第15話 硝子の病室と、蒼き残り香
事件から三日が過ぎた。
私の帰国は、アレンの意識が戻らないことを理由に、特例として延期されていた。
もっとも、それは私の頑強な抵抗の結果であり、帝国側としては「重要参考人としての監視」という名目で、私を病院に縛り付けておくだけのことだった。
帝都軍事病院、特別隔離病棟。
窓の外には鉄格子が嵌められ、扉の前には常に二名の完全武装した憲兵が立っている。
ここは病室という名の、白い牢獄だった。
部屋の中は、酷く静かだった。
聞こえるのは、窓を叩く冷たい雨音と、枕元に置かれたゼンマイ時計が時を刻む「カチ、コチ」という乾いた音だけ。
そして、ベッドに横たわるアレンの、苦しげな呼吸音。
部屋には、傷口の消毒に使われる石炭酸のツンとした刺激臭と、鉄錆のような血の匂いが微かに漂っている。
鉄パイプのベッドに横たわる彼は、まるで蝋人形のように蒼白だった。
胸から腹にかけて分厚い包帯が巻かれ、そこから伸びた何本ものゴム管が、ベッド脇のスタンドに吊るされたガラス瓶へと繋がっている。琥珀色の薬液が、一滴、また一滴と、彼の静脈へと落ちていく。
「……アレン」
私はベッド脇の硬い丸椅子に座り、彼の手を両手で包み込んだ。
冷たい。
あの日、教会で背中合わせになった時の、あの力強い熱はどこにもない。
まるで、壊れかけた陶器に触れているようだった。
執刀医の言葉が、呪いのように脳裏を反芻する。
『弾丸は肺を貫通し、心臓の動脈を掠めています。弾の摘出は成功しましたが……失った血が多すぎる。今夜が峠でしょう』
今夜が峠。
つまり、この雨の夜を超えられるかどうかが、彼の運命の分かれ道なのだ。
「……馬鹿な人」
私は彼の手を自分の頬に押し当てた。
涙はもう枯れ果てていた。泣いている時間があるなら、一秒でも多く彼の魂を現世に繋ぎ止めたかった。
「私を『お飾り』だって言ったじゃない。……『迷惑だ』って突き放したくせに。どうして、こんな……」
言葉が詰まる。
彼は、自分の命をチップにして、私という「お飾り」を守ったのだ。
その代償がこれだ。
こんなボロボロの姿になって、意識も戻らず、ただ生死の境を彷徨っている。
「起きてよ、アレン。……私に不味いシチューを奢ってくれるんでしょう? 約束したじゃない」
返事はない。
ただ、ヒュー、ヒューという浅い呼吸音が、不吉なリズムを刻んでいるだけだ。
時間が、残酷なほどゆっくりと過ぎていく。
深夜二時。
雨脚が強くなり、雷鳴が遠くで轟いた。
その音に反応したのか、アレンの身体がビクリと震えた。
「……っ……ぁ……」
酸素吸入のための革製マスクの下から、うめき声が漏れた。
高熱が出ているのだろうか。彼の眉間に深い皺が刻まれ、苦悶の表情が浮かぶ。
設置された脈拍計の針が、不安定に跳ね上がった。
「アレン!? 聞こえる!? 私よ、セレスタよ!」
私は椅子を蹴って立ち上がり、彼の顔を覗き込んだ。
汗で濡れた黒髪をかき上げる。
彼の瞼が、ピクリと動いた。
そして、ゆっくりと——本当にゆっくりと、薄く開かれた。
焦点が合っていない。
濁った瞳が、天井を彷徨い、やがて私の顔で止まった。
「……あ……」
彼が何かを言おうとして、激しく咳き込んだ。
ゴム管の中を、赤い液体が逆流するのが見える。
「喋らないで! 今、先生を呼ぶから……!」
「……ま……て……」
アレンの手が、シーツの上を這い、私の手首を掴んだ。
驚くほど弱い力だった。
けれど、その指先は、骨が砕けそうなほど必死に私を食い止めていた。
「……い……か……ないで……」
掠れた声。
私は足を止めた。彼の瞳が、訴えていた。
『時間がない』と。
彼は自分の命の灯火が消えかけていることを悟っているのだ。
「アレン……」
「……き……いて……くれ……」
彼はマスクを自らの手でずらそうとした。私が手を添えて手伝うと、乾いた唇がわなないた。
一言一句を聞き漏らすまいと、私は耳を彼の口元に寄せた。
「……きみ……の……ちち……うえ……は……」
父上?
アークレイン大公のことか?
なぜ今、父の話を?
「……すて……て……ない……」
捨てていない?
私を見捨てた父が?
「……さが……して……くれ……」
アレンの呼吸が荒くなる。
命を削って、言葉を紡いでいる。
「……『あ……おい……ばら』……を……」
——蒼い薔薇。
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に電流が走った。
それは、単なる花の名前ではない。
そんな響きが、彼の言葉にはあった。
「……きみの……いえ……の……しょこ……に……」
「私の家の、書庫?」
「……そこに……ある……。……それが……きぼう……だ……」
彼の瞳から、光が失われていく。
意識が、深い闇の底へ引きずり込まれそうになっている。
それでも彼は、最後の力を振り絞って、私の手を握りしめた。
「……せれ……すた……」
「なぁに、アレン。ここにいるわ」
「……い……き……ろ……」
愛している、ではなかった。
それは、恋人としての言葉よりも、もっと重く、切実な「願い」だった。
自分が死んでも、君だけは生きてくれ。
その想いが、冷たくなっていく指先から痛いほど伝わってきた。
「……っ、嫌よ! 貴方も生きるのよ! 一緒に……!」
私が叫ぼうとした瞬間、アレンの手から力が抜けた。
彼の瞳が閉じられる。
首ががくりと傾き、深い、深い昏睡へと落ちていった。
「アレン!!」
——ガチャリ。
その叫びと同時に、病室のドアが無機質な音を立てて開いた。
入ってきたのは医師ではない。
軍靴の音。
グランツ侯爵と、数名の兵士たちだった。
「……時間切れだ、姫君」
侯爵は、生死の境を彷徨うアレンを一瞥もしないまま、冷酷に告げた。
「たった今、本国からの最終通達が来た。……アレン・ヴァルシュの意識が戻ったとの報告も入ったようだが、もう十分だろう?」
「待って! 彼はまだ……!」
「連れて行け」
侯爵が顎でしゃくると、兵士たちが私を取り押さえにかかった。
私は必死にアレンのベッドの柵にしがみついた。
「離して! 彼を置いて行けない! まだ話したいことが……!」
「往生際が悪いぞ。これ以上抵抗するなら、彼への治療を打ち切ることになるが?」
その脅しに、私の動きが止まった。
侯爵はニヤリと笑った。
「賢明な判断だ。……さあ、船が出るぞ。二度とこの国へ戻ってくるな」
兵士たちに腕を掴まれ、引き剥がされる。
私は何度も振り返った。
遠ざかるベッド。
ガラス瓶の中で揺れる琥珀色の液体。
そして、死んだように動かないアレンの横顔。
(アレン……!)
彼は最期に、私に「武器」を託したのだ。
『蒼い薔薇』。
私の実家の書庫にあるという、謎の手がかり。
それが何なのかは分からない。けれど、彼が命を賭して伝えたかった「希望」なのだ。
——泣くな、セレスタ。
泣いている場合じゃない。
私は唇を噛み切り、血の味を口の中に広げた。
彼が「生きろ」と言った。
ならば、私は生きなければならない。
たとえ泥水をすすってでも、悪魔に魂を売ってでも生き延びて、必ずここへ戻ってくる。
この謎を解き明かし、彼を助け出すために。
病室の扉が閉められる直前。
私は心の中で、彼に別れを告げた。
(行ってきます、アレン。……待っていて)
扉が閉まり、冷たい鉄の廊下に遮断される。
私の手には、彼の手の冷たい感触と、熱い言葉だけが残されていた。
引き裂かれた夜明け。
私は絶望ではなく、氷のような決意を胸に、護送される足を踏み出した。




