並みとは違っていた。
「……あれは?」
マリーが指差す先。
海岸線の一部が、赤く染まっていた。
夕焼けではない。
炎だ。
黒煙が空を覆い、時折、閃光が走る。
ドォォォ……ン。
遠雷のような音が、腹の底に響いてくる。
砲撃の音だ。
「……始まっているのね」
私は手すりを握りしめた。
アレンがいるはずの『第09要塞』周辺は、完全な戦闘区域となっていた。
ここからでも分かる。あそこは地獄だ。
「船長。……あの要塞へ向かって」
「はぁ!? 正気か? あそこは今まさに激戦の最中だぞ! 近づく前にハチの巣だ!」
「でも、彼があそこに……!」
「死にに行くつもりか! あんた、男を助けたいんだろ? 一緒に死んでどうする!」
船長の怒号に、私はハッとした。
そうだった。私は死ぬために来たのではない。彼を助け、戦争を終わらせるために来たのだ。
無駄死にしては、託された『蒼い薔薇』も無になる。
「……なら、どこへ行けばいいの?」
「ここから西に外れた漁村だ。そこには軍の補給線——鉄道が通ってる。そこから帝都へ潜り込むなり、前線の情報を集めるなり、生きる道を探せ」
鉄道。帝都。
そうだ。アレンがもし生き延びていれば、あるいは捕虜になっていれば、情報は前線よりも後方——帝都に集まるはずだ。
それに、この条約を活かすためにも、戦場を彷徨うより中枢を目指すべきだ。
「……分かったわ。そこへお願い」
「へっ。ようやく賢い顔に戻ったな」
船長はニヤリと笑い、舵を切った。
私は胸元の『蒼い薔薇』の感触を確かめた。
これがなければ、戦争は終わらない。
そして、アレンを助けることもできない。
遠ざかる戦場の炎を見つめながら、私は誓った。
必ず生き延びる。そして、必ず彼を見つけ出す。
私はマリーの手を握った。
「行くわよ、マリー。……ここからが、私たちの本当の戦いよ」
「はい、お嬢様。……どこまでも」
波飛沫を上げる船首の先に、薄暗い陸地が迫る。
私は蒼い瞳を見開き、その先にある未来を睨み据えた。
待っていて、アレン。
今、貴方の元へ還るわ。




