第20話 開戦の足音
北の離れに幽閉されてから、一週間が過ぎた。
この場所は、本邸の喧騒から切り離され、死んだように静かだった。
聞こえるのは、風が窓を叩く音と、庭の枯れ葉が舞う音だけ。
私は毎日、母の遺した書き物机に向かい、日記を読み返しては、アレンが託した言葉の意味を考えていた。
『蒼い薔薇』。
父が焼き捨てたと言い、アレンが書庫にあると言った希望。
だが、今の私には書庫に行く手段さえなく、ただ無力な時間を過ごすしかなかった。
その日の朝は、異様な雰囲気で始まった。
いつもなら小鳥のさえずりで目が覚める時間なのに、遠くから重苦しい鐘の音が響き渡っていたのだ。
王都の大聖堂の鐘だ。
祝祭の時の軽やかな音色ではない。低く、長く、地を這うような弔いの響き。
「……何かあったのね」
私はベッドから起き上がり、窓に駆け寄った。
鉄格子の向こう、高い塀に囲まれた空は、どんよりとした鉛色をしていた。
屋敷の方角が騒がしい。私兵たちが慌ただしく走り回り、怒号のような声が微かに聞こえてくる。
「お嬢様……!」
扉が開き、マリーが朝食のトレーを持って入ってきた。
彼女の顔色は、シーツのように蒼白だった。
手には、クシャクシャになった紙切れが握られている。
「どうしたの、マリー。その紙は?」
「……裏口の見張りが、読んでいたものを……捨てていったので、拾ってきました」
マリーは震える手で、それを私に差し出した。
それは、新聞の号外だった。
インクの匂いがまだ新しい。
そこには、巨大な見出しが、まるで黒い血で書かれたように踊っていた。
『帝国軍、北部国境を砲撃!』
『我が守備隊と交戦状態に突入——開戦不可避』
心臓が、早鐘を打った。
私は紙面をひったくるようにして読んだ。
『本日未明、北部国境の緩衝地帯において、帝国軍による不当な奇襲攻撃が行われた』
『卑劣なる侵略行為に対し、我が軍は断固たる反撃を開始』
『政府、総動員令の発動を検討中』
文字が、目の中で明滅する。
始まったのだ。
アレンと私が、身を削ってでも止めようとしてきた最悪のシナリオが。
一度動き出せば、もう誰にも止められない巨大な歯車が、軋みながら回転を始めたのだ。
「……嘘よ」
私は新聞を握りしめた。
記事には、帝国がいかに野蛮で、好戦的かが書き連ねられている。
でも、私は知っている。
帝国の現場の人間たちが、どれだけ戦争を回避したがっていたか。
食糧難にあえぐ彼らにとって、戦争は自殺行為だ。
これは、仕組まれた戦争だ。
どちらかが——あるいは双方が、意図的に引き金を引いたのだ。
「お嬢様、戦争……戦争になってしまうのでしょうか」
マリーが泣きそうな声で問う。
私は答えられなかった。
その時、記事の隅にある小さな囲み記事が、私の目に飛び込んできた。
『帝国側、北部方面の公務員および予備役を現地招集』
『国民皆兵の構え』
血の気が引いた。
指先の感覚がなくなる。
世界から音が消え、ただ自分の心臓の音だけが、耳元でガンガンと鳴り響いた。
——アレン。
マリーが商人から聞き出した情報が正しければ、彼は左遷されたはずだ。
行先は、北の最果て。
『北部国境資料整理室』とかいう、名ばかりの閑職へ。
つまり、今まさに砲弾が降り注いでいるその場所に、彼はいるのだ。
「……あっ……」
喉の奥から、乾いた悲鳴が漏れた。
公務員の現地招集。
それは、彼が真っ先に戦場へ送られることを意味する。
彼は官僚だ。
ペンと計算尺しか持ったことのない、事務屋だ。
銃の撃ち方も知らない。人を殺す訓練など受けていない。
そんな彼が、泥と血にまみれた塹壕に放り込まれる。
想像してしまった。
あの不器用で優しい手が、冷たい銃を握らされる姿を。
あの知的な瞳が、硝煙の中で恐怖に見開かれる姿を。
そして、どこからか飛んできた砲弾が、彼の身体を……。
「嫌ッ!!」
私は新聞を床に叩きつけた。
「嫌よ、そんなの! 彼は……彼は戦争を止めるために生きてきたのよ!? 誰よりも平和を望んでいた彼が、どうして一番最初に殺されなきゃいけないの!」
理不尽だ。
あまりにも理不尽すぎる。
私の父がサインした宣戦布告。
私の婚約者であるミルティン家が製造した砲弾。
それが、私の愛する人を殺すのだ。
私がのうのうとこの屋敷で息をしている今この瞬間も、彼に向かって引き金が引かれているかもしれない。
「お嬢様、落ち着いてください! 過呼吸になります!」
マリーが私の背中をさする。
私は床に崩れ落ち、膝に顔を埋めた。
呼吸が苦しい。肺が焼けるようだ。
恐怖で身体の震えが止まらない。
(私が……私が彼を殺すのと同じだわ)
私が無力だから。
私がもっと早く『蒼い薔薇』を見つけていれば。
父を説得できていれば。
絶望が、黒いタールのように心にへばりつく。
このままここに閉じ込められて、彼が死んだという通知を聞くのを待つだけなのか。
彼の死体すら戻らず、ただ「名誉の戦死」という紙切れ一枚で終わらせられるのか。
——いいえ。
心の奥底で、小さな火種が弾けた。
それは、アレンが私に残してくれた言葉だった。
『諦めない』
『君は強い』
そう、彼は私を信じてくれた。
私の強さを、誰よりも認めてくれた。
彼が命がけで守った私が、ここで膝を抱えて泣いているだけでいいはずがない。
私は顔を上げた。
涙で濡れた頬を、手の甲で乱暴に拭う。
床に落ちた新聞を拾い上げ、もう一度その文字を睨みつけた。
『開戦不可避』。
まだ、不可避なだけだ。本格的な侵攻は始まっていない。
まだ間に合うかもしれない。
いや、間に合わせるしかない。
「……マリー」
私は立ち上がり、窓の外を見た。
灰色の空の向こう、遠い北の地を思う。
そこに、彼がいる。
今もきっと、泥の中で歯を食いしばって、生きようとしているはずだ。
私との約束を守るために。
「お茶を淹れてちょうだい。……一番濃いやつを」
私の声は、震えていたけれど、もう弱音ではなかった。
「泣いている時間は終わりよ。……彼が戦場にいるなら、私も戦場へ行くわ」
「えっ? で、でも、お嬢様はどうやって……」
「ここよ」
私は部屋を見渡した。
この閉ざされた離れ。一見、何も武器がないように見えるこの場所。
でも、ここには母の記憶がある。
アレンが「ある」と言った希望の欠片が、必ずどこかに隠されているはずだ。
「この部屋を、もう一度徹底的に調べる。……床板の一枚、壁紙の一片まで残らずね」
私は母の書き物机に歩み寄った。
そこに置かれた日記帳。
何気ない日常の記録の中に、暗号のように隠されたメッセージがあるかもしれない。
外からは、兵士たちの行進する足音が聞こえてくる。
軍靴の響き。
それは死への行進曲だ。
でも、私は負けない。
彼が北の果てで戦っているなら、私はこの鳥籠の中で戦う。
見えない敵と。時間と。そして、絶望と。
私はドレスの袖をまくり上げた。
蒼い瞳に、冷たい怒りの炎を宿して。
「死なせないわ、アレン。……貴方を殺そうとするこの世界の理不尽を、私が全部、壊してあげる」
開戦の足音は、私にとって絶望の鐘ではなく、戦いの開始を告げるゴングとなった。
孤独な令嬢の、本当の戦争がここから始まる。




