第14話 舞踏会の銃声
帰国の前夜。
私は、グランドホテル・アルメストの大広間で開かれる「送別舞踏会」に出席していた。
主催は帝国政府。名目は、両国の友好を記念して——などという白々しいものだが、実態は私を厄介払いするための形式的な儀式に過ぎない。
頭上の巨大なシャンデリアが、私の着る蒼いドレスを照らし出している。
けれど、その光は冷たく、まるで死刑台へと続く道を照らす灯りのように感じられた。
「……乾杯」
私はグラスを掲げ、うつろな瞳で周囲の貴族たちに微笑みかけた。
彼らは口々に「残念ですな」「お気をつけて」とおざなりな言葉をかけてくるが、その目は笑っている。
『ようやく目障りな女がいなくなる』
『とんだ無能な娘だったな』
そんな本音が透けて見えた。
私は、この会場にいる誰とも目を合わせたくなかった。
ただ一人を除いて。
会場の隅、給仕や下級役人たちが控える影の中に、アレンの姿があった。
彼はいつもの安物のスーツ姿で、壁の花となって立っていた。
眼鏡の奥の瞳は、じっと私を見つめている——気がした。
けれど、私が視線を向けると、彼はすぐに目を逸らし、他の客に飲み物を運ぶふりをする。
徹底している。
彼は最後まで、「私を軽蔑している官僚」という役を演じきるつもりなのだ。
私を守るために。
——もういいわ、アレン。
もう十分よ。
貴方は私を地獄から救ってくれた。これ以上、貴方を傷つけたくない。
だから、お願い。私を見ないで。
そんなに痛そうな顔で、私を見送らないで。
胸が張り裂けそうだった。
明日になれば、私は海を渡り、愛のない結婚をする。
二度と会うことはない。
これが、私たちが同じ空間で呼吸をする、最後の時間なのだ。
***
宴もたけなわとなった頃。
楽団がワルツを奏で始めた。
主催者であるボルドー課長補佐が、上機嫌で私に近づいてきた。
「さあ、レディ。最後のダンスをご一緒願えますかな?」
「……光栄ですわ」
吐き気を抑え、私は彼の手を取った。
ボルドーの手は湿っていて不快だった。彼のリードは雑で、私の足を踏みそうになる。
私は感情を殺し、ただ音楽に合わせて身体を揺らした。
くるくると回る視界の端で、アレンがこちらを見ているのが分かった。
彼と踊りたかった。
不器用でもいい。足を踏まれてもいい。
彼の手の温もりだけを感じて、この最後の夜を踊り明かしたかった。
——その時だった。
会場の空気が、ふと変わった。
殺気。
外交官として何度も修羅場をくぐってきた私の肌が、ピリリと粟立つ。
何かがおかしい。
給仕の一人が、盆を持ったまま、私の背後へと回り込んでいる。
その男の目が、異様に血走っていた。
そして、その手が盆の下に隠した「何か」を探っている。
——武器?
私が気づいたのと、ボルドーが私の腰に手を回したのは同時だった。
身動きが取れない。
「——死ねェッ! アークレインの売女ォッ!!」
男が叫んだ。
盆が放り投げられ、ガチャーンと派手な音を立ててグラスが砕け散る。
現れたのは、黒光りする回転式拳銃。
銃口は、確実に私の心臓を捉えていた。
「ひっ!?」
ボルドーが悲鳴を上げ、私を盾にするようにして突き飛ばした。
私はバランスを崩し、床に倒れ込むこともできず、無防備な背中を銃口に晒す形になった。
終わった。
走馬灯のように、時間がスローモーションになる。
父の顔。妹の顔。
そして、アレンの笑顔。
(ごめんなさい、アレン。……約束、守れそうにないわ)
私は目を閉じた。
乾いた発砲音が、鼓膜を劈いた。
バンッ!!
衝撃が来る——そう思った。
けれど、痛みは来なかった。
代わりに、ドンッという重い衝撃と共に、誰かが私に覆いかぶさってきた。
熱い。
懐かしい匂い。
インクと、安物の石鹸と、そして鉄の匂い。
「……ぐ、ぁッ……!」
耳元で、湿った音がした。
私が恐る恐る目を開けると、そこにはアレンの顔があった。
彼は私を押し倒すようにして抱きしめ、自分の背中で銃弾を受け止めていたのだ。
「……アレン……?」
彼がゆっくりと崩れ落ちる。
その背中が、見る見るうちに赤黒く染まっていく。
まるでインク壺をひっくり返したように、ドス黒い赤が広がっていく。
「アレンッ!!」
私は悲鳴を上げた。
会場はパニックに陥っていた。悲鳴、怒号、逃げ惑う人々。
犯人の男は、すぐに警備兵に取り押さえられ、床にねじ伏せられている。
そんなことはどうでもよかった。
私は床に横たわるアレンを抱き起こした。
私の手が、ドレスが、彼の血で濡れていく。
温かい。あまりに温かくて、それが逆に恐ろしかった。
「いや……嘘よ、嘘でしょう……?」
アレンの顔色が、紙のように白くなっていく。
眼鏡が床に落ちて割れていた。
彼は虚ろな目で宙を見上げ、呼吸をするたびに、喉の奥でヒューヒューと不吉な音が鳴っている。
「アレン! しっかりして! 私よ、セレスタよ!」
私が頬を叩くと、彼の視線が微かに私を捉えた。
しかし、焦点が合っていない。
彼は震える唇を動かした。
「……にげ……て……」
「馬鹿! どうして……どうして庇ったりしたの! 貴方は私を軽蔑してたんじゃなかったの!?」
私は泣き叫んだ。
彼はふっと口元を緩めようとしたが、ゴボリと血の泡が溢れ出し、言葉を塞いだ。
「……きみ……は……」
アレンが血まみれの手を伸ばし、私のドレスの裾を掴んだ。
その力はあまりに弱く、今にも消えそうだ。
「……い……き……ろ……」
最期の力を振り絞ったような一言。
言い終わると同時に、彼の手が力なく床に落ちた。
瞳が閉じられ、首ががくりと傾く。
「アレン? ……ねえ、アレン!?」
返事はない。
胸の上下動が、恐ろしいほど浅くなっている。
「嫌ぁぁぁぁぁぁっ!!」
私の絶叫が、華やかな舞踏会場に虚しく響き渡った。
「どけ! 救護班だ!」
兵士たちが駆け寄ってきて、アレンを私から引き剥がそうとする。
担架に乗せられる彼の身体は、まるで糸の切れた人形のようだった。
床には、おぞましい量の血溜まりが残されている。
「レディ・アークレイン! 貴女も避難を!」
ボルドーが私の腕を掴み、立たせようとした。
「犯人は確保した。貴女は予定通り、明朝の船で……」
「ふざけるなッ!!」
私はボルドーの手を振り払い、鬼の形相で睨みつけた。
自分でも信じられないほど、低い声が出た。
「私の目の前で、私の担当官が撃たれたのよ!? それを置いて帰れと言うの!?」
「し、しかし、これは帝国の問題で……」
「これは『外交問題』よ!」
私は血まみれのドレスのまま、仁王立ちになった。
その姿は、今の私には恥辱ではなく、戦うための鎧だった。
「彼は私を庇って撃たれたわ! つまり、私が狙われたということよ! 帝国の警備体制はどうなっているの!? このまま私が帰国すれば、父は間違いなくこの件を国際問題にするでしょうね!」
「そ、それは……」
「私が帰国するのは、彼が助かり、事件の全容が解明されてからよ! それまでは一歩も動かない!」
ボルドーがたじろぐ。
駆けつけたグランツ侯爵も、狂乱しながらも理路整然と主張する私を見て、舌打ちをした。
「……チッ。面倒な女だ」
侯爵は兵士たちに目配せをした。
「いいだろう。特例として、帰国は延期する。……ただし、重要参考人として厳重に監視させてもらうぞ」
「構わないわ! 彼と同じ病院へ連れて行って!」
私は再びアレンの方へ視線を戻した。
彼は既に運び出されようとしている。
白い床に点々と続く、赤い血の跡。
それが、私の命を繋ぎ止めるために流された、彼の命そのものに見えた。
(死なないで……お願い、死なないで……)
私は兵士に囲まれながら、ふらつく足取りでその後を追った。
自分の心臓が引き裂かれるような痛み。
これが「恋」だと気づくには、あまりに残酷すぎる代償だった。
私はもう、ただの令嬢ではない。
私の命は、彼に生かされた命だ。
もし彼が死んだら、私はこの世界を許さない。
彼を殺したすべての「仕組み」を、私が壊してやる。
薄れゆく意識の中で、私は復讐者のように誓った。
これは終わりではない。
私の本当の戦いが、この血塗られた夜から始まるのだ。




