第22話 灰の中の真実
深夜一時。
北の離れは、完全な闇と静寂に包まれていた。
窓の外では、見張りの私兵たちが交代の合図を交わす足音が聞こえる。彼らが去り、次の見張りが配置につくまでのわずかな空白。
それが、私たちが動ける唯一の時間だった。
「……準備はいい、マリー?」
「はい、お嬢様」
私たちは、動きやすい平服に着替えていた。
手には小さなシャベルと、金槌。そして明かり取りのための、覆いをかけたランプ。
令嬢と侍女の姿ではない。まるで墓荒らしだ。
私は部屋の中央、巨大な石造りの暖炉の前に立った。
黒々と口を開けたその空洞は、長年の煤と埃で汚れている。
母が『一番温かくて、一番暗い場所』と呼んだ場所。
「行きます」
私は躊躇なく、暖炉の中へ身体を滑り込ませた。
狭い。そして息が詰まるような煤の臭い。
ドレスの裾が瞬く間に黒く汚れていくが、気にならなかった。
今の私にとって、この汚れは勲章だ。真実を掴み取るための代償だ。
ランプの薄明かりを頼りに、煙突の内部を照らす。
内壁は耐火煉瓦で覆われており、一見すると何の変哲もない。
(母さんは、一日中ここを見ていた……)
病床の母の視線をなぞる。
彼女の手が届く範囲。
そして、誰かが掃除をしようとしても、簡単には気づかない場所。
私は暖炉の奥、煙突が垂直に立ち上がる手前の、少し煤が溜まりやすい「棚」のような部分に手を伸ばした。
指先でレンガを叩く。
コン、コン。
硬い音。ハズレだ。
「お嬢様、もう少し右ではありませんか? あのレンガだけ、少し色が……」
外で見守るマリーが囁く。
私は彼女が指差した場所——右側の壁の、床から手のひら二つ分ほどの高さにあるレンガを叩いた。
ゴッ、ゴッ。
音が違う。
中が詰まっていない、空洞の音だ。
「……ここね」
私は金槌の柄をレンガの隙間に差し込み、梃子のようにして力を込めた。
古いモルタルがボロボロと崩れ落ちる。
煤が舞い上がり、咳き込みそうになるのを必死で堪える。
ギギギ……。
レンガが動いた。
私はそれを両手で掴み、引き抜いた。
ぽっかりと空いた四角い穴。その奥に、何かが鈍く光っていた。
それは、手のひらサイズの、錆びついた鉄の箱だった。
「あった……!」
私は震える手で箱を引きずり出した。
重い。鉄の重み以上に、そこに込められた時間の重みが、ずしりと腕にかかる。
私は這い出し、床に座り込んだ。
顔も手も真っ黒だ。マリーが慌ててタオルで私の顔を拭いてくれるが、私はそれどころではなかった。
鉄箱には、厳重な南京錠がかかっていた。
鍵はない。
だが、そんなものは問題ではない。
「マリー、金槌を」
私は錠前に金槌を振り下ろした。
一度、二度、三度。
甲高い音が響き、錆びついた錠前が砕け散る。
蓋を開ける。
蝶番が悲鳴を上げ、十年の時を超えて、封印が解かれた。
中に入っていたのは、油紙に包まれた分厚い書類の束と、一冊の革表紙の手帳だった。
湿気対策が完璧だったおかげで、紙の状態は驚くほど良い。
私は震える指で、書類の束を取り出した。
一番上の表紙には、美しいカリグラフィーでこう記されていた。
『レーヴァニア王国・アルメスト帝国 恒久平和条約草案』
『作成日:大陸暦一八九五年 十月四日』
一八九五年。
それは、前回の戦争が勃発する前——父が帝国との交渉を決裂させたとされる日の直前だ。
「……これが、幻の条約……」
ページをめくる。
そこには、驚くべき内容が記されていた。
関税の撤廃、非武装地帯の設置、共同資源開発……。
それは、アレンと私が目指していたものよりも遥かに進んだ、まさに理想的な「共存」の設計図だった。
これを実現していれば、両国は今頃、血を流すことなく繁栄していたはずだ。
そして、書類の末尾。
署名欄を見て、私の心臓が止まった。
『レーヴァニア王国特命全権大使:リオネル・アークレイン』
『立会人:セフィリア・アークレイン』
父と母の署名。
そして、その横に並ぶ、もう一つの名前。
『アルメスト帝国通訳官代表:フレデリック・ヴァルシュ』
「……フレデリック……ヴァルシュ?」
声が震えた。
アレンの、お父様だ。
ただの下級官僚だったはずの彼が、なぜ国家間の条約の署名欄に名を連ねているの?
私は慌てて、もう一冊の革表紙の手帳を開いた。
それは、父の筆跡で書かれた、個人的な備忘録のようだった。
『十月四日。ついに草案が完成した。
帝国の代表団は頑迷だったが、通訳官のフレデリックという男は違った。彼は帝国の利益だけでなく、両国の民の未来を見ていた。
彼となら、語り合える。彼となら、この腐った世界を変えられると確信した』
日記には、父の苦悩と、フレデリックへの友情が綴られていた。
身分も国籍も違う二人の男が、夜を徹して議論し、酒を酌み交わし、この条約を作り上げた日々。
そこには、今の冷徹な父からは想像もできないような「熱」があった。
だが、ページが進むにつれ、筆跡は乱れていく。
『十月十日。帝国内部でクーデター発生。軍部が全権を掌握。
フレデリックからの連絡が途絶えた。彼は「裏切り者」として拘束されたとの情報あり』
『十月十二日。交渉決裂。
軍部は条約案の破棄を要求。さらに、関わった者のリストを提出せよと迫ってきた。
私が拒めば、即座に開戦となるだろう』
そして、最後の日付。
『十月十五日。
私は選ばなければならない。
この夢(条約)を守って国を滅ぼすか、夢を捨てて国を守るか。
フレデリックは死んだと聞いた。私の友は、平和を夢見た罪で殺された。
……ならば、私も心を殺そう。
愛も、友情も、理想も、すべてこの炎に焼べて、ただの冷徹な宰相として生きよう。それが、生き残った者の責務だ』
ページの最後に、走り書きがあった。
『だが、燃やせなかった。
セフィリアが、炎の中からこれを拾い出したのだ。
「これは、未来への種です。いつか氷河期が終わった時、誰かがこれを咲かせなければなりません」と。
……彼女は、これを“蒼い薔薇”と名付けた。
自然界には存在しない、不可能の象徴。
だが、人の手によってのみ、咲かせることができる奇跡の花だと』
——蒼い薔薇。
それが、この条約のことだったのだ。
不可能を可能にするための、先人たちの血と涙の結晶。
涙が、日記の上にぽたりと落ちた。
アレンの父も、私の父も、同じ夢を見ていた。
彼らは敵同士ではなかった。同志だったのだ。
戦争という巨大な暴力によって引き裂かれ、一人は殺され、一人は心を凍らせてしまったけれど。
「……アレン」
私は煤まみれの手で、手記を抱きしめた。
貴方は知っていたのね。
自分たちの父親が、かつて親友だったことを。
だから、私にこれを託した。
『君の父上は、捨てていない』と。
父の心の奥底には、まだフレデリックへの友情と、理想への未練が残っていると信じて。
「お嬢様……!」
マリーが涙ぐみながら、希望に満ちた顔をする。
「これがあれば……これがあれば、旦那様もきっと……! すぐに本邸へ参りましょう! これをお見せすれば、きっとお考えを変えてくださるはずです!」
マリーが立ち上がろうとする。
私もまた、立ち上がりかけた。
今すぐ父の元へ行き、これを突きつけたい。貴方が捨てたはずの心は、ここにあるのだと叫びたい。
——けれど。
私は、その足を止めた。
「……待って、マリー」
「え? どうされたのですか?」
「……駄目よ。今、これをお父様に見せてはいけない」
私は鉄箱を強く抱きしめたまま、首を横に振った。
熱くなった頭が、急速に冷えていく。
冷静にならなければ。
アレンなら、どうする?
「父は一度、心を殺してこれを封印した人よ。十年間、国のために冷徹な仮面を被り続けてきた。……そんな人が、これを見ただけで『はいそうですか』と改心すると思う?」
「そ、それは……」
「逆よ。……父は、今度こそこれを焼くわ」
確信があった。
今の父は、ミルティン家との連携によって国を守ろうと必死だ。
そんな時に、過去の「甘い夢」であるこの草案が出てくれば、父は迷いを断ち切るために、躊躇なくこれを灰にするだろう。
そして、私をさらに厳重な鳥籠へ閉じ込めるはずだ。
「これは……私たちが持っている唯一の武器。切り札なの。こんな鳥籠の中で、内輪揉めのために消費していいものじゃない」
私は窓の外、闇に沈む北の空を見据えた。
その遥か先で、アレンが戦っている。
「これを戦場(外の世界)へ持ち出し、正しく花開かせることこそが、母とアレンの父の願いだわ」
この条約案は、父を説得するための材料ではない。
戦争そのものを止めるための「正当な外交文書」として、しかるべき場所で、しかるべき相手に突きつけなければ意味がないのだ。
「……では、どうするのですか? 結婚式は来週ですよ!?」
「……予定通り、進めるわ」
私は決然と言い放った。
「花嫁修業も受ける。ドレスも着る。……父とガレスを油断させるのよ」
「お嬢様……まさか」
「式の直前、警備が最も手薄になる瞬間を狙って……この『蒼い薔薇』と共に脱出する」
これは賭けだ。
失敗すれば、私はミルティン家に嫁ぐことになる。
だが、成功すれば、世界を変えられる。
私はマリーの手を握った。
「ついてきてくれる? マリー。……これは、国を敵に回す反逆よ」
「……愚問です」
マリーは涙を拭い、力強く頷いた。
「私はアークレイン家の侍女ではありません。セレスタ様の侍女ですから」
私たちは互いに頷き合った。
私は鉄箱を、衣装箪笥の奥深く、誰も触れない古いドレスの中に隠した。
「おやすみなさい、お父様。……そして、さようなら」
私は心の中で、父に別れを告げた。
私はもう、貴方の娘(部品)ではない。
私は、一人の外交官として、貴方と対等なテーブルに着くために、ここを出ていく。
夜明けが近い。
空が白み始めている。
その蒼白い光は、私の決意を祝福するように、静かに部屋を照らし出していた。




