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蒼き大公家の令嬢は、敵国の青年官僚に恋をする 〜捨てられた令嬢と左遷された官僚が、世界を覆す最強のふたりになる話〜  作者: ぱる子
第2章:深まる絆と迫りくる暗雲

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第13話 政略結婚の通知

 あの屈辱的な査問会から、三日が過ぎた。

 私はグランドホテルの自室に引きこもり、まるで人形のように過ごしていた。


 外出は制限されているわけではないが、出る気になれなかった。

 一歩外に出れば、好奇の視線と嘲笑が待っている。

 『無知で愚かなお嬢様』

 アレンが私に貼ったレッテルは、私を守る盾であると同時に、私の心を幽閉する檻でもあった。


 アレンとは、あの日以来、一度も会っていない。

 彼が今どうしているのか。

 本当に私を軽蔑しているのか、それともまだ遠くから守ってくれているのか。

 確かめる術も、勇気も、私にはなかった。


「……お嬢様。本国より、急使が参りました」


 マリーが緊張した面持ちで告げた。

 彼女の後ろから、燕尾服を着た初老の男が入ってきた。我がアークレイン家に長年仕える執事、セバスチャンだった。


「セバスチャン? どうして貴方が……」

「お久しぶりでございます、セレスタ様」


 セバスチャンは恭しく一礼したが、その表情は硬く、どこか沈痛な色が漂っていた。

 彼は懐から、封蝋で閉じられた一通の書状を取り出した。

 深紅の蝋に押された紋章は、獅子と百合。

 アークレイン大公家の家紋だ。


「旦那様——リオネル大公閣下からの、親書でございます」


 嫌な予感が背筋を走る。

 ただの手紙ではない。わざわざ執事を海を越えて派遣するほどの、重要事項。


 私は震える手でペーパーナイフを取り、封を切った。

 中に入っていたのは、分厚い羊皮紙が一枚。

 そこには、父の冷たく整った筆跡で、簡潔な命令が記されていた。


『帝国との交渉は打ち切る。直ちに帰国せよ』


 そこまでは予想通りだった。

 あの暴動騒ぎと、私のスキャンダル。父が見切りをつけるには十分な理由だ。

 しかし、その下に続く一文を読んだ瞬間、私の思考は停止した。


『帰国後、直ちにミルティン伯爵家の嫡男、ガレス殿との婚約の儀を執り行う』


「…………は?」


 意味が分からなかった。

 ミルティン伯爵家?

 あの、レーヴァニア国内で「死の商人」と呼ばれる、新興の軍需産業貴族?


 ガレス・ミルティン。

 何度か夜会で会ったことがある。脂ぎった視線で女性を値踏みし、金の話しかしない男。

 私より十歳も年上で、既に二度の離婚歴がある男だ。

 そんな男と、私が……?


「……何かの間違いよ、セバスチャン」


 私は引きつった笑みを浮かべ、執事を見た。


「お父様はご乱心あそばされたのかしら? アークレイン家の娘が、あのような成金貴族に嫁ぐなんて……家格が釣り合わないわ」

「……旦那様のご決定でございます」


 セバスチャンは目を伏せ、苦渋の声で告げた。


「現在、我が国の財政は危機的状況にあります。帝国との通商条約が頓挫した今、軍備の増強は急務……。ミルティン家からの巨額の支援と引き換えに、この縁談がまとまりました」

「支援……?」

「はい。ミルティン家は、次期主力戦艦の建造費を全額負担するそうです。その見返りが……大公家との血縁、すなわちセレスタ様でございます」


 目の前が真っ暗になった。

 私は売られたのだ。

 戦艦一隻と引き換えに。


 父にとって、私は「外交カード」ですらなくなった。

 ただの換金可能な「資産」だ。

 帝国との平和的な交渉(外交)が失敗したから、次は戦争準備のための資金源(政略結婚)として使われる。

 

 あまりに合理的で、あまりに冷酷な判断。


「……っ、ふざけないで!」


 私は手紙を床に叩きつけた。


「私は物じゃない! 私の人生を……私の心を、なんだと思っているの!」

「お嬢様……」

「嫌よ! 絶対に帰らない! あんな男と結婚するくらいなら、ここで野垂れ死んだ方がマシだわ!」


 私が叫ぶと、セバスチャンは悲しげに首を横に振り、もう一通の封筒を取り出した。


「……旦那様は、こうも仰せでした。『もし娘が拒絶するようなら、これを渡せ』と」


 渡されたのは、一枚の写真だった。

 それは、私の妹——病弱なシルヴィアが、療養所のベッドで眠っている写真だった。


「『シルヴィアの薬代と療養費は、莫大な額になる。もしセレスタが義務を果たさぬなら、アークレイン家は破産し、シルヴィアへの支援も打ち切らざるを得ない』……と」


 ——外道。

 心の中で、父を罵った。

 妹を人質に取るなんて。私が一番大切にしている、守るべき存在を盾にして、私を脅すなんて。


 逃げ道は、塞がれた。

 私が拒めば、妹が死ぬ。

 私が受け入れれば、私の人生が終わる。


「……ご決断を、お嬢様」

「……」


 私は床に落ちた手紙を拾い上げた。

 紙がくしゃりと音を立てる。

 その音は、私の心が砕ける音に似ていた。


***


 その日の午後。

 私は帰国の手続きをするため、外務省へ向かった。

 セバスチャンは「私が代行します」と言ってくれたが、どうしても自分でやらなければならなかった。

 

 最後に一度だけ。

 アレンに会わなければ。


 この結婚は、単なる私の不幸ではない。

 レーヴァニアが帝国との対話を諦め、戦争準備(ミルティン家との結託)に舵を切ったという決定的な証拠だ。

 私たちが夜明け前の空に夢見た、平和で美しい世界が、完全に潰えたことを意味する。


 それを、彼に伝えなければならない。

 たとえ彼が私を「愚かな女」として扱おうとも、同志としての最後の義務だ。


 外務省の廊下は、相変わらず冷たかった。

 すれ違う職員たちが、私を見てクスクスと笑う。

 『見ろよ、あのお飾り令嬢だ』

 『親父さんに呼び戻されるんだってな』

 嘲笑が心地よかった。今の私には、同情されるよりずっとマシだ。


 儀典局のフロアに行くと、アレンは自分のデスクにいた。

 彼は山のような書類に埋もれ、機械のようにペンを走らせていた。

 その顔色は、数日前よりもさらに悪く、頬がこけて見えた。


「……ヴァルシュ事務官」


 私が声をかけると、彼はビクリと手を止め、ゆっくりと顔を上げた。

 眼鏡の奥の瞳が、私を捉えて揺れる。


「……レディ・アークレイン。……何か御用でしょうか」


 他人行儀な声。

 周囲の職員たちが聞き耳を立てているのが分かる。彼はまだ、演技を続けているのだ。


「帰国が決まりましたわ。出国手続きの書類をお願いしたくて」

「……そうですか。賢明なご判断です」


 彼は表情を変えず、引き出しから書類を取り出した。

 事務的な手つきでスタンプを押し、サインをする。

 その手が、微かに震えているのを私は見逃さなかった。


「……それから、ご報告がありますの」


 私は深呼吸をし、周囲にも聞こえるような声で言った。


「帰国後、私は結婚することになりました」


 アレンの手が止まった。

 インクが滲み、書類に黒い染みを作る。


「相手は……ミルティン伯爵家のガレス様です」


 アレンが息を呑む気配がした。

 彼なら知っているはずだ。ミルティン家が何を生業とし、その結婚が何を意味するのかを。

 それは、私たちが目指した平和への「裏切り」であり、戦争への「宣戦布告」に等しい。


 アレンはゆっくりと顔を上げ、私を見た。

 その瞳には、隠しきれない絶望と、激しい動揺が渦巻いていた。

 『駄目だ』

 『行くな』

 そんな声が聞こえた気がした。


 でも、彼は口を開かなかった。

 開けなかったのだ。

 今の彼は、私を「愚かな女」と証言した参考人に過ぎない。私の結婚に異議を唱える権利など、どこにもない。


 長い、息が詰まるような沈黙の後。

 アレンは唇を噛み締め、血を吐くような思いで言葉を絞り出した。


「……おめでとう、ございます」


 その声は、掠れていて、まるで泣いているようだった。


「貴女のような……高貴な方には、お似合いの縁談かと存じます。……末永く、お幸せに」


 嘘つき。

 貴方の目は、ちっとも祝っていないじゃない。

 「僕なら君を幸せにできるのに」って、そう叫んでいるじゃない。


 胸が張り裂けそうだった。

 ここで「連れて逃げて」と叫べたら、どんなに楽だろう。

 でも、私には妹がいる。彼には守るべき家族がいる。

 私たちは大人で、貴族で、官僚だから。

 愛のために全てを捨てられるほど、自由ではない。


「……ありがとう。貴方も、お元気で」


 私は書類を受け取ると、逃げるように背を向けた。

 これ以上、彼の顔を見ていたら、その場で泣き崩れてしまいそうだったから。


 カツ、カツ、カツ。

 遠ざかる私の足音が、二人の関係の終わりのカウントダウンのように響く。

 背後で、アレンが誰にも聞こえない声で何かを呟いた気がしたが、振り返ることはできなかった。


***


 ホテルに戻る馬車の中。

 私は膝の上に置いた書類——私の「売買契約書」とも言える出国許可証を見つめていた。

 

 終わった。

 すべてが終わった。

 

 アレンとの恋も。

 両国の平和への希望も。

 私が人間らしく生きる未来も。


 「おめでとうございます」

 アレンの最後の言葉が、呪いのように頭の中で響く。

 彼は知っていたはずだ。私がその結婚で幸せになれるはずがないことを。

 それでも、彼は私を突き放した。

 それが、私を生かすための最善の選択だと信じて。


「……馬鹿な人」


 涙が頬を伝う。

 

「生きていれば、また会えるって言ったじゃない……」


 こんな形で生き延びて、何の意味があるの?

 心が死んだまま、政略結婚の道具として生きるなんて、死ぬより辛いのに。


 窓の外、帝都の空は今日も灰色だった。

 アレンと見たあの美しい月夜は、もう二度と戻らない。

 

 私は書類を胸に抱き、声を殺して泣いた。

 絶望という名の冷たい海に、たった一人で沈んでいくような、孤独な夜が始まろうとしていた。


 だが、私はまだ知らなかった。

 運命の歯車は、ここで終わりではないことを。

 私たちが諦めかけたその時、時代が大きく動き出そうとしていることを。


 ——帰国の日まで、あと三日。

 その短い時間が、私たちの運命を決定的に変える「最後の事件」への序章となる。

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