第13話 政略結婚の通知
あの屈辱的な査問会から、三日が過ぎた。
私はグランドホテルの自室に引きこもり、まるで人形のように過ごしていた。
外出は制限されているわけではないが、出る気になれなかった。
一歩外に出れば、好奇の視線と嘲笑が待っている。
『無知で愚かなお嬢様』
アレンが私に貼ったレッテルは、私を守る盾であると同時に、私の心を幽閉する檻でもあった。
アレンとは、あの日以来、一度も会っていない。
彼が今どうしているのか。
本当に私を軽蔑しているのか、それともまだ遠くから守ってくれているのか。
確かめる術も、勇気も、私にはなかった。
「……お嬢様。本国より、急使が参りました」
マリーが緊張した面持ちで告げた。
彼女の後ろから、燕尾服を着た初老の男が入ってきた。我がアークレイン家に長年仕える執事、セバスチャンだった。
「セバスチャン? どうして貴方が……」
「お久しぶりでございます、セレスタ様」
セバスチャンは恭しく一礼したが、その表情は硬く、どこか沈痛な色が漂っていた。
彼は懐から、封蝋で閉じられた一通の書状を取り出した。
深紅の蝋に押された紋章は、獅子と百合。
アークレイン大公家の家紋だ。
「旦那様——リオネル大公閣下からの、親書でございます」
嫌な予感が背筋を走る。
ただの手紙ではない。わざわざ執事を海を越えて派遣するほどの、重要事項。
私は震える手でペーパーナイフを取り、封を切った。
中に入っていたのは、分厚い羊皮紙が一枚。
そこには、父の冷たく整った筆跡で、簡潔な命令が記されていた。
『帝国との交渉は打ち切る。直ちに帰国せよ』
そこまでは予想通りだった。
あの暴動騒ぎと、私のスキャンダル。父が見切りをつけるには十分な理由だ。
しかし、その下に続く一文を読んだ瞬間、私の思考は停止した。
『帰国後、直ちにミルティン伯爵家の嫡男、ガレス殿との婚約の儀を執り行う』
「…………は?」
意味が分からなかった。
ミルティン伯爵家?
あの、レーヴァニア国内で「死の商人」と呼ばれる、新興の軍需産業貴族?
ガレス・ミルティン。
何度か夜会で会ったことがある。脂ぎった視線で女性を値踏みし、金の話しかしない男。
私より十歳も年上で、既に二度の離婚歴がある男だ。
そんな男と、私が……?
「……何かの間違いよ、セバスチャン」
私は引きつった笑みを浮かべ、執事を見た。
「お父様はご乱心あそばされたのかしら? アークレイン家の娘が、あのような成金貴族に嫁ぐなんて……家格が釣り合わないわ」
「……旦那様のご決定でございます」
セバスチャンは目を伏せ、苦渋の声で告げた。
「現在、我が国の財政は危機的状況にあります。帝国との通商条約が頓挫した今、軍備の増強は急務……。ミルティン家からの巨額の支援と引き換えに、この縁談がまとまりました」
「支援……?」
「はい。ミルティン家は、次期主力戦艦の建造費を全額負担するそうです。その見返りが……大公家との血縁、すなわちセレスタ様でございます」
目の前が真っ暗になった。
私は売られたのだ。
戦艦一隻と引き換えに。
父にとって、私は「外交カード」ですらなくなった。
ただの換金可能な「資産」だ。
帝国との平和的な交渉(外交)が失敗したから、次は戦争準備のための資金源(政略結婚)として使われる。
あまりに合理的で、あまりに冷酷な判断。
「……っ、ふざけないで!」
私は手紙を床に叩きつけた。
「私は物じゃない! 私の人生を……私の心を、なんだと思っているの!」
「お嬢様……」
「嫌よ! 絶対に帰らない! あんな男と結婚するくらいなら、ここで野垂れ死んだ方がマシだわ!」
私が叫ぶと、セバスチャンは悲しげに首を横に振り、もう一通の封筒を取り出した。
「……旦那様は、こうも仰せでした。『もし娘が拒絶するようなら、これを渡せ』と」
渡されたのは、一枚の写真だった。
それは、私の妹——病弱なシルヴィアが、療養所のベッドで眠っている写真だった。
「『シルヴィアの薬代と療養費は、莫大な額になる。もしセレスタが義務を果たさぬなら、アークレイン家は破産し、シルヴィアへの支援も打ち切らざるを得ない』……と」
——外道。
心の中で、父を罵った。
妹を人質に取るなんて。私が一番大切にしている、守るべき存在を盾にして、私を脅すなんて。
逃げ道は、塞がれた。
私が拒めば、妹が死ぬ。
私が受け入れれば、私の人生が終わる。
「……ご決断を、お嬢様」
「……」
私は床に落ちた手紙を拾い上げた。
紙がくしゃりと音を立てる。
その音は、私の心が砕ける音に似ていた。
***
その日の午後。
私は帰国の手続きをするため、外務省へ向かった。
セバスチャンは「私が代行します」と言ってくれたが、どうしても自分でやらなければならなかった。
最後に一度だけ。
アレンに会わなければ。
この結婚は、単なる私の不幸ではない。
レーヴァニアが帝国との対話を諦め、戦争準備(ミルティン家との結託)に舵を切ったという決定的な証拠だ。
私たちが夜明け前の空に夢見た、平和で美しい世界が、完全に潰えたことを意味する。
それを、彼に伝えなければならない。
たとえ彼が私を「愚かな女」として扱おうとも、同志としての最後の義務だ。
外務省の廊下は、相変わらず冷たかった。
すれ違う職員たちが、私を見てクスクスと笑う。
『見ろよ、あのお飾り令嬢だ』
『親父さんに呼び戻されるんだってな』
嘲笑が心地よかった。今の私には、同情されるよりずっとマシだ。
儀典局のフロアに行くと、アレンは自分のデスクにいた。
彼は山のような書類に埋もれ、機械のようにペンを走らせていた。
その顔色は、数日前よりもさらに悪く、頬がこけて見えた。
「……ヴァルシュ事務官」
私が声をかけると、彼はビクリと手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳が、私を捉えて揺れる。
「……レディ・アークレイン。……何か御用でしょうか」
他人行儀な声。
周囲の職員たちが聞き耳を立てているのが分かる。彼はまだ、演技を続けているのだ。
「帰国が決まりましたわ。出国手続きの書類をお願いしたくて」
「……そうですか。賢明なご判断です」
彼は表情を変えず、引き出しから書類を取り出した。
事務的な手つきでスタンプを押し、サインをする。
その手が、微かに震えているのを私は見逃さなかった。
「……それから、ご報告がありますの」
私は深呼吸をし、周囲にも聞こえるような声で言った。
「帰国後、私は結婚することになりました」
アレンの手が止まった。
インクが滲み、書類に黒い染みを作る。
「相手は……ミルティン伯爵家のガレス様です」
アレンが息を呑む気配がした。
彼なら知っているはずだ。ミルティン家が何を生業とし、その結婚が何を意味するのかを。
それは、私たちが目指した平和への「裏切り」であり、戦争への「宣戦布告」に等しい。
アレンはゆっくりと顔を上げ、私を見た。
その瞳には、隠しきれない絶望と、激しい動揺が渦巻いていた。
『駄目だ』
『行くな』
そんな声が聞こえた気がした。
でも、彼は口を開かなかった。
開けなかったのだ。
今の彼は、私を「愚かな女」と証言した参考人に過ぎない。私の結婚に異議を唱える権利など、どこにもない。
長い、息が詰まるような沈黙の後。
アレンは唇を噛み締め、血を吐くような思いで言葉を絞り出した。
「……おめでとう、ございます」
その声は、掠れていて、まるで泣いているようだった。
「貴女のような……高貴な方には、お似合いの縁談かと存じます。……末永く、お幸せに」
嘘つき。
貴方の目は、ちっとも祝っていないじゃない。
「僕なら君を幸せにできるのに」って、そう叫んでいるじゃない。
胸が張り裂けそうだった。
ここで「連れて逃げて」と叫べたら、どんなに楽だろう。
でも、私には妹がいる。彼には守るべき家族がいる。
私たちは大人で、貴族で、官僚だから。
愛のために全てを捨てられるほど、自由ではない。
「……ありがとう。貴方も、お元気で」
私は書類を受け取ると、逃げるように背を向けた。
これ以上、彼の顔を見ていたら、その場で泣き崩れてしまいそうだったから。
カツ、カツ、カツ。
遠ざかる私の足音が、二人の関係の終わりのカウントダウンのように響く。
背後で、アレンが誰にも聞こえない声で何かを呟いた気がしたが、振り返ることはできなかった。
***
ホテルに戻る馬車の中。
私は膝の上に置いた書類——私の「売買契約書」とも言える出国許可証を見つめていた。
終わった。
すべてが終わった。
アレンとの恋も。
両国の平和への希望も。
私が人間らしく生きる未来も。
「おめでとうございます」
アレンの最後の言葉が、呪いのように頭の中で響く。
彼は知っていたはずだ。私がその結婚で幸せになれるはずがないことを。
それでも、彼は私を突き放した。
それが、私を生かすための最善の選択だと信じて。
「……馬鹿な人」
涙が頬を伝う。
「生きていれば、また会えるって言ったじゃない……」
こんな形で生き延びて、何の意味があるの?
心が死んだまま、政略結婚の道具として生きるなんて、死ぬより辛いのに。
窓の外、帝都の空は今日も灰色だった。
アレンと見たあの美しい月夜は、もう二度と戻らない。
私は書類を胸に抱き、声を殺して泣いた。
絶望という名の冷たい海に、たった一人で沈んでいくような、孤独な夜が始まろうとしていた。
だが、私はまだ知らなかった。
運命の歯車は、ここで終わりではないことを。
私たちが諦めかけたその時、時代が大きく動き出そうとしていることを。
——帰国の日まで、あと三日。
その短い時間が、私たちの運命を決定的に変える「最後の事件」への序章となる。




