第10話 嵐の中の視察
帝都での日々が三週目に突入した頃。
私はアレンと共に、帝都から列車で五時間ほど離れた地方都市『ベルグラード』を訪れていた。
ここは帝国の主要なエネルギー源である石炭の一大産地であり、今回の通商条約の要となる場所の一つだ。
「……空気が重いわね」
駅に降り立った私は、思わず眉をひそめた。
帝都も煤煙が酷かったが、この街はそれ以上だ。空は常にどんよりとした灰色で、建物も道行く人々の服も、すべてが薄汚れた黒に染まっている。
そして何より、街全体に漂う殺伐とした空気。
すれ違う労働者たちの目は血走り、どこか怒りを孕んでいるように見えた。
「気をつけてください、セレスタ。最近、この地区では労働争議が激化しています」
アレンが私の耳元で囁く。
彼は周囲を警戒し、さりげなく私を庇う位置に立っていた。
「分かっているわ。……でも、ここを見ずして条約は結べないもの」
私は気丈に振る舞い、迎えの馬車に乗り込んだ。
今回の視察目的は、炭鉱労働組合の代表との会談だ。彼らの生活水準を向上させるために、レーヴァニアからの安価な穀物がいかに必要かを説得しなければならない。
しかし、事態は私の予想よりも遥かに悪化していた。
***
会談場所である公会堂の前広場は、異様な熱気に包まれていた。
数百人の労働者たちが集結し、シュプレヒコールを上げている。
『パンをよこせ!』
『貴族に死を!』
『外国の女狐を追い返せ!』
馬車が広場に入った瞬間、怒号と共に石が飛んできた。
ガツン! という鈍い音がして、車体が揺れる。
「きゃっ!?」
「伏せて!」
アレンが覆いかぶさるようにして私を守る。
次々と石や空き瓶が投げつけられ、窓ガラスにヒビが入る。
「くそっ、話が違うぞ! 警察隊は何をしているんだ!」
御者が叫ぶが、警備に当たっているはずの警官隊は、暴徒の数に圧倒され、遠巻きに見ているだけだ。
いや、むしろ暴徒を扇動している者さえいるように見える。
「……これは、仕組まれた暴動ね」
アレンの腕の中で、私は冷静に分析した。
ボルドーたち貴族派が、交渉を妨害するために手を回したのだ。私を危険な目に遭わせ、「交渉不能」として条約を破棄させるために。
「降りるぞ、セレスタ! ここにいては危険だ!」
アレンが扉を蹴り開けた。
外に出た瞬間、群衆の殺意が波のように押し寄せてくる。
「あそこだ! アークレインの女だ!」
「殺せ!」
男たちが雪崩のように押し寄せてくる。
護衛の兵士たちは散り散りになり、私たちは孤立した。
「走って!」
アレンが私の手を掴み、駆け出した。
ドレスの裾が邪魔で上手く走れない。ヒールが石畳に引っかかる。
それでも、彼の手だけは離さないように必死で食らいついた。
「こっちだ!」
アレンは土地勘があるのか、迷路のような路地裏へと私を導いた。
背後から怒号と足音が迫ってくる。
心臓が破裂しそうだ。
足が痛い。肺が焼けるように熱い。
これが、「外交」の現場だというの?
こんな……まるで獣狩りのような。
突然、空が光り、轟音が響いた。
雷だ。
次の瞬間、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨が降り出した。
「雨……! ついてる、これで追っ手が撒ける!」
アレンが叫び、私を抱えるようにして、目の前の廃墟へと飛び込んだ。
崩れかけた石造りの建物。かつては教会だった場所だろうか。
重い木の扉を押し開け、中に入ると、アレンはすぐに閂をかけた。
ドンドンドン!
誰かが扉を叩く音がしたが、やがて雨音にかき消され、遠ざかっていった。
***
静寂が戻った。
聞こえるのは、激しい雨音と、私たちの荒い呼吸音だけ。
私は冷たい石床に座り込み、肩で息をした。
全身ずぶ濡れだ。
自慢の蒼いドレスは泥まみれになり、綺麗にセットした髪も濡れて顔に張り付いている。
足首がズキズキと痛む。逃げる途中で捻ったらしい。
「……大丈夫ですか、セレスタ」
アレンが近づいてきた。
彼もまた、スーツはずぶ濡れで、眼鏡もどこかで落としてしまったようだ。
裸眼の瞳が、心配そうに私を覗き込んでいる。
「ええ……なんとか。……みっともない姿ね」
私は濡れた髪をかき上げ、自嘲気味に笑おうとした。
けれど、唇が震えて上手く笑えない。
寒さと、恐怖と、そして惨めさで。
アレンは無言で上着を脱ぎ、私の肩にかけてくれた。
彼の体温が残るジャケット。煤と雨の匂いがする。
「少し、休みましょう。雨が止むまでここを出るのは危険です」
彼は教会の奥にあった壊れたベンチの木片を集め、手際よく火を起こした。
揺らめく炎が、薄暗い堂内を照らし出す。
ステンドグラスは割れ落ち、祭壇には埃が積もっている。
神様すら見捨てたような場所。
私は炎のそばで膝を抱えた。
身体の震えが止まらない。
さっきまでの気丈さは、嘘のように消え失せていた。
「……怖かった」
ポツリと、本音が漏れた。
「石を投げられた時……本当に殺されるかと思った」
「……」
「私は、彼らを助けようとして来たのに。食糧を届けて、生活を楽にしてあげようと思ったのに……どうして、あんな憎しみの目を向けられなきゃいけないの?」
涙が溢れてきた。
一度決壊したダムのように、感情が止めどなく溢れ出す。
「お父様の言う通りかもしれない。外交なんて、結局は騙し合いと力関係でしかないのよ。理想なんて……話し合いなんて、暴力の前では無力なんだわ」
私は顔を膝に埋め、声を殺して泣いた。
大公令嬢としての誇りも、外交官としての自信も、泥と一緒に洗い流されてしまったようだった。
今の私は、ただの無力な18歳の少女に過ぎない。
しばらくして。
隣に気配を感じた。
アレンが、そっと私の隣に座ったのだ。
彼は何も言わず、ただ私の背中を優しく撫でてくれた。
一定のリズムで、子供をあやすように。
「……彼らが憎んでいるのは、貴女個人ではありません」
静かな声が、雨音に混じって響く。
「彼らは、自分たちの苦しみの原因を、誰かに押し付けたいだけなんです。それがたまたま、貴族であり、敵国の大使である貴女だった」
「でも……っ」
「分かっています。貴女がどれだけ真剣に準備をしてきたか。昨夜も遅くまで、彼らの生活実態の資料を読み込んでいたことを、私は知っています」
アレンの言葉が、ゆっくりと心に染みていく。
しかし、身体の震えは止まらない。
雨に濡れたドレスは冷たく肌に張り付き、体温を奪っていく。
教会の石床から這い上がる冷気が、芯まで凍えさせていた。
「……寒い」
思わず漏れた呟きに、アレンが表情を曇らせた。
焚き火の熱だけでは、この寒さを凌ぐには不十分だ。
「このままでは風邪を引きますね。……もっと火を大きくできればいいのですが、燃やすものがもう……」
アレンは周囲を見渡すが、使える木材はもう尽きかけている。
外の雨音は、さらに激しさを増していた。雷鳴が轟き、廃墟の窓をガタガタと揺らす。
私たちは、この嵐が過ぎ去るまで、この冷たい石の檻に閉じ込められてしまったのだ。
二人きりで。
アレンが、意を決したように私の方を向いた。
その瞳には、ためらいと、そしてある種の覚悟が宿っていた。
「セレスタ。……失礼を、許してください」
彼はそう言うと、私の隣へ——触れるほど近くへと、身体を寄せた。




