第18話 父の真意
私が幽閉された「北の離れ」は、静寂に包まれていた。
ここは、かつて母セフィリアが晩年を過ごし、そして息を引き取った場所だ。
母が亡くなってから八年。使用人たちが定期的に掃除をしていたとはいえ、家具や調度品にはどこか寂しげな空気が漂っている。
私は窓際にある、母が愛用していた書き物机の引き出しを開けた。
中には、乾燥したインクの匂いと、古い紙の束が残されていた。母の日記や、書きかけの詩。
ここにあるはずだ。
アレンが命がけで託した『蒼い薔薇』の手がかりが。
「お嬢様、紅茶が入りました」
マリーがティーカップを運んでくる。
私は手を止め、カップを受け取った。
「ありがとう。……外の様子は?」
「変わりありません。門には私兵が四名。裏口にも二名。……完全に包囲されています」
「そう。徹底しているわね」
私は苦笑した。
父は本気だ。私が逃げ出さないよう、あるいは誰かと連絡を取らないよう、完璧に監視している。
それほどまでに、ミルティン家との結婚——軍事費の確保に必死なのだ。
その時、廊下で重々しい足音が響いた。
マリーが緊張して扉の方を見る。
ノックもなく、扉が開かれた。
現れたのは、父リオネル・アークレイン大公だった。
「……下がれ」
父が短く命じると、マリーは私を案じるような視線を投げつつも、一礼して部屋を出て行った。
広い部屋に、私と父、二人きりになる。
父は無言で部屋の中を見回した。
その視線が、私の背後にある書き物机や、壁に掛けられた母の肖像画の上を滑る。
一瞬、その瞳に痛ましげな色がよぎったように見えたが、すぐに冷徹な鉄の色に戻った。
「……何の用ですか、お父様」
私が問うと、父はステッキを突き、部屋の中央にあるソファーに腰を下ろした。
「花嫁修業は進んでいるか」
「いいえ。私はここを掃除しているだけです。……ここは母との思い出の場所ですから」
「ふん。感傷に浸る時間があるなら、ミルティン家の家系図でも暗記するんだな。来週には先方の親族との顔合わせがある」
父は淡々と言った。
まるで、業務報告でもするかのように。
「お父様」
私は父の正面に立ち、真っ直ぐに彼を見据えた。
「改めて申し上げます。私は、ガレス様との結婚を望んでおりません。……あのような方に、アークレイン家の家風は合いません」
「合うか合わないかではない。必要か不要かだ」
「必要? お金のために娘を売ることが?」
「国を守るためだ」
父の声が少し強くなった。
「帝国の脅威は目前に迫っている。お前が見てきた通り、彼らの工業力と軍事力は我が国を遥かに凌駕している。……今、戦争になれば、レーヴァニアは三ヶ月で地図から消えるだろう」
それは、事実かもしれない。
私も帝国の底力を見てきた。アレンが懸念していた通り、あの国が本気で牙を剥けば、我が国に勝ち目はない。
「だからこそ、対話が必要なのです! アレンと私は、経済的な相互依存関係を作ることで、戦争を回避しようとしていました。それが最も確実な安全保障だからです!」
「甘い」
父は冷たく切り捨てた。
「対話など、力が対等な者同士でしか成立しない幻想だ。……向こうがその気になれば、紙切れ一枚の条約などいつでも破り捨てられる。現に、お前は向こうでスパイ扱いされ、追い返されたではないか」
「それは……っ!」
「必要なのは『力』だ。帝国に対抗できるだけの、圧倒的な艦隊。それさえあれば、彼らも手出しはできん。……そのための資金を、ミルティン家が出すと言っているのだ」
父の論理は、どこまでも冷たく、そして強固だった。
力なき正義は無力。
外交官として教育を受けてきた私には、その理屈を完全には否定できない。
けれど。
私は知っている。その「力」の信奉が、どれだけの悲劇を生むかを。
アレンの父が死に、アレン自身が撃たれたように。
力がぶつかり合えば、砕けるのはいつも、一番弱い人々なのだ。
「……お父様は、愛を信じないのですか」
私が絞り出すように問うと、父は怪訝そうに眉をひそめた。
「愛?」
「ええ。国を守りたいという想い。家族を守りたいという想い。……そういう人の心が、世界を動かすとはお考えにならないのですか」
「……下らん」
父は立ち上がり、私を見下ろした。
「愛などという不確かなもので、国は守れん。……愛は人を弱くする。判断を鈍らせ、目を曇らせる」
「違います! 愛は人を強くします! 私はアレンへの愛があったから、一人で立ち向かえた! 彼も私への愛があったから、命を賭して守ってくれた!」
「その結果が、これだ」
父は冷ややかに部屋を見渡した。
「男は生死の境を彷徨い、お前はここに幽閉されている。……それが愛の結果だというなら、やはり愛など害悪でしかない」
反論できなかった。
今の状況は、父の言う通り「敗北」だ。
でも、心は屈していなかった。
「……お母様も、そうだったのですか」
私は、ずっと聞きたかった問いを口にした。
「お父様は、お母様を愛していらしたのですか? それとも……私と同じように、国のために愛を殺して、政略結婚されたのですか」
父の背中が、ピクリと震えた。
彼は窓の方へ歩み寄り、背を向けたまま、長い沈黙を守った。
窓の外には、荒れた庭が広がっている。かつて母が丹精込めて育てていた、薔薇園の成れの果てだ。
「……セフィリアは」
父の声は、低く、掠れていた。
「……美しく、聡明な女性だった。彼女となら、理想の国を作れると……そう信じていた時期もあった」
過去形。
そこには、隠しきれない喪失感が滲んでいた。
「だが、彼女は優しすぎた。……国政の非情さに耐えられず、心を病み、この離れで枯れていった。……私が、殺したようなものだ」
衝撃だった。
父が、自分の罪を認めるなんて。
母が病死したと聞かされていたけれど、その原因が父の政治——その冷徹な在り方にあったというのか。
「私は誓ったのだ。……二度と、感情に流されまいと。情けをかけ、判断を誤れば、また誰かが死ぬ。国が滅ぶ」
父は振り返った。
その顔には、苦悩の色が濃く刻まれていたが、瞳の光だけは揺らいでいなかった。
それは、修羅の道を歩むと決めた男の、悲壮な覚悟だった。
「セレスタ。お前はセフィリアに似ている。……優しく、理想を追い求め、そして脆い」
「……」
「だからこそ、お前をミルティン家に嫁がせる。……感情を殺し、ただの『アークレイン家の部品』として生きるほうが、お前にとっては幸せなのだ。これ以上、傷つかずに済む」
——ああ、この人は。
なんて不器用で、なんて残酷な愛し方をするのだろう。
父は私を憎んでいるわけではない。彼なりに、私を「守ろう」としているのだ。
自分の心を殺して生きるという、地獄のような方法で。
でも、私は違う。
私は母とは違う。
私はアレンに出会った。泥水をすすってでも生き抜く強さを、彼から学んだのだ。
「……感謝いたします、お父様。私のことを案じてくださって」
私は深々と頭を下げた。
そして、顔を上げ、きっぱりと言った。
「ですが、お断りします。私は部品にはなりません。……私は、私の人生を、自分の意志で選び取ります」
「……ほう」
「お母様は優しすぎて折れてしまったかもしれません。でも、私は違います。私はアークレインの血と、帝国の泥の味を知る女です。……簡単には折れませんわ」
父の目が、わずかに見開かれた。
そこには驚きと、そして微かな……評価するような光があった。
「……頑固なところは、私に似たか」
父は吐き捨てるように言い、出口へと向かった。
扉に手をかけ、最後に一度だけ振り返る。
「……『蒼い薔薇』と言ったな」
心臓が跳ねた。
「探しても無駄だ。……あれは、十年前に私が焼き捨てた。灰となって、この庭の土に還っている」
——焼き捨てた?
そんな。
では、アレンの手がかりは……希望は、もう存在しないというの?
「大人しく嫁げ。それがお前のためだ」
父はそれだけを残し、部屋を出て行った。
重い扉が閉まる音が、死刑宣告のように響いた。
私はその場に崩れ落ちそうになった。
希望の糸が、プツリと切られたような感覚。
焼き捨てた。
父がそう言うなら、本当にそうなのだろう。彼は嘘をつかない。不必要な嘘をつく人間ではない。
「……アレン、どうすればいいの」
私は床に座り込み、母の書き物机を見上げた。
引き出しからこぼれ落ちた古い紙片が、風に揺れている。
本当に、もう何もないのだろうか。
アレンが最期に遺した言葉。父が焼き捨てたという「何か」。
二人の男が、命と人生を懸けたそれが、ただの灰になって消えるなんてことがあるのだろうか。
いいえ。
私は首を振った。
アレンは言った。『君の父上は、捨てていない』と。
瀕死の彼が、あんなに確信を持って言ったのだ。
父は「焼き捨てた」と言った。アレンは「捨てていない」と言った。
この矛盾の中にこそ、真実が隠されているはずだ。
私は立ち上がり、再び机に向かった。
涙を拭い、古い日記帳を手に取る。
父が嘘をついているのか、それとも自分の記憶を改竄しているのか。
あるいは……「焼き捨てた」と思い込んでいるだけで、母がそれを守ったのか。
「……探すわ。灰の中からでも、見つけ出してみせる」
父との対決は、終わっていない。
むしろ、彼が反応したことで、確信に変わった。
ここにある。
この北の離れのどこかに、父が封印し、母が守り、そしてアレンが託した「何か」が、必ず眠っている。
窓の外、荒れ果てた薔薇園に、冷たい風が吹き抜けていった。
そこに咲くはずのない蒼い薔薇の幻影を求めて、私の孤独な探索が始まった。




