第19話 届かぬ手紙
Side:アレン
目が覚めた時、最初に感じたのは、焼き付くような胸の痛みと、鼻をつく消毒液の臭いだった。
重い瞼を持ち上げると、見慣れない天井がぼやけて見えた。
「……気づいたか、ヴァルシュ」
低い声がして、視線を巡らせる。
ベッドの脇に立っていたのは、医師でも看護師でもない。
軍服を着た憲兵だった。
「……ここは……」
「帝都軍事病院の特別監房だ。……お前は三日間、生死の境を彷徨っていたんだぞ」
三日間。
記憶が、泥沼の底から泡のように浮き上がってくる。
舞踏会。銃声。セレスタを庇った時の衝撃。
そして、薄れゆく意識の中で聞いた、彼女の悲痛な叫び声。
「……セレスタ……レディ・アークレインは……?」
酸素マスクの下で、掠れた声を絞り出す。
憲兵は無表情に答えた。
「とっくに帰国したよ。……お前が寝ている間に、強制送還された」
帰った。無事だったのか。
安堵で全身の力が抜けるのと同時に、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような喪失感が襲ってきた。
もう、彼女はいない。
この灰色の帝都に、あの蒼い光はもう灯らないのだ。
「……そう、ですか」
「安心するのは早いぞ。お前には『国家反逆罪』および『スパイ幇助』の容疑がかかっている」
憲兵は冷たく言い放ち、書類を突きつけた。
「敵国の大公令嬢と密通し、暴動を扇動、さらに彼女の逃亡を助けた疑いだ。……まあ、お前の『彼女はただの馬鹿な女だ』という証言のおかげで、向こうはスパイ容疑を免れたようだがな」
私は自嘲気味に口元を歪めた。
あの証言が、功を奏したらしい。
私は彼女の尊厳を踏みにじることで、彼女の命を救った。そして彼女もまた、私の嘘に合わせて演じきってくれたのだ。
(ありがとう、セレスタ。……生きていてくれて、ありがとう)
胸の傷が痛む。だが、それ以上に心が痛かった。
最後に交わした言葉。
『生きろ』と言った私に、彼女は『愛している』とは言わなかった。ただ『必ず戻ってくる』と言った。
それが彼女らしい強さであり、私たちが交わした、言葉にならない「契約」だった。
***
それからの日々は、地獄のような尋問の連続だった。
傷が塞がりきらない身体を引きずり、連日連夜、取調室に呼び出される。
殴られはしなかったが、精神的に追い詰められるような詰問が続いた。
だが、私は屈しなかった。
ここで私が「はい、私はスパイと通じていました」と認めれば、セレスタの立場まで危うくなる。
私は徹底して「無能な官僚」を演じ続けた。
「私はただ、女の色香に惑わされただけです」
「彼女がスパイだとは気づきませんでした。ただの我儘な小娘だと思っていました」
自分を卑下し、嘲笑される道化になること。
それが、今の私にできる唯一の戦いだった。
そして、一週間後。
最終的な処分が下された。
「アレン・ヴァルシュ。……本日付で外務省儀典局を解任する」
宣告に来たのは、あの上司——ボルドー課長補佐だった。
彼は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、辞令書を私のベッドに放り投げた。
「お前はクビだ。……と言いたいところだが、叔父上……グランツ侯爵の慈悲でな。公務員としての籍だけは残してやる」
「……配属先は?」
「『北部国境資料整理室』だ」
北部国境。
帝都から列車で二日もかかる、極寒の僻地だ。
しかも「資料整理室」など、実質的な窓際族以下の、埃を被った倉庫番だ。
出世コースからの完全な脱落。
エリート官僚としてのアレン・ヴァルシュのキャリアは、ここで終わったのだ。
「感謝しろよ? 銃殺刑にならなかっただけでも奇跡なんだからな」
「……はい。感謝いたします」
私は深く頭を下げた。
悔しさはなかった。
むしろ、好都合だとさえ思った。
北部国境——そこは、セレスタの国、レーヴァニアに最も近い場所だ。
そして何より、そこは「十年前の戦争」の激戦地でもあった。父が死んだ場所だ。
『蒼い薔薇』の謎を解く手がかりが、帝都の公文書館ではなく、現地の古びた資料の中に眠っている可能性は高い。
「……負け惜しみも言わんか。つまらん男だ」
ボルドーは私の無反応さに興醒めしたようで、最後に一つ、残酷な情報を置いていった。
「そうそう、お前の愛しい姫君だがな。……本国に帰ってすぐに、結婚が決まったそうだぞ」
心臓が、早鐘を打った。
「相手はミルティン家のガレスだ。……知ってるだろ? あの女好きの成金野郎さ。まあ、お前みたいな貧乏人よりは、金持ちのベッドの方がお似合いってことだな!」
ボルドーの高笑いが遠ざかっていく。
私はシーツを握りしめた。
傷口が開き、赤いしみが広がっていくのが分かったが、痛みなど感じなかった。
ガレス・ミルティン。
レーヴァニアの軍需産業を牛耳る一族。
セレスタが最も忌み嫌うであろう相手だ。
彼女は売られたのだ。
平和への道を閉ざされ、戦争のための資金源として。
「……くそッ!」
私はベッドを殴りつけた。
無力だ。
私はここで、ベッドに縛り付けられている間に、彼女は心を殺されようとしている。
——手紙を書かなければ。
彼女に伝えなければ。
「僕は生きている」「諦めるな」と。
***
その夜、私は監視の目を盗み、震える手でペンを走らせた。
紙切れ一枚の、短い手紙。
『セレスタへ。
僕は生きている。左遷されたが、死んではいない。
君が託された「蒼い薔薇」……それが僕たちの希望だ。
どうか、絶望しないでくれ。
必ず、君を迎えに行く』
私は、以前から懇意にしていた病院の清掃員——地下組織の協力者に、その手紙を託した。
彼は無言で頷き、紙片を靴底に隠して去っていった。
だが、その手紙が彼女に届くことはなかった。
翌日、清掃員が戻ってきた。
彼は沈痛な面持ちで、汚れた紙片を私に返した。
「……すまない、ヴァルシュさん。無理だった」
「どうしてだ! 闇ルートを使えば……」
「国境が封鎖されたんだよ。……昨夜から、レーヴァニアとのすべての通信、交通が遮断された。ネズミ一匹通れない」
国境封鎖。
それは、実質的な「宣戦布告」の前段階だ。
両国の関係は、修復不可能なところまで悪化してしまったのだ。
私は戻ってきた手紙を見つめた。
クシャクシャになった紙切れ。
そこに書かれた私の文字が、ひどく無力に見えた。
「……届かないのか」
どんなに言葉を尽くしても、どんなに魂を込めても。
物理的な壁と、政治的な壁が、私たちの声を遮断してしまう。
彼女は今頃、どうしているだろう。
私が死んだと思っているかもしれない。
あるいは、私に裏切られたという絶望の中で、愛のない結婚を受け入れようとしているかもしれない。
(セレスタ……)
想像するだけで、身が引き裂かれそうになる。
彼女の孤独を想うと、呼吸すら苦しい。
私は手紙を握りしめ、ライターで火をつけた。
赤い炎が紙を舐め、黒い灰へと変えていく。
証拠を残すわけにはいかない。私の想いは、煙となって空へ消えていった。
***
Side:セレスタ
同時刻。レーヴァニア王国、アークレイン大公邸「北の離れ」。
私は暖炉の前で、何通もの封筒を火にくべていた。
アレンへの手紙だ。
何十通も書いた。彼が生きていますように。私がまだ彼を信じていることが伝わりますように。
けれど、マリーが裏ルートで持ち出そうとした手紙は、すべて父の私兵に見つかり、突き返された。
『無駄なあがきはやめろ』
父からの伝言と共に戻ってきた手紙たち。
私はそれを、自分の手で燃やすしかなかった。
他人の目に触れさせ、彼への想いが汚されるくらいなら、いっそ灰にしてしまったほうがいい。
「……お嬢様」
マリーが涙ぐみながら見守っている。
私は炎を見つめたまま、静かに言った。
「……届かないわね」
「はい……」
「風の噂で聞いたわ。……彼は左遷されたそうよ。北の果てに」
今日、屋敷に出入りする商人からマリーが聞き出した情報だ。
アレン・ヴァルシュ事務官は、公職追放同然の処分を受けた、と。
生きている。
それだけで十分なはずなのに。
彼が極寒の地で、キャリアを絶たれ、孤独に震えている姿を想像すると、涙が止まらなかった。
私のせいで。私が彼を巻き込んだせいで。
「……でも、生きている」
私は燃え尽きた手紙の灰を、火掻き棒で崩した。
灰の中で、小さな火の粉が舞い上がる。
「彼が生きているなら、この声はいつか届く。……手紙じゃなくても、私の行動で伝えてみせる」
私は立ち上がり、書き物机に向かった。
そこには、母の日記と、屋敷の古地図が広げられている。
父が「焼き捨てた」と言った『蒼い薔薇』。
その隠し場所を示すヒントが、母が遺した詩集の行間に隠されていることに、私は気づき始めていた。
「待っていて、アレン。……貴方が北の果てで凍えているなら、私がこの国を熱く燃え上がらせて、貴方を迎えに行くわ」
***
Side:アレン
退院の日。
私は粗末な鞄一つを持って、病院を出た。
迎えは誰もいない。
秋の風が冷たく吹き抜け、コートのない身体を冷やす。
私は駅へと向かった。
北へ向かう列車に乗るために。
街頭の掲示板には、大々的な見出しの新聞が貼られていた。
『帝国軍、国境へ集結』
『レーヴァニアとの開戦秒読みか』
人々が不安そうに足を止め、噂話をしている。
戦争が始まる。
誰もがそう予感し、怯えている。
私は切符を買い、プラットホームに立った。
線路は北へ、遥か彼方へと続いている。その先には、愛する人がいる国がある。
「……行こう」
私は呟いた。
これは逃亡ではない。左遷でもない。
潜伏だ。
泥の中に身を潜め、力を蓄え、反撃の時を待つための。
列車が蒸気を吐き出しながら入線してくる。
私は乗り込み、窓際の席に座った。
動き出した車窓から、帝都の街並みが遠ざかっていく。
彼女と過ごした街。
思い出のすべてを置き去りにして、私は独り、荒野へと旅立つ。
(愛している、セレスタ)
声に出せない言葉を、車輪の音に紛れ込ませた。
届かぬ手紙は、もう書かない。
次に君に言葉を届けるときは、この手で君を抱きしめる時だ。
汽笛が鳴った。
それは、長い冬の時代の始まりを告げる、孤独な狼煙のようだった。




