第23話 花嫁の逃亡準備
『蒼い薔薇』を発見した翌日から、私は人が変わったように大人しくなった。
父の命令通り、本邸へ戻り、花嫁修業に従事した。
刺繍、ダンス、ミルティン家の家系図の暗記。
かつてあれほど反発していたそれらの課題を、私は文句一つ言わず、完璧にこなしてみせた。
「……見事だな」
父リオネルは、私の刺繍を見て満足げに頷いた。
私が「改心」したと信じているようだ。
無理もない。私はアークレイン家の娘として、感情を隠す術を幼い頃から叩き込まれている。
心の中でどれほど舌を出していようと、顔には淑女の微笑みを貼り付けることなど造作もない。
「ガレス殿も喜んでおられる。……明日の式は、盛大なものになるぞ」
「はい、お父様。……アークレイン家の名に恥じぬよう、務めさせていただきます」
私はカーテシーで応えた。
その言葉に嘘はない。
私は明日の式で、アークレイン家の真の使命——「国を守る」という責務を、誰よりも大胆な形で果たすつもりなのだから。
***
結婚式前日の午後。
私の部屋には、純白のウェディングドレスが運び込まれていた。
最高級のシルクとレースで作られた、目のくらむようなドレス。
ガレスが特注させたものだという。
「やあ、僕の小鳥ちゃん。準備は順調かい?」
ノックもなしに、ガレスが入ってきた。
彼は上機嫌で、私の肩を抱いた。
強い香水の匂い。吐き気がするのを、必死で笑顔の下に隠す。
「ええ、ガレス様。素晴らしいドレスですわ」
「だろう? 君の美しさを引き立てるために、金に糸目はつけていないからね」
ガレスは私の顎を持ち上げ、ねっとりとした視線で見つめた。
「正直、君がこんなに素直になるとは思っていなかったよ。……やはり、父親の威厳と、私の財力には勝てなかったかな?」
「……私は、自分の運命を受け入れただけです」
私は目を伏せて答えた。
ガレスは満足そうに笑い、私の頬にキスをした。
「賢い選択だ。……愛だの理想だの、そんなものは貧乏人の暇つぶしだよ。我々のような選ばれた人間には、もっと高貴な『支配』という楽しみがある」
支配。
この男にとって、結婚とは所有であり、支配なのだ。
もし私が本当にこの男と結婚すれば、私は一生、籠の鳥として飼い殺されるだろう。
アレンが愛してくれた「強くて美しいセレスタ」は死に、ただの美しい人形で終わる。
(……ごめんなさい、ガレス様)
私は心の中で冷ややかに呟いた。
(貴方が手に入れようとしているのは、空っぽの抜け殻よ。……中身(魂)はもう、ここにはないの)
「では、明日を楽しみにしているよ。……夜も、たっぷりとね」
ガレスは下卑たウインクを残して去っていった。
扉が閉まった瞬間、私は袖で頬を乱暴に拭った。
汚らわしい。
でも、これでいい。彼らは完全に油断している。
「……マリー」
「はい、お嬢様」
控えていたマリーが、鍵をかける。
ここからは、私たちの本当の「準備」の時間だ。
私はドレスを広げた。
ふんわりと広がるスカート。幾重にも重なるペチコート。
隠す場所はいくらでもある。
「鉄箱ごとは無理ね。重すぎるし、動いた時に音がするわ」
私は箪笥の奥から、あの鉄箱を取り出した。
中身——『恒久平和条約草案』の書類と、父の手記。
それらを丁寧に取り出し、油紙で包み直す。
「これを、私のコルセットと、ペチコートの内側に縫い付けて」
「かしこまりました」
マリーは手際よく針と糸を取り出した。
書類を分散させ、身体のラインに沿うように隠していく。
コルセットのボーン(骨組み)の隙間。
ペチコートのレースの裏側。
厚みが出ないよう、慎重に、かつ絶対に落ちないように。
一時間後。
私は「武器」を纏った花嫁となった。
見た目は変わらない。純白の、美しいドレス姿。
けれど、そのドレスの下には、二つの国の運命を変える爆弾が仕込まれている。
そして、私の太ももには、母の形見の短剣がしっかりと巻かれている。
「……重いわね」
私はスカートを翻してみた。
紙の重み。歴史の重み。
そして、アレンと彼の父、私の両親の想いの重み。
ずしりとくるその感触が、私に勇気をくれる。
「脱出ルートの確認を」
「はい。……明日の式は、正午から大聖堂で行われます。その直前、午前十一時に、お嬢様は本邸から馬車で出発されます」
マリーが小声で説明する。
「出発の直前、花嫁の支度部屋は人払いが行われます。……お父様との最後の挨拶のために」
「ええ。父の性格なら、必ずそうするわ」
「その隙に、裏口から脱出します。……厨房の勝手口に、野菜の納入業者に変装した協力者が馬車を待機させています」
協力者。
アレンの友人の商人、ハンス氏だ。
彼もまた、アレンの生存を信じ、危険を承知で手を貸してくれた。
「港には、密輸船の手配も済んでいます。……出航は午後一時。追っ手を撒いて、なんとしてもその時間までに乗り込まなければなりません」
ギリギリのスケジュールだ。
一度でも躓けば、全てが終わる。
父に見つかれば、今度こそ私は地下牢に繋がれ、『蒼い薔薇』は焼かれるだろう。
「……怖い?」
私が尋ねると、マリーは首を横に振った。
「いいえ。……ワクワクしています。お嬢様が、あんな狐男の奥様にならなくて済むのですから」
「ふふ。……そうね」
私たちは顔を見合わせて笑った。
共犯者の笑み。
これほど心強い友を持てたことを、私は神に感謝した。
***
その夜。
私は一人、鏡の前に立っていた。
月明かりに照らされた自分の姿。
明日の今頃、私はもうここにはいない。
海の上にいるか、あるいは……捕まって地下牢にいるか。
これが、この部屋で過ごす最後の夜。
生まれ育ったアークレイン家との、決別の夜。
私は窓を開け、北の空を見上げた。
星が見える。
この空は、遠く北の戦場とも繋がっている。
(アレン……)
貴方は今、何を見ているの?
冷たい塹壕の中で、同じ星を見ているかしら。
それとも、砲弾の閃光を見ているのかしら。
マリーの情報では、彼は生きている。
生存率一割未満の最前線で、しぶとく生き残っている。
きっと、待っているのだ。
私が約束を果たすのを。
「……思い出すわ」
帝都での日々。
初めて会った時の、冷ややかな視線。
不味いシチューを食べた時の、苦笑い。
雨の教会で分け合った体温。
そして、血まみれになりながら「生きろ」と言った、最期の声。
すべての記憶が、今の私を形作っている。
私はもう、誰かに守られるだけの令嬢ではない。
アレンが愛してくれた、戦う女だ。
「私は、誰かの妻になるために生まれたんじゃない」
鏡の中の自分に向かって、宣言する。
「この国を……貴方を守るために生まれたの」
ドレスの下に隠した条約草案が、心臓の鼓動に合わせて熱を帯びる。
これは「蒼い薔薇」。
不可能を可能にする奇跡の花。
父は言った。「愛などという不確かなもので国は守れん」と。
明日、私はその言葉を覆してやる。
愛こそが、最も強固な武器であり、世界を変える力なのだと証明してみせる。
私は窓を閉め、ベッドに入った。
眠れるはずはないと思っていたが、不思議と心は凪いでいた。
やるべきことが明確になったからだろうか。
夜明けまで、あと数時間。
私の人生で最も長い一日が、もうすぐ始まろうとしていた。




