第12話 残酷な嘘
帝都に戻った私たちは、すぐさま現実に引き戻された。
泥だらけのドレスとスーツ。疲労困憊の身体。
ホテルへ戻る馬車の中で、アレンは一度も私と目を合わせようとしなかった。昨夜、教会で交わした熱っぽい視線が嘘のように、彼は硬い表情で窓の外を見つめ続けていた。
「……アレン?」
私が恐る恐る声をかけると、彼はビクリと肩を震わせ、事務的な声で答えた。
「到着しました、レディ。すぐに着替えてください。……午後に外務省で査問会が開かれます」
「査問会……?」
「昨日の暴動についてです。私たちが『扇動した』疑いがかけられています」
その言葉に、背筋が凍った。
被害者であるはずの私たちが、なぜ加害者扱いされるのか。
だが、アレンの深刻な表情と、小刻みに震える指先を見て、私は悟った。これは、単なる誤解ではない。政治的な罠だ。
***
数時間後。
私は身なりを整え、外務省の審問室にいた。
窓のない、無機質な部屋。
長テーブルの向こうには、ボルドー課長補佐と、その背後にふんぞり返るグランツ侯爵の姿があった。
アレンは私の隣ではなく、参考人席——つまり、私とは距離を置いた場所に立たされていた。
「やあやあ、無事で何よりですな、姫君」
グランツ侯爵が、蛇のような目で私をねめつけた。
「ですが、困りますなぁ。貴女が勝手な行動をとるせいで、我が国の治安が乱されるとは」
「勝手な行動? 私は正規の手続きを経て視察に向かいました。警備の不備を責められるならまだしも、私が非難される謂れはありません」
私が毅然と言い返すと、ボルドーがバンと机を叩いた。
「黙れ! 報告によれば、貴様があの地区の労働者を挑発し、暴動を誘発したそうではないか!」
「馬鹿な。誰がそんな報告を……」
「複数の『目撃者』から証言が上がっている。貴様が炭鉱の組合長に『帝国政府に反逆しろ』と唆したとな!」
嘘だ。完全にでっち上げだ。
私は瞬時に状況を分析した。
彼らの狙いは、私を「扇動罪」という重罪で捕らえ、政治的に抹殺すること。もし認められれば、私は即座に投獄され、最悪の場合は処刑もありうる。
「証拠はあるのですか?」
「証拠ならあるとも。……おい、ヴァルシュ」
グランツ侯爵が、アレンに声をかけた。
「貴様はずっとこの女と一緒にいたな? 昨夜も、廃墟となった教会で二人きりで一夜を明かしたそうだが……そこで何を見た? この女が労働者たちと接触し、何かを企んでいなかったか?」
部屋中の視線がアレンに集中する。
私は彼を見た。
アレンなら、真実を話してくれるはずだ。私たちが被害者であり、私は暴動を止めようとしていたのだと。
アレンはゆっくりと顔を上げた。
その目は、眼鏡の奥で冷たく凍りついていた。
私に向けられたことのない、他人行儀で、無機質な目。
「……いいえ、閣下。扇動など、ありえません」
アレンの言葉に、一瞬安堵しかけた。
しかし、続く言葉は、私の予想を裏切るものだった。
「なぜなら、彼女には……レディ・アークレインには、群衆を扇動するような知性も、政治的野心も皆無だからです」
「——なっ!?」
私は息を呑んだ。
アレンは無表情のまま、グランツ侯爵に向かって淡々と続けた。
「彼女はただの、世間知らずで愚かなお嬢様です。私の制止も聞かず、『汚い場所が見てみたい』と観光気分で現場に入り込み……そして、労働者たちの怒号に怯えて、泣き喚いて逃げ出しただけです」
「な……何を言っているの、アレン!?」
反射的に反論しようとして、私はハッとした。
アレンの手を見て気づいたのだ。
ズボンの横で握りしめられた彼の拳が、血が滲むほど白くなっていることに。
そして、彼の額に浮かぶ脂汗に。
——ああ、そうか。
私の脳内で、パズルのピースが組み合わさる。
もしここで彼が私を庇い、「彼女は立派な外交官だ」と証言したらどうなる?
侯爵たちは私を「有能な敵」と認定し、全力で潰しにかかるだろう。
逆に、私が「無能な馬鹿」であれば?
敵は警戒を解く。馬鹿を殺しても政治的メリットはないからだ。
彼は、私を守ろうとしている。
自分の良心を殺し、私への敬意を踏みにじってでも、私の「命」を救うために、あえて私を貶めているのだ。
「昨夜の教会でも、彼女はずっと『怖い、家に帰りたい』と震えていただけでした。……そこに政治的な意図などありません。ただの子供の癇癪です」
アレンの声が、微かに震えているのを私は聞き逃さなかった。
彼は今、私を傷つける言葉を吐くたびに、自分自身の心をナイフで切り裂いている。
——分かったわ、アレン。
貴方の作戦、乗ってあげる。
私は湧き上がる屈辱と悲しみを、理性でねじ伏せた。
ここで私が「そんなことない!」と賢く反論すれば、彼の捨て身の演技は無駄になる。
私が生き残るためには、彼の言う通り「愚かな女」になりきるしかない。
私は膝を震わせ、わざと涙目を作って叫んだ。
「ひ、酷いわ! アレン、貴方まで私を馬鹿にするの!?」
「事実です。貴女の軽率な行動が、我々に迷惑をかけたのです」
アレンは私を見ずに切り捨てた。
その冷たさが、演技だと分かっていても、胸を抉る。
「ほう、そうか」
グランツ侯爵が、興味深そうに身を乗り出した。
「つまり、暴動は彼女の策略ではなく……単なる『無知』が引き起こした事故だと?」
「はい。彼女が場違いなドレスでうろついたことが、労働者たちを刺激したのでしょう。……彼女は我が国の脅威ではありません。ただの、迷惑なだけの『お飾り』です」
侯爵が馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「なるほどな。アークレインの娘も、大したことないのう。ただの着飾った人形か」
「はい。取るに足らない存在です」
アレンの断定に、侯爵の目から「殺意」が消え、「侮蔑」に変わった。
成功だ。
私たちは命拾いをした。
けれど、その代償はあまりに大きかった。
私の外交官としてのプライド。そして、二人が積み上げてきた対等な信頼関係。それらが、公衆の面前で粉々に砕け散ったのだ。
「……ふん。ならば、罪に問うまでもないか。馬鹿を相手にしても時間の無駄だ」
侯爵はつまらなそうに手を振った。
私は役割を全うするため、ハンカチで顔を覆い、演技を続けた。
「うっ……ううっ……お父様に言いつけてやるわ……!」
「さっさと失せろ」
私はよろめく足取りで部屋を出た。
すれ違いざま、一瞬だけアレンを見た。
彼は彫像のように動かなかったが、その瞳の奥で、悲痛な叫び声を上げているのが見えた気がした。
(許してください、セレスタ)
声なき声が聞こえた。
私は心の中で答えた。
(いいのよ、アレン。……貴方は間違っていない)
けれど、正しいことが、これほどまでに痛いなんて。
***
ホテルに戻った私は、ベッドに倒れ込んだ。
マリーが心配そうに駆け寄ってくる。
「お嬢様……?」
「……一人にして、マリー」
彼女を下がらせると、私は枕に顔を埋めた。
演技はもう終わりだ。
理性で抑え込んでいた感情が、決壊したダムのように溢れ出す。
悔しい。
スパイの汚名を着せられそうになったことではない。
愛する人に「取るに足らない存在」と言わせなければならなかった、自分自身の無力さが悔しい。
私がもっと力を持っていれば。もっと彼を守れる立場にいれば、彼にあんな残酷な嘘をつかせずに済んだのに。
頭では分かっている。
あれは愛ゆえの裏切りだと。
でも、心に残った傷跡は、そう簡単には塞がらない。
『お飾り』『迷惑』。
その言葉の棘が、私の自信を内側から蝕んでいく。
これで私たちは、世間的にも決裂したことになった。
もう、以前のように肩を並べて歩くことはできない。
「無能なお嬢様」と「それを軽蔑する官僚」。
それが、私たちが生き延びるために被らなければならない、新しい仮面なのだ。
***
Side:アレン
審問室を出た後、私はトイレの個室に駆け込み、胃の中身をすべて吐き出した。
胃液の酸っぱい匂いが鼻をつく。
手が震えて止まらない。
「……くそっ……くそッ!」
私は拳で壁を殴りつけた。痛みなど感じなかった。
彼女は、気づいていた。
私があの酷い言葉を吐いた時、彼女は一瞬傷ついた顔をしたが、すぐに私の意図を察し、「愚かな女」を演じてくれた。
その聡明さが、今は何よりも辛い。
彼女に、あんな惨めな芝居をさせてしまった。
「父に言いつける」などという、彼女が最も嫌悪するような台詞まで言わせて、私の嘘を成立させてくれた。
彼女は私の共犯者になってくれたのだ。
自分の矜持をドブに捨ててまで、私のシナリオに合わせてくれた。
「……守るって、誓ったじゃないか」
鏡に映る自分を睨みつける。
蒼白な顔。充血した目。
そこには、昨夜彼女と夢を語り合った青年の面影はない。
ただの、嘘つきで薄汚い官僚がいるだけだ。
だが、後悔はしない。
彼女が生きてさえいてくれれば、私は悪魔にでもなる。
たとえ彼女に軽蔑されようとも、二度と隣に立てなくなろうとも。
「……ヴァルシュ事務官」
個室を出ると、ボルドー課長補佐が立っていた。
彼はニヤニヤと笑いながら、私の肩を叩いた。
「よくやったぞ。貴様もようやく、どちらに尻尾を振ればいいか分かったようだな。……あんな小娘、適当にあしらっておけばいいんだ」
「……恐縮です」
私は深く頭を下げた。
地面を見つめる視界の端で、ボルドーの磨かれた革靴が光る。
耐えろ。
耐えるんだ、アレン。
今はまだ、泥水をすする時だ。
この屈辱を、怒りを、すべて腹の底に溜め込め。
いつか必ず、この腐った連中を地獄へ叩き落とし、彼女の名誉を取り戻す。
その瞬間まで、私はこの「裏切り者」の仮面を被り続ける。
(ありがとう、セレスタ。……そして、ごめんなさい)
届くはずのない謝罪を胸に、私は再び灰色の廊下へと歩き出した。




