第16話 引き裂かれた夜明け
病院の長い廊下を、私は憲兵たちに囲まれて歩いていた。
コツ、コツ、コツ。
ヒールの音が、冷たいコンクリートの壁に反響する。それはまるで、私の心臓が刻む最後のリズムのように空虚に響いた。
後ろ髪を引かれる思いだった。
振り返れば、まだあの重い鉄扉の向こうに彼がいる気がして。
でも、もう振り返らなかった。
振り返ってしまえば、決心が鈍る。彼のもとへ駆け戻り、泣き叫んでしまうかもしれない。
(生きろ)
アレンの最期の言葉が、呪文のように私の身体を支えていた。
彼は私に「愛している」とは言わなかった。ただ、生きてくれと願った。
それは、自分の命よりも私の命を重く見た、究極の献身だ。
ならば、私は這ってでも生き延びなければならない。彼が守ろうとしたこの命を、無駄にするわけにはいかないのだ。
病院の出口を出ると、外はまだ薄暗かった。
冷たい雨が、私の頬を打つ。
そこに待っていたのは、窓に鉄格子が嵌められた黒塗りの護送車だった。
「乗れ」
兵士に乱暴に背中を押され、私は車内に押し込まれた。
革張りのシートは冷たく、湿った匂いがした。
ドアが重い音を立てて閉められる。
完全に、世界が隔絶された。
車が走り出す。
私は窓の鉄格子の隙間から、遠ざかっていく病院を見つめ続けた。
無機質な白い巨塔。あの一室で、今も彼は死神と戦っている。
一人ぼっちで。
「……ごめんなさい、アレン。……置いていって、ごめんなさい」
ガラスに額を押し付け、懺悔のように呟く。
本当なら、私が彼の手を握り、汗を拭き、その痛みを分かち合うべきなのに。
私は安全な場所へと逃がされる。彼を置き去りにして。
車は帝都の大通りを走っていく。
見覚えのある景色が次々と流れていく。
最初に彼と出会った港。
不味いシチューを食べた安酒場のある路地裏。
二人で夜景を見下ろしたホテルのバルコニー。
そして、雨宿りをした教会の尖塔が、遠くに霞んで見えた。
たった数週間の滞在だった。
けれど、ここには私の一生の記憶が詰まっている。
初めて誰かと本気で議論し、初めて誰かのために怒り、そして初めて……人を愛した場所。
(さようなら、私の恋)
景色が滲んでいく。
涙は見せないと誓ったはずなのに、思い出が刃となって胸を切り刻む。
***
一時間後、車は港に到着した。
そこには、一隻の古びた貨物船が停泊していた。
船体には錆が浮き、煙突からは黒い煙が吐き出されている。
これが、私を故国へ送り返す船だ。大公令嬢が乗るにはあまりに粗末で、屈辱的な船。
タラップの下には、数人の人影があった。
その中に、見慣れた侍女服の姿を見つけ、私の目が大きく見開かれた。
「……マリー!」
「お嬢様ッ!」
マリーが私を見つけ、憲兵の制止を振り切って駆け寄ってきた。
彼女は私の姿——血のついたドレスのまま、顔色を無くしている私を見て、悲鳴のような声を上げた。
「ああ、お嬢様……! ご無事で……本当によかったです……!」
彼女は私に抱きつき、子供のように泣きじゃくった。
その温かさに触れた瞬間、張り詰めていた緊張の糸が切れそうになった。
よかった。彼女は無事だったのだ。
私一人が罰を受けるのは構わないが、彼女まで巻き添えにすることだけは恐れていた。
「心配させてごめんなさい、マリー。……酷い顔をしているわね」
「お嬢様こそ……! そのドレス……まだ血が……」
「いいのよ。これは……勲章みたいなものだから」
私は彼女の背中を優しく撫でた。
ボルドー課長補佐が、嫌味たらしい笑顔で近づいてきた。
「感動の再会は済みましたかな? ……荷物は積み込んでおきましたよ。貴女の侍女も、特別に一緒に帰して差し上げましょう。我々の慈悲に感謝することですな」
「……感謝? よく言えるわね」
私は彼を睨みつけた。
「アレンを……私の担当官をあんな目に遭わせておいて、よくもぬけぬけと」
「おっと、怖い怖い。……言っておきますがね、彼が撃たれたのは貴女のせいですよ。貴女が疫病神だったんだ」
ボルドーは私の耳元で、毒を吐くように囁いた。
「精々、本国で震えて暮らすことですな。……次に会う時は、我々が貴国を征服した時でしょうから」
屈辱で身体が震えた。
言い返したい言葉は山ほどあった。
けれど、私は唇を噛み締め、無言で踵を返した。
今ここで彼を罵っても、負け犬の遠吠えにしかならない。
勝つのは今じゃない。
「……行きましょう、マリー」
私はマリーの手を引き、タラップを上がった。
足元が揺れる。
錆びついた鉄の感触が、靴底を通して伝わってくる。
***
あてがわれた船室は、予想通り最悪だった。
船底に近い、窓さえない狭い倉庫のような部屋。
ベッドは粗末な二段ベッドが一つあるだけで、湿気とカビの臭いが充満している。
「ひ、酷すぎます……! 大公令嬢に対する扱いじゃありません!」
マリーが憤慨して叫ぶが、私は静かに荷物を置いた。
「構わないわ。……監獄よりはマシよ」
私はベッドに腰掛け、ドレスの胸元に手を当てた。
そこには、肌身離さず持っている「彼からの最後の言葉」がある。
形はない。手紙もない。
けれど、私の心臓には深く刻まれている。
『君の父上は、捨てていない』
『蒼い薔薇を探してくれ』
その言葉の意味を、反芻する。
父が捨てていない? あの冷徹な父が?
そして「蒼い薔薇」。
聞いたこともない言葉だ。アレンがなぜ、最期にそんな花の名前を口にしたのか。
それが私の実家——アークレイン家に眠っているというのか。
謎だらけだ。
けれど、それが唯一の希望の光であることは間違いない。
アレンは命がけで、そのヒントを私に託したのだ。
ゴゴゴゴ……と、船のエンジンが唸りを上げ始めた。
床が振動し、身体が重力に引かれる感覚。
出航だ。
「……少し、風に当たってくるわ」
私は立ち上がり、部屋を出た。
マリーが止めようとしたが、私は首を振って制した。
一人になりたかった。
この国との、最後の別れをするために。
***
甲板に出ると、冷たい海風が吹きつけてきた。
雨は上がり、雲の切れ間から朝日が差し込み始めている。
船は既に岸を離れ、汚れた海水を掻き分けながら沖へと進んでいた。
遠ざかる帝都。
林立する煙突。灰色の空。
あれほど憎らしく、恐ろしかった景色が、今はどうしようもなく愛おしい。
あの中に、彼がいるから。
私は手すりを強く握りしめた。
錆びた鉄の冷たさが、手のひらに食い込む。
(死なないで)
祈るような気持ちで、帝都の方角を見つめる。
(もし貴方が死んだら、私は一生、自分を許さない。……でも、もし生きていてくれるなら)
私は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
潮の香りと、混じり合う煤煙の匂い。
この空気を、肺の奥まで刻みつける。
(私は必ず戻ってくる)
政略結婚? そんなもの、させてたまるか。
父の思惑も、ミルティン家の野望も、すべて私が粉砕してやる。
アークレイン家を掘り返してでも、アレンが託した「蒼い薔薇」の真実を見つけ出し……そして、それを武器に、この不条理な戦争を止めてみせる。
それが、私に残された唯一の道であり、彼への愛の証明だ。
「見ていなさい、アレン」
私は声に出して呟いた。
風が私の言葉をさらっていく。
「私はもう、泣かない。……貴方が守ってくれたこの命を使って、私は戦うわ。貴方が安心して眠れる世界を作るまで、絶対に諦めない」
水平線の向こう、雲が割れ、太陽が顔を出した。
海面がキラキラと輝き始める。
夜明けだ。
かつて母が愛した詩の一節が、ふと心に浮かぶ。
『夜明け前の闇こそが、最も美しい蒼を呼ぶ』。
今の私たちは、深い闇の中にいる。
けれど、必ずその美しい蒼は取り戻せる。アレンと私が、同じ空の下で手を伸ばし続ける限り。
私は涙を拭い、顔を上げた。
その瞳に宿るのは、もはや悲しみではなかった。
蒼い炎のような、静かで激しい決意。
船は汽笛を鳴らし、外洋へと進路を取る。
私は背筋を伸ばし、遠ざかる帝都に背を向けた。
次にこの地を踏むときは、私は「敗走する令嬢」ではない。
二つの国を救う「希望の女神」として、彼の前に立つのだ。
——待っていて、私の愛する人。
長い、長い戦いの旅が、ここから始まろうとしていた。




