第21話 母が遺した絵本
開戦の号外が出てから、三日が過ぎた。
北の離れは、以前にも増して厳重な監視下に置かれていた。
門番の私兵は倍増され、庭にはドーベルマンが放たれている。
父は本気で、私をここから一歩も出さずに、来週の結婚式まで飼い殺しにするつもりなのだ。
私は焦燥感に焼かれていた。
部屋中をひっくり返して探した。母の書き物机、タンスの裏、床板の下、カーテンの縫い目……。
けれど、アレンが託した『蒼い薔薇』の手がかりは、どこにも見つからなかった。
(ない。どこにもない……)
窓の外では、今日も冷たい雨が降っている。
北の空を見上げるたびに、胸が締め付けられる。
アレンは今、どうしているだろう。
生きているのか。それとも、もう……。
ガチャリ。
裏口の鍵が開く音がして、私は弾かれたように振り返った。
濡れた外套を頭から被ったマリーが、息を切らして滑り込んできた。彼女は食材の買い出しという名目で、街へ出ていたのだ。
「……マリー!」
「お、お嬢様……」
マリーは膝をつき、肩で息をしていた。その顔は蒼白で、泥にまみれている。
私は駆け寄り、彼女の手を握った。氷のように冷たい。
「無事だったのね。……よかった」
「はい。なんとか、見つからずに……」
彼女は懐から、湿ったメモ用紙を取り出した。
それは、私が彼女に託した密命——アークレイン家に出入りする古参の貿易商、ハンス氏への接触の成果だった。
ハンス氏は、かつてアレンの父とも交流があったという、数少ない「帝国通」の商人だ。彼なら、帝国の軍事動向を知っているかもしれないと踏んだのだ。
「……ハンスさんが、教えてくれました」
マリーの声が震えている。
「帝国の『北部国境・懲罰部隊』の名簿に……アレン・ヴァルシュの名前があったそうです」
懲罰部隊。
その言葉の響きに、血の気が引いた。
それは、軍規違反者や重罪人が送り込まれる、最前線中の最前線。別名「墓場部隊」。
地雷原の処理や、囮としての突撃を命じられる、死刑判決も同然の場所だ。
「……生きているのね?」
「はい。三日前の時点では、生存が確認されています。……ですが」
マリーは言葉を詰まらせ、瞳に涙を溜めた。
「彼らの部隊は、激戦区の『第09要塞』の防衛に回されたそうです。……生存率は、一割未満だと」
一割未満。
目の前が真っ暗になりそうだった。
ペンしか持ったことのない彼が、そんな地獄に。
でも、彼は生きている。
三日前までは、確実に息をしていた。
(アレン……!)
想像する。泥と血にまみれ、凍えるような塹壕の中で、それでも歯を食いしばって前を見据える彼の姿を。
『生きろ』と私に言った彼が、自ら死を選ぶはずがない。
彼は待っているのだ。
私が『蒼い薔薇』を見つけ出し、この不条理な戦争を終わらせるのを。
「……ありがとう、マリー。よくやってくれたわ」
私は震える彼女を抱きしめた。
泣いている場合じゃない。彼が命がけで時間を稼いでくれているのだ。一分一秒も無駄にはできない。
「探さなきゃ。……絶対に、ここにあるはずなの」
私は再び、母の遺品が残る部屋を見回した。
父は「焼き捨てた」と言った。
アレンは「捨てていない」と言った。
そして母は、この離れで最期を迎えた。
父の目から逃れ、かつ確実に未来へ残せる場所。
それは、父が決して近づこうとしなかった場所だ。
私はふらつく足で、部屋の隅にある本棚へ向かった。
そこには、母が愛した詩集や小説、そして私が幼い頃に読み聞かせてくれた絵本が並んでいる。
父は「軟弱な書物」と呼び、決して手を触れなかった本たち。
一冊の絵本が、目に留まった。
背表紙が瑠璃色をした、古びた絵本。
『瑠璃色の鳥と、幸福の王子』。
私が一番好きだった物語だ。
——懐かしい。
手が勝手に伸びていた。
表紙を開くと、そこには母の優美な筆跡で、私の名前が書かれていた。
『愛する娘、セレスタへ』。
ページをめくる。
極彩色の挿絵と共に、優しい物語が蘇る。
宝石の眼を持つ王子と、それを貧しい人々に届けるツバメの話。
母はよく、ベッドの中でこれを読んでくれた。
その声はいつも優しく、でもどこか悲しげだった。
『ママ、どうして王子様はボロボロになっちゃうの?』
『それはね、セレスタ。本当に大切なものを守るためには、自分の身を削らなければならないこともあるのよ』
幼い日の会話がフラッシュバックする。
母は、知っていたのだ。
自分の命を削ってでも、守らなければならない「何か」を。
パラパラとページをめくっていた手が、止まった。
最後のページ。
王子の心臓が砕け、ツバメが死ぬ悲しい結末のページの隅に、鉛筆書きのメモが残されていた。
『パパは、蒼い薔薇なんてこの世に存在しない花だと言って笑ったわ』
心臓が跳ねた。
母の字だ。そして、はっきりと『蒼い薔薇』と書かれている。
『パパは、夢を見るのはやめて、それを灰にしてしまえと言った。……でも、私にはできなかった』
文字が震えている。
母の葛藤と、決意が伝わってくる。
『だからママは、この花の種を隠すことにしたの。……パパにも、誰にも見つけられない場所に』
『そこは、この寒くて寂しい離れの中で、一番温かくて、一番暗い場所よ』
——一番温かくて、一番暗い場所?
私は顔を上げ、部屋の中を見渡した。
北の離れは、冬になれば極寒の地となる。隙間風が吹き込み、母はいつもショールを重ね着していた。
温かい場所なんて、この部屋にあるだろうか。
日当たりの良い窓辺?
いいえ、そこは「暗い場所」ではない。
「一番温かくて……暗い……」
母が、病床でいつも見つめていたもの。
寒がりの母が、一日中その傍を離れなかったもの。
私の視線が、部屋の中央に鎮座する、大きな石造りの暖炉に吸い寄せられた。
今は火が入っていない、黒々とした空洞。
火を入れれば、そこは部屋で「一番温かい場所」になる。
だが、火が消えれば、そこは煤にまみれた「一番暗い場所」だ。
そして何より、父は「焼き捨てた」と信じている。まさか、火を燃やすその場所(暖炉)の中に、燃やすべきものが隠されているとは夢にも思わないだろう。
「灯台下暗し……」
私は絵本を胸に抱きしめた。
間違いない。ここだ。
母は、父の監視の目を欺くために、最も大胆で、最も身近な場所に隠したのだ。
「……マリー」
私は振り返り、侍女を見た。
彼女も私の視線に気づき、ハッと息を飲んだ。
「お嬢様、まさか……」
「ええ。……あの中よ」
私は暖炉を指差した。
「でも、今はまだ昼間だわ。外から煙突を見られたら怪しまれるし、私兵がいつ入ってくるかも分からない」
私は時計を見た。
今は午後三時。
夜になれば、見張りは減り、周囲は闇に包まれる。
「今夜、決行するわ」
「……はい」
「煤まみれになるわよ。ドレスも、手も、真っ黒になるわ」
「構いません。……お嬢様のドレスは、もうとっくに血と泥で汚れていますもの。今更、煤がついたくらいで驚きません」
マリーが力強く微笑んだ。
頼もしい相棒だ。
私は絵本を閉じた。
瑠璃色の表紙が、窓からの薄明かりを受けて鈍く光る。
母さん。
貴女も戦っていたのですね。
病に侵され、父に疎まれながらも、たった一人でこの「希望」を守り抜いた。
父への愛と、未来への祈りを込めて。
(受け取るわ。貴女の遺したバトンを)
私は暖炉の黒い口を見つめた。
そこは、奈落への入り口のようにも、宝箱の鍵穴のようにも見えた。
夜が来るのを待つ時間は、永遠のように長く感じられた。
けれど、私の胸の鼓動は、もう恐怖では震えていなかった。
アレンが北の地で生きている。
母がここで待っていてくれた。
すべての糸が、今夜、一つに繋がろうとしている。




