第2話 敵地の土、灰色の街
三日間の船旅を終え、巡洋艦『ネレイド号』が速度を落とす。
甲板に出た私の目に飛び込んできたのは、想像を絶する光景だった。
「……これが、帝都」
思わず呟きが漏れる。
私の故郷、レーヴァニアの王都は「水の都」と呼ばれ、白亜の建物と青い運河が織りなす美しい街だ。
けれど、目の前に広がるアルメスト帝国の帝都は、何もかもが「灰色」だった。
空を覆う鉛色の雲。
海岸線を埋め尽くす巨大なクレーンと倉庫群。
そして何より、視界のすべてを薄汚く染め上げている煤煙。
港全体が、まるで巨大な工場の内部のようだ。耳をつんざくような蒸気音と、金属がぶつかり合う音が絶え間なく響いている。
「すごい音ですね、お嬢様……いえ、セレスタ様」
隣でマリーが顔をしかめ、咳き込んだ。
彼女には「帝国内では私のことを『様』付けではなく、対外的に通りが良い『レディ・アークレイン』と呼ぶように」と言い含めてあったが、まだ慣れないようだ。
「ええ。まるで鉄の怪物の胃袋の中に飛び込む気分だわ」
私はハンカチで口元を押さえ、タラップを見下ろした。
そこには、私たちを出迎えるための帝国の使節団が待機している——はずだった。
「……あら?」
私は眉をひそめた。
本来なら、一国の宰相の娘であり、特命全権大使の資格を持つ私が到着したのだ。儀仗兵の整列や、軍楽隊の演奏、そして外務大臣クラスの出迎えがあって然るべきだ。
父上も、最低限の外交儀礼は取り付けたと仰っていたはず。
しかし、岸壁に立っていたのは、軍楽隊でも高官でもなかった。
くたびれた灰色の制服を着た、数名の男たち。
彼らは整列するでもなく、気だるげにタバコをふかしたり、ポケットに手を突っ込んだりして、こちらを値踏みするように見上げている。
その数はわずか五名。
しかも、見るからに下級役人ばかりだ。
「……ふふ」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
なるほど、そういうことか。
これは「歓迎」ではない。「侮辱」だ。
『たかが没落寸前の小国の娘になど、高官が出向く価値はない』という、帝国からの強烈なメッセージ。
「お嬢……レディ、これはあんまりです! アークレイン家に対する非礼ではありませんか!」
マリーが憤慨して声を荒げる。私は彼女の手をそっと握り、制した。
「静かになさい、マリー。相手の挑発に乗ってはダメ。ここで怒って帰ったら、それこそ彼らの思う壺よ」
「しかし……!」
「胸を張りなさい。私たちは誇り高きレーヴァニアの代表として、ここに来たのですから」
私は背筋を伸ばし、顎を引いた。
完璧な令嬢の仮面を被り直す。
タラップを降りる一歩一歩が、敵地への侵略の第一歩だ。
***
地上に降り立つと、油と煤の匂いが一層強くなった。
出迎えの役人たちの中心にいた、小太りの男が前に進み出てくる。
襟元の記章を見る限り、せいぜい課長補佐といったところか。
「やあやあ、遠路はるばるご苦労様ですなぁ、レーヴァニアの“お姫様”」
男は帽子も取らず、ニヤニヤとした笑みを浮かべて言った。
使われた言語は、なまりの強い帝国語だ。しかも、外交の場で使うべき敬語ではなく、目下の者に使うようなぞんざいな口調。
男は、私が帝国語を理解できないと高をくくっているのだろう。
後ろに控えている部下たちの方を振り返り、早口でこう付け加えた。
「(おい見ろよ、すげぇ美人だぞ。だが、あんな華奢な身体でこの帝国の冬が越せるのかねぇ? どうせ一ヶ月もすれば泣いて帰るだろうがな)」
部下たちが下品な笑い声を上げる。
マリーが顔を真っ赤にして何か言い返そうとしたが、私は扇子で彼女を制止した。
まだだ。
まだ、私のターンではない。
「……失礼。通訳をいたします」
その時。
小太りの男の後ろから、一人の青年が進み出てきた。
黒髪に、黒縁の眼鏡。
着ているスーツは安物で、袖口が少し擦り切れている。けれど、シャツには皺ひとつなく、ネクタイもきっちりと結ばれていた。
他の役人たちがだらしない格好をしている中で、彼だけが異様に浮いている。
まるで、泥の中に一本だけ突き立った杭のような、生真面目な雰囲気を持っていた。
「初めまして、レディ・アークレイン。私は外務省・儀典局のアレン・ヴァルシュと申します。貴国の滞在中の通訳兼、案内役を仰せつかりました」
彼は流暢なレーヴァニア語でそう言った。
声は低く、落ち着いている。
その瞳は、眼鏡の奥から私を静かに観察していた。
値踏みするような視線ではない。けれど、そこには明らかに冷ややかな色が混じっていた。
——『こんな場所へ、何をしに来たんですか?』
口には出さないが、彼の瞳はそう語っていた。
温室育ちの令嬢が、政治の真似事でやって来た。どうせ邪魔になるだけだ——そんな、諦めにも似た徒労感が見て取れる。
彼にとって、私は「厄介なお荷物」でしかないのだ。
カチン、と胸の奥で小さな音がした。
小太りの男の侮辱よりも、この青年の「無関心な同情」のような視線の方が、私のプライドを逆撫でした。
いいでしょう。
まずは挨拶代わりに、その眼鏡を曇らせて差し上げるわ。
私はアレンと名乗った青年に向かって、優雅に微笑んでみせた。
そして、扇子をパチリと閉じ、口を開く。
「(丁寧なご挨拶、痛み入りますわ。ヴァルシュ事務官)」
私の口から紡ぎ出されたのは、レーヴァニア語ではない。
帝都の上流階級だけが使う、最も格式高い『正統帝国語』だった。
発音、抑揚、そして文法。すべてにおいて、目の前の小太りの男より遥かに洗練された響き。
「(……ッ!?)」
アレンの目が、驚きで見開かれる。
小太りの男や、後ろで笑っていた部下たちの顔が、一瞬で凍りついた。
私は彼らの反応を楽しむように、ゆっくりと言葉を続ける。
「(お出迎え、感謝いたします。ただ、貴国の歓迎の作法は、我が国とは随分と異なるようですわね。外交特使に対して帽子も取らず、あまつさえ下世話な賭け事の話をなさるとは……これが帝国の言う『合理主義』というものでしょうか?)」
静寂。
波の音だけが響く。
小太りの男は口をパクパクとさせ、顔を茹で上がったように赤くしている。自分の陰口がすべて筒抜けだったと悟ったのだ。
「(あ、あ、いや……これは……その……!)」
「(ご安心なさい。今の戯言は聞かなかったことにして差し上げます。これからの交渉の席で、そのような軽率な発言をなさらないよう、ご忠告申し上げただけですわ)」
私はにっこりと微笑んだ。あくまで優雅に、慈悲深く。
けれどその目は、決して笑っていなかったはずだ。
男たちは完全に気圧され、逃げるように視線を逸らした。
ざまあみなさい。
私は視線を戻し、再びあの青年——アレンを見た。
彼はもう、私を「お荷物」を見る目では見ていなかった。
驚愕。
そして、警戒。
眼鏡の奥の瞳が、鋭く光っている。
「(……失礼いたしました、レディ。まさかこれほど流暢な言葉を話されるとは、想定外でした)」
アレンは先ほどまでの事務的な態度を崩し、帝国式の最敬礼をとった。
その所作には、初めて私に対する「敬意」のようなものが混じっていた。
「(敵を知り己を知れば、百戦危うからず。古い東方の諺ですわ。これからお世話になります、アレン・ヴァルシュ事務官)」
「(……ええ。お任せください)」
彼は顔を上げ、私を直視した。
そこには、ようやく対等な「交渉相手」として私を認める光があった。
***
港からの移動には、蒸気自動車が用意されていた。
黒塗りの車体は無骨だが、レーヴァニアの馬車よりも遥かに速い。
車窓の外には、レンガ造りのアパート群や、蒸気を吐き出すパイプラインが延々と続いている。
車内には、私とマリー、そして向かいの席にアレンが座っていた。
小太りの男たちは別の車に乗ったため、車内は静かだった。
「先ほどは見事でした」
沈黙を破ったのは、アレンだった。
今度はレーヴァニア語だ。マリーへの配慮だろうか。
「あの男——ボルドー課長補佐は、貴族のコネで入省した典型的な無能です。貴女に一泡吹かせられたこと、内心では拍手喝采でしたよ」
「貴方も苦労なさっているのね」
「平民出身の官僚なんて、あんな連中の尻拭いをするのが仕事ですから」
彼は自嘲気味に肩をすくめた。
その仕草には、飾り気のない本音が滲んでいた。
私はふと、彼に興味を抱いた。
冷徹な役人かと思ったが、意外と人間味があるのかもしれない。
「ねえ、ヴァルシュ事務官」
「アレンで構いません。名前で呼んでいただいた方が、業務上もスムーズですので」
「では、アレン。貴方は私のことをどう思っていたの? 港で会った時、随分と冷ややかな目をしていたけれど」
直球の質問に、彼は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
しかし、すぐに眼鏡の位置を指で直し、淡々と答える。
「……正直に申し上げても?」
「ええ。外交辞令は聞き飽きているわ」
「では。——『迷惑だ』と思っていました」
マリーが「無礼な!」と息を飲む音がしたが、私は手で制して先を促した。
「我が国と貴国の関係は、氷の上を歩くような状態です。そんな時期に、世間知らずの大公令嬢が『おままごと』に来られては、現場の負担が増えるだけだ。そう思っていました」
「なるほど。率直でいいわ」
「ですが」
アレンはそこで言葉を切り、私を真っ直ぐに見つめた。
「訂正します。貴女は『世間知らず』ではない。あれだけの帝国語を習得するには、相当な努力と知性が必要だ。……貴女は、ただ守られるだけのお姫様ではないようですね」
「買いかぶりすぎよ。私はただ、負けず嫌いなだけ」
私は窓の外へ視線を逃した。
少しだけ、胸の鼓動が早くなっているのを感じた。
父ですら、私を「便利な道具」としか見なかった。
けれど、この敵国の青年は、出会って数十分で、私の「努力」を見抜いたのだ。
「しかし、レディ」
アレンの声が、少し低くなる。
「一つだけ忠告させてください。この国は、貴女が想像しているより遥かに複雑で、残酷な場所です。先ほどのような機転だけで渡り歩けるほど、甘くはありません」
「……脅しのつもり?」
「いいえ、事実です。貴女の立場は危うい。派手な動きは控えて、お飾りとして大人しくしていた方が、身のためですよ」
それは、彼なりの親切心だったのかもしれない。
けれど、私の心に火をつけるには十分すぎる言葉だった。
私は窓ガラスに映る自分の顔を見つめ、心の中で静かに笑った。
大人しくしていろ、ですって?
冗談じゃない。
私はここまで来たのだ。
ただ座ってニコニコしているだけの人形になるつもりなんて、これっぽっちもない。
「ご忠告、痛み入ります。でも残念ながら、私は『大人しい』という言葉が一番嫌いなの」
私は振り返り、アレンに向かって不敵に微笑んでみせた。
「見ていなさい、アレン。貴方のその『想定』を、これから嫌というほど裏切ってみせるから」
アレンは目を丸くし、それから苦笑交じりに呟いた。
「……それは、手強そうだ」
車は帝都の中心部へ向かって走る。
灰色の空の下、私たちの奇妙な共犯関係——あるいは戦争が、ここから始まろうとしていた。




