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蒼き大公家の令嬢は、敵国の青年官僚に恋をする 〜捨てられた令嬢と左遷された官僚が、世界を覆す最強のふたりになる話〜  作者: ぱる子
第2章:深まる絆と迫りくる暗雲

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第11話 共有された体温

「……背中を、合わせましょう」


 アレンは私の隣ではなく、後ろへと回り込み、静かにそう提案した。

 彼の声は、降り続く雨音にかき消されそうなほど小さかったけれど、そこには私を気遣う深い配慮が滲んでいた。


「抱き合うのは……その、貴女の淑女としての名誉に関わりますから。でも、背中合わせなら、互いの体温で暖を取れます。山で遭難した時に使う方法です」


 言い訳のような、不器用な説明。

 私は小さく笑って、頷いた。


「ええ。お願いするわ、アレン。……寒くて、指先の感覚がないの」


 私が膝を抱えて座り直すと、背中に温かい感触が押し当てられた。

 アレンの背中だ。

 広い背中。

 濡れたシャツ越しだけれど、そこから伝わってくる熱は、驚くほど力強く、そして優しかった。


 最初は、ただの熱源としての温かさだった。

 けれど、時間が経つにつれて、その熱は私の凍えた芯を溶かし、血流となって全身を巡り始めた。

 

 ドクン、ドクン。

 背中から、規則正しい振動が伝わってくる。

 心臓の音だ。

 

「……聞こえるわ、アレン」

「え?」

「貴方の心臓の音。……少し、早いのね」


 私がからかうように言うと、背中の向こうで彼が息を飲む気配がした。


「……当たり前です。こんな状況で、敵国の大公令嬢と背中合わせになっているんですから。……緊張しない男がいたら、それは石像か何かですよ」

「ふふ。石像じゃなくてよかったわ。石は冷たいもの」


 私は後頭部を、彼の肩甲骨のあたりに預けた。

 安心して、身体の力を抜く。

 不思議だった。

 外では雷鳴が轟き、私たちは暴徒に追われる身だというのに、この背中の温もりを感じているだけで、世界で一番安全な場所にいるような気がした。


 焚き火の炎が小さく爆ぜる。

 オレンジ色の光が、崩れかけた教会の壁に、私たちの影を一つに重ねて映し出していた。


「……ねえ、アレン」

「はい」

「貴方は、どうして官僚になろうと思ったの? お母様からは『戦争をなくすため』と聞いたけれど、それだけ?」


 私が問いかけると、アレンはしばらく沈黙し、やがてぽつりと語り始めた。


「……悔しかったんです」

「悔しい?」

「ええ。父が死んだ時、私は役場に行きました。遺骨も戻らない父のために、せめて補償金を、と。……でも、役人は鼻で笑って追い返しました。『書類が足りない』『字が汚くて読めない』と言って」


 彼の背中が、微かに強張るのが分かった。


「その時、悟ったんです。この世の中は、正しい者が報われるんじゃない。……『仕組み』を知っている者が勝つんだと。法律、条約、予算……それらを作っている側に回らなければ、大切な人を守ることすらできないんだと」


 だから、彼は血を吐くような努力をして、這い上がってきたのだ。

 この冷酷な世界のルールを逆手に取り、弱き者を守る盾となるために。


「……私は、貴方とは逆ね」


 私は膝に顔を埋めたまま、独り言のように呟いた。


「私は、生まれながらにして『仕組み』の頂点にいた。何もしなくても、最高級のドレスと食事、そして教育が与えられたわ。……でも、それは全部、私を着飾らせて高く売るための投資だった」

「セレスタ……」

「私は、綺麗にラッピングされた商品なのよ。父にとってはね」


 自嘲する私の言葉を、アレンは遮らなかった。

 ただ、背中の温もりだけが、無言で「そんなことはない」と訴えかけてくれているようだった。


「でもね、ここに来て……貴方に出会って、初めて思ったの。私は商品じゃなくて、人間になりたいって。自分の足で歩いて、自分の目で見て、自分の言葉で世界を変えたいって」


 私は背中に力を込め、彼に寄りかかった。

 アレンもまた、押し返すように背中を預けてくれる。

 互いの重みを支え合う。

 まるで、今の私たちの関係そのもののように。


「貴女はもう、立派な人間ですよ。……それも、とびきり強くて、美しい」


 アレンの声が、背骨を通して響く。


「今日の暴動だって、貴女は逃げずに立ち向かおうとした。……もし私が貴女の立場なら、とっくに逃げ出していたかもしれません」

「買いかぶりすぎよ。……今はこうして、震えているだけの弱虫なのに」

「いいえ。震えているのは、寒さのせいだけじゃないでしょう? ……貴女は、彼らの痛みに共鳴して、泣いているんだ」


 ——ああ、この人は。

 どうしてこんなにも、私の心の深いところまで見透かしてしまうのだろう。

 父ですら、私の涙の理由など知ろうともしなかったのに。


 胸の奥が熱くなる。

 それは友情や信頼という言葉では、もう説明がつかない感情だった。

 もっと切実で、もっとどうしようもない渇望。


 私は、この背中にずっと触れていたい。

 この鼓動を、ずっと聞いていたい。


「……アレン」

「はい」

「もし……」


 言葉が、唇をついて出そうになった。

 『もし、私が大公家の娘じゃなかったら』

 『もし、私がただの帝国の町娘で……貴方の隣の家に住んでいたとしたら』


 そうしたら、私たちはもっと自由に笑い合えただろうか。

 背中合わせではなく、正面から抱きしめ合うことができただろうか。

 リンゴ酒を飲みながら、未来の約束ではなく、明日の夕飯の相談ができただろうか。


 想像するだけで、涙が出そうになるほど甘く、そして残酷な「もしも」。


「……もし、私がただの町娘だったら」


 言ってしまった。

 アレンの背中が、ピクリと反応する。


「そうしたら……貴方と……」


 ——貴方と、恋に落ちていたかしら?


 そこまで言いかけて、私は口を噤んだ。

 言ってはいけない。

 その言葉を口にしてしまったら、私たちはもう戻れない。

 大公令嬢と、敵国の官僚。

 決して交わってはいけない二つの線が、今夜だけ奇跡的に触れ合っているだけなのだから。


 沈黙が落ちる。

 雨音だけが、ザアザアと降り続いている。


「……セレスタ」


 アレンが、静かに私の言葉を引き取った。


「もし、貴女が町娘だったら。……私はきっと、毎日貴女の家の前を通って、わざとハンカチを落として気を引こうとしたでしょうね」

「……ふふ、なにそれ。古典的すぎるわ」

「不器用ですから。……でも、きっと貴女に恋をして、プロポーズしていたと思います。『貧乏な官僚だけど、一生君を守る』って」


 アレン。

 貴方も、同じ夢を見てくれているのね。

 叶うはずのない、けれど世界で一番幸せな夢を。


「……ずるいわ、そんな言い方」


 涙が頬を伝い、膝に落ちる。

 私は背中で、彼の存在を確かめるように、さらに強く寄りかかった。


「私も……きっとOKしていたわ。『毎日、美味しいリンゴ酒を飲ませてくれるなら』って」

「それは……頑張って働かないといけませんね」


 背中越しに、彼が笑っているのが分かった。

 切なくて、愛おしい時間。

 私たちは今、現実から切り離された夢の中で、叶わぬ恋の約束を交わしている。


 この温もりが、永遠に続けばいいのに。

 夜が明けなければいいのに。

 そう願わずにはいられなかった。


 どれくらいの時間が経っただろうか。

 疲労と、心地よい体温に包まれて、意識が微睡み始めた頃。

 ふと、外の音が変わったことに気づいた。


「……雨が、小降りになったみたいです」


 アレンが呟く。

 その声には、夢から覚める時のような、僅かな寂しさが混じっていた。


「……そうね」

「夜が明ける前に、ここを出ましょう。明るくなると、また追っ手に見つかるかもしれません」


 彼はゆっくりと立ち上がった。

 背中の温もりが消え、冷たい空気が流れ込んでくる。

 喪失感に、胸がすうっと冷える。


 アレンは私の前に跪き、手を差し出した。


「行きましょう、レディ・アークレイン。……私たちの戦場へ」


 彼はわざと、私を公的な名前で呼んだ。

 それは、「ここからは現実に戻るぞ」という、彼なりのけじめの合図だったのだろう。


 私は濡れた髪をかき上げ、彼の手を取った。

 夢の時間は終わりだ。

 私は大公令嬢に戻り、彼は帝国官僚に戻る。


「ええ。……行きましょう、ヴァルシュ事務官」


 私は精一杯の強がりで、微笑んでみせた。

 けれど、繋いだ手の強さだけは、緩めることができなかった。


 外に出ると、空気は洗われたように澄んでいた。

 東の空が、白み始めている。

 夜明け前の、深く澄み渡る蒼い空。

 それは、残酷なほどに美しく、私たちに新しい一日の始まり——そして、迫りくる過酷な運命の到来を告げていた。


 私たちは泥だらけの靴で、ぬかるんだ地面を踏みしめ、帝都へ向かって歩き出した。

 背中に残る微かな温もりだけを、唯一の武器にして。

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