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蒼き大公家の令嬢は、敵国の青年官僚に恋をする 〜捨てられた令嬢と左遷された官僚が、世界を覆す最強のふたりになる話〜  作者: ぱる子
第3章:檻の中の令嬢

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第22話 灰の中の真実

 深夜一時。

 北の離れは、完全な闇と静寂に包まれていた。

 窓の外では、見張りの私兵たちが交代の合図を交わす足音が聞こえる。彼らが去り、次の見張りが配置につくまでのわずかな空白。

 それが、私たちが動ける唯一の時間だった。


「……準備はいい、マリー?」

「はい、お嬢様」


 私たちは、動きやすい平服に着替えていた。

 手には小さなシャベルと、金槌。そして明かり取りのための、覆いをかけたランプ。

 令嬢と侍女の姿ではない。まるで墓荒らしだ。


 私は部屋の中央、巨大な石造りの暖炉の前に立った。

 黒々と口を開けたその空洞は、長年の(すす)と埃で汚れている。

 母が『一番温かくて、一番暗い場所』と呼んだ場所。


「行きます」


 私は躊躇なく、暖炉の中へ身体を滑り込ませた。

 狭い。そして息が詰まるような煤の臭い。

 ドレスの裾が瞬く間に黒く汚れていくが、気にならなかった。

 今の私にとって、この汚れは勲章だ。真実を掴み取るための代償だ。


 ランプの薄明かりを頼りに、煙突の内部を照らす。

 内壁は耐火煉瓦で覆われており、一見すると何の変哲もない。

 

 (母さんは、一日中ここを見ていた……)


 病床の母の視線をなぞる。

 彼女の手が届く範囲。

 そして、誰かが掃除をしようとしても、簡単には気づかない場所。


 私は暖炉の奥、煙突が垂直に立ち上がる手前の、少し煤が溜まりやすい「棚」のような部分に手を伸ばした。

 指先でレンガを叩く。

 コン、コン。

 硬い音。ハズレだ。


「お嬢様、もう少し右ではありませんか? あのレンガだけ、少し色が……」


 外で見守るマリーが囁く。

 私は彼女が指差した場所——右側の壁の、床から手のひら二つ分ほどの高さにあるレンガを叩いた。


 ゴッ、ゴッ。


 音が違う。

 中が詰まっていない、空洞の音だ。


「……ここね」


 私は金槌の柄をレンガの隙間に差し込み、梃子(てこ)のようにして力を込めた。

 古いモルタルがボロボロと崩れ落ちる。

 煤が舞い上がり、咳き込みそうになるのを必死で堪える。


 ギギギ……。

 レンガが動いた。

 私はそれを両手で掴み、引き抜いた。

 ぽっかりと空いた四角い穴。その奥に、何かが鈍く光っていた。


 それは、手のひらサイズの、錆びついた鉄の箱だった。


「あった……!」


 私は震える手で箱を引きずり出した。

 重い。鉄の重み以上に、そこに込められた時間の重みが、ずしりと腕にかかる。


 私は這い出し、床に座り込んだ。

 顔も手も真っ黒だ。マリーが慌ててタオルで私の顔を拭いてくれるが、私はそれどころではなかった。


 鉄箱には、厳重な南京錠がかかっていた。

 鍵はない。

 だが、そんなものは問題ではない。


「マリー、金槌を」


 私は錠前に金槌を振り下ろした。

 一度、二度、三度。

 甲高い音が響き、錆びついた錠前が砕け散る。


 蓋を開ける。

 蝶番が悲鳴を上げ、十年の時を超えて、封印が解かれた。


 中に入っていたのは、油紙に包まれた分厚い書類の束と、一冊の革表紙の手帳だった。

 湿気対策が完璧だったおかげで、紙の状態は驚くほど良い。


 私は震える指で、書類の束を取り出した。

 一番上の表紙には、美しいカリグラフィーでこう記されていた。


 『レーヴァニア王国・アルメスト帝国 恒久平和条約草案』

 『作成日:大陸暦一八九五年 十月四日』


 一八九五年。

 それは、前回の戦争が勃発する前——父が帝国との交渉を決裂させたとされる日の直前だ。


「……これが、幻の条約……」


 ページをめくる。

 そこには、驚くべき内容が記されていた。

 関税の撤廃、非武装地帯の設置、共同資源開発……。

 それは、アレンと私が目指していたものよりも遥かに進んだ、まさに理想的な「共存」の設計図だった。

 これを実現していれば、両国は今頃、血を流すことなく繁栄していたはずだ。


 そして、書類の末尾。

 署名欄を見て、私の心臓が止まった。


 『レーヴァニア王国特命全権大使:リオネル・アークレイン』

 『立会人:セフィリア・アークレイン』


 父と母の署名。

 そして、その横に並ぶ、もう一つの名前。


 『アルメスト帝国通訳官代表:フレデリック・ヴァルシュ』


「……フレデリック……ヴァルシュ?」


 声が震えた。

 アレンの、お父様だ。

 ただの下級官僚だったはずの彼が、なぜ国家間の条約の署名欄に名を連ねているの?


 私は慌てて、もう一冊の革表紙の手帳を開いた。

 それは、父の筆跡で書かれた、個人的な備忘録のようだった。


 『十月四日。ついに草案が完成した。

 帝国の代表団は頑迷だったが、通訳官のフレデリックという男は違った。彼は帝国の利益だけでなく、両国の民の未来を見ていた。

 彼となら、語り合える。彼となら、この腐った世界を変えられると確信した』


 日記には、父の苦悩と、フレデリックへの友情が綴られていた。

 身分も国籍も違う二人の男が、夜を徹して議論し、酒を酌み交わし、この条約を作り上げた日々。

 そこには、今の冷徹な父からは想像もできないような「熱」があった。


 だが、ページが進むにつれ、筆跡は乱れていく。


 『十月十日。帝国内部でクーデター発生。軍部が全権を掌握。

 フレデリックからの連絡が途絶えた。彼は「裏切り者」として拘束されたとの情報あり』


 『十月十二日。交渉決裂。

 軍部は条約案の破棄を要求。さらに、関わった者のリストを提出せよと迫ってきた。

 私が拒めば、即座に開戦となるだろう』


 そして、最後の日付。


 『十月十五日。

 私は選ばなければならない。

 この夢(条約)を守って国を滅ぼすか、夢を捨てて国を守るか。

 フレデリックは死んだと聞いた。私の友は、平和を夢見た罪で殺された。

 ……ならば、私も心を殺そう。

 愛も、友情も、理想も、すべてこの炎に焼べて、ただの冷徹な宰相として生きよう。それが、生き残った者の責務だ』


 ページの最後に、走り書きがあった。


 『だが、燃やせなかった。

 セフィリアが、炎の中からこれを拾い出したのだ。

 「これは、未来への種です。いつか氷河期が終わった時、誰かがこれを咲かせなければなりません」と。

 ……彼女は、これを“蒼い薔薇”と名付けた。

 自然界には存在しない、不可能の象徴。

 だが、人の手によってのみ、咲かせることができる奇跡の花だと』


 ——蒼い薔薇。

 それが、この条約のことだったのだ。

 不可能を可能にするための、先人たちの血と涙の結晶。


 涙が、日記の上にぽたりと落ちた。

 アレンの父も、私の父も、同じ夢を見ていた。

 彼らは敵同士ではなかった。同志だったのだ。

 戦争という巨大な暴力によって引き裂かれ、一人は殺され、一人は心を凍らせてしまったけれど。


 「……アレン」


 私は煤まみれの手で、手記を抱きしめた。


 貴方は知っていたのね。

 自分たちの父親が、かつて親友だったことを。

 だから、私にこれを託した。

 『君の父上は、捨てていない』と。

 父の心の奥底には、まだフレデリックへの友情と、理想への未練が残っていると信じて。


「お嬢様……!」


 マリーが涙ぐみながら、希望に満ちた顔をする。


「これがあれば……これがあれば、旦那様もきっと……! すぐに本邸へ参りましょう! これをお見せすれば、きっとお考えを変えてくださるはずです!」


 マリーが立ち上がろうとする。

 私もまた、立ち上がりかけた。

 今すぐ父の元へ行き、これを突きつけたい。貴方が捨てたはずの心は、ここにあるのだと叫びたい。


 ——けれど。

 私は、その足を止めた。


「……待って、マリー」

「え? どうされたのですか?」

「……駄目よ。今、これをお父様に見せてはいけない」


 私は鉄箱を強く抱きしめたまま、首を横に振った。

 熱くなった頭が、急速に冷えていく。

 冷静にならなければ。

 アレンなら、どうする?


「父は一度、心を殺してこれを封印した人よ。十年間、国のために冷徹な仮面を被り続けてきた。……そんな人が、これを見ただけで『はいそうですか』と改心すると思う?」

「そ、それは……」

「逆よ。……父は、今度こそこれを焼くわ」


 確信があった。

 今の父は、ミルティン家との連携によって国を守ろうと必死だ。

 そんな時に、過去の「甘い夢」であるこの草案が出てくれば、父は迷いを断ち切るために、躊躇なくこれを灰にするだろう。

 そして、私をさらに厳重な鳥籠へ閉じ込めるはずだ。


「これは……私たちが持っている唯一の武器。切り札なの。こんな鳥籠の中で、内輪揉めのために消費していいものじゃない」


 私は窓の外、闇に沈む北の空を見据えた。

 その遥か先で、アレンが戦っている。


「これを戦場(外の世界)へ持ち出し、正しく花開かせることこそが、母とアレンの父の願いだわ」


 この条約案は、父を説得するための材料ではない。

 戦争そのものを止めるための「正当な外交文書」として、しかるべき場所で、しかるべき相手に突きつけなければ意味がないのだ。


「……では、どうするのですか? 結婚式は来週ですよ!?」

「……予定通り、進めるわ」


 私は決然と言い放った。


「花嫁修業も受ける。ドレスも着る。……父とガレスを油断させるのよ」

「お嬢様……まさか」

「式の直前、警備が最も手薄になる瞬間を狙って……この『蒼い薔薇』と共に脱出する」


 これは賭けだ。

 失敗すれば、私はミルティン家に嫁ぐことになる。

 だが、成功すれば、世界を変えられる。


 私はマリーの手を握った。


「ついてきてくれる? マリー。……これは、国を敵に回す反逆よ」

「……愚問です」


 マリーは涙を拭い、力強く頷いた。


「私はアークレイン家の侍女ではありません。セレスタ様の侍女ですから」


 私たちは互いに頷き合った。

 私は鉄箱を、衣装箪笥の奥深く、誰も触れない古いドレスの中に隠した。


 「おやすみなさい、お父様。……そして、さようなら」


 私は心の中で、父に別れを告げた。

 私はもう、貴方の娘(部品)ではない。

 私は、一人の外交官として、貴方と対等なテーブルに着くために、ここを出ていく。


 夜明けが近い。

 空が白み始めている。

 その蒼白い光は、私の決意を祝福するように、静かに部屋を照らし出していた。

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