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蒼き大公家の令嬢は、敵国の青年官僚に恋をする 〜捨てられた令嬢と左遷された官僚が、世界を覆す最強のふたりになる話〜  作者: ぱる子
第1章:氷の令嬢と鉄の官僚

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第1話 蒼き令嬢の憂鬱

(これは、二つの国を敵に回してでも恋を貫いた、ある男女の物語である。

後に歴史家たちが『蒼き薔薇の奇跡』と呼ぶことになるその出来事は、一人の令嬢の、静かなる絶望から始まった——)


***


 シャンデリアの光が、私の視界を埋め尽くすほど煌めいている。

 楽団が奏でるワルツの旋律、絹ずれの音、貴婦人たちのわざとらしい笑い声。

 ここはレーヴァニア王国王宮、鏡の間。

 国中から選ばれた貴族たちが集う夜会は、一見すれば平和そのものの光景だ。けれど、私には分かっていた。

 この甘ったるい香水の匂いの下には、腐りかけた国家の死臭が漂っていることを。


「——麗しいですね、セレスタ様。今宵の貴女は、まるで夜明け前の海のようだ」


 ダンスのパートナーを務める伯爵家の三男が、歯の浮くようなお世辞を囁いてくる。

 私は扇子で口元を隠し、完璧な角度で微笑んでみせた。


「光栄ですわ、カイル様。貴方様のリードが素晴らしいおかげです」


 嘘だ。

 彼のステップは半拍遅れているし、手汗がひどくて不快でたまらない。

 けれど、私はアークレイン大公家の娘。

 四大公家筆頭の令嬢として、いかなる時も優雅であること。感情を殺し、家益のために振る舞うこと。それが、物心ついた時からの私の「仕事」だった。


 一曲踊り終え、カイル様が次のダンスを申し込もうとしたその時、低い声が割って入った。


「そこまでにしておけ。私の娘は、今宵は忙しい」


 空気が凍りついた。

 カイル様が弾かれたように背筋を伸ばし、青ざめた顔で頭を下げる。

 現れたのは、銀髪をオールバックになでつけた初老の男。

 私の父であり、この国の外交を牛耳る冷徹な宰相——リオネル・アークレイン大公その人だった。


「……お父様」

「来なさい、セレスタ。別室で話がある」


 父は私を一瞥もしないまま、踵を返す。

 私はドレスの裾を摘まんで一礼し、周囲の好奇の視線を背に浴びながら、父の後を追った。

 

 カツ、カツ、カツ。

 人気のない廊下に、父の軍靴と、私のヒールの音だけが響く。

 嫌な予感がした。

 父がわざわざ夜会の最中に私を呼び出すなど、ろくな用件ではない。縁談か、あるいはもっと悪いことか。


 通されたのは、王宮の奥にある国務大臣室だった。

 重厚な扉が閉ざされた瞬間、父は私に向き直り、単刀直入に告げた。


「来週、アルメスト帝国へ発て」


 一瞬、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。

 アルメスト帝国。

 海を隔てた隣国であり、我がレーヴァニア王国を経済的に締め上げている仮想敵国だ。

 近年、両国の関係は冷え切っている。いつ戦争が起きてもおかしくないと、新聞も書き立てているほどの緊張状態にあるはずだ。


「……留学、ということでしょうか?」

「表向きはな。『文化親善使節団』の特別代表だ。だが、実質的な意味は分かっているな?」


 父の氷のような灰色の瞳が、私を射抜く。

 私は小さく息を吸い、震えそうになる声を喉の奥で押し殺した。


「——人質、ですね」


「そうだ。帝国との通商条約改定交渉が難航している。向こうは『誠意を見せろ』と言ってきた。王族を送るわけにはいかん。だが、公爵位以下の娘では格が足りん」

「だから、大公家の娘である私が選ばれたと」

「光栄に思え。お前の身体一つで、関税率が数パーセント下がるかもしれんのだ」


 父は葉巻を取り出し、無造作に火をつけた。

 娘を敵地へ送るというのに、そこには一片の躊躇も、憐れみもなかった。この人にとって私は、愛すべき娘ではなく、外交カードの一枚に過ぎないのだ。


 胸の奥で、どす黒い感情が渦を巻く。

 またか。

 また、私の人生を勝手に切り売りするのか。

 幼い頃からそうだった。着る服も、読む本も、交友関係も、すべて父が選んだ。「アークレイン家の娘」として完璧な部品になることだけを求められてきた。


 拒否することは簡単だ。

 ここで泣き叫び、「行きたくない」と駄々をこねれば、父は失望し、別の誰かを探すかもしれない。

 けれど。


「……承知いたしました」


 私は顔を上げ、父を見据えた。


「アークレイン家の長女として、その責務、全ういたします」

「ほう。泣き言の一つも言わんか」

「泣いて事態が好転するなら、いくらでも泣きましょう。ですが、今の我が国の財政状況を鑑みれば、帝国との関係維持は生命線。私が逃げれば、次は妹のシルヴィアに白羽の矢が立つのではありませんか?」


 父の眉が、わずかに動いた。

 図星だ。病弱な妹を、あんな煤煙にまみれた工業国家に送るわけにはいかない。


「それに」

 私は扇子をパチリと閉じ、口角を上げた。精一杯の虚勢を張って。

「ただの人質として座っているつもりはありません。帝国の内情、産業構造、弱点……すべてこの目で見て、本国へ報告いたします。私をただの『綺麗な貢ぎ物』だと思っている帝国貴族たちの鼻を明かして差し上げますわ」


 父は紫煙を吐き出し、初めて私を「評価する」目つきで見た。


「……いいだろう。その強気があれば、向こうでも生き延びられる」

「お褒めに預かり光栄ですわ、閣下」


 一礼して、私は部屋を出た。

 重い扉が閉まった瞬間、張り詰めていた糸が切れ、膝から崩れ落ちそうになる。

 壁に手をついて、必死に身体を支えた。


 怖くないわけがない。

 アルメスト帝国は、軍事力と鉄鋼業でのし上がった新興の大国だ。歴史と伝統を重んじる我が国とは水と油。貴族たちは野蛮で、街は煤けていて、文化などないと聞いている。

 そんな敵地の真ん中に、たった一人で放り込まれるのだ。


「……お嬢様?」


 心配そうな声に顔を上げると、専属侍女のマリーが立っていた。

 私の顔色の悪さに気づいたのだろう、彼女は慌てて駆け寄ってくる。


「お顔色が優れません。すぐに馬車の手配を……」

「いいえ、マリー。大丈夫よ」


 私は深呼吸をし、乱れた呼吸を整える。

 ここで弱音を吐いては、負けだ。誰に負けるのかは分からないけれど、とにかく負けたくなかった。

 私はドレスのスカートを少し持ち上げ、太ももに巻いたガーターベルトの感触を確かめた。

 そこには、護身用の小さな銀の短剣が仕込まれている。

 

 これは、十歳の誕生日に、亡くなったお母様がこっそりくれた形見だ。

 『セレスタ。女だからといって、守られるだけではいけません。自分の尊厳は、自分で守りなさい』

 その言葉だけが、私の背骨を支えている。


「マリー、帰って準備をするわよ」

「準備……ですか? 明日もお茶会の予定がございますが」

「すべてキャンセルよ。来週から、少し遠出をすることになったの」


 私は廊下の窓から、夜の闇に沈む海の方角を見やった。

 その向こうに、鉄と蒸気の帝国がある。


「見ていなさい、お父様。そして帝国の狸たち。私をただの世間知らずの令嬢だと思って甘く見たら、痛い目にあわせてやるんだから」


 私は誰に聞かせるわけでもなく、小さく呟いた。

 それは、震える自分自身を鼓舞するための言葉だった。


***


 一週間後。

 私はレーヴァニア王国海軍の巡洋艦『ネレイド号』の甲板に立っていた。

 風が強い。潮の香りが、いつもの優雅なバラの香りとは違って、生々しく鼻孔を刺激する。

 

 見送りの人々はもう豆粒のように小さい。

 父は港に来なかった。見送りに来たのは、泣きじゃくる妹と、数人の使用人だけ。

 まるで罪人の追放劇だわ、と自嘲する。


「お嬢様、風が冷とうございます。そろそろ船内へ……」


 同行を許されたマリーが、ショールをかけてくれる。

 私は首を横に振った。


「いいえ。見ておきたいの」


 水平線の向こう、うっすらと陸地が見え始めていた。

 空を覆う灰色の雲。海面を埋め尽くす大小の商船。そして、林立する工場の煙突から吐き出される黒煙。

 あれが、アルメスト帝国。

 私がこれから生きる戦場。


 父は言った。「関税率のために行け」と。

 国の利益。家の名誉。そんな重たい鎖が、私の手足に絡みついている。

 でも、心のどこかで、奇妙な高揚感もあった。


 この閉塞したレーヴァニアの貴族社会から離れられる。

 誰かの妻として一生を終えるのではなく、未知の世界へ飛び込める。

 

 もしかしたら。

 本当に、万が一の可能性だけれど。

 あの一見無骨で冷たい鉄の国に、私のこの凍りついた心を溶かしてくれる何かが、あるいは誰かが、待っているのではないだろうか。


「……ありえないわね」


 私は自分の甘い感傷を打ち消すように、頭を振った。

 相手は敵国だ。待ち受けているのは、冷笑と侮蔑、そして政治的な駆け引きだけ。

 ロマンス小説のような甘い出会いなんて、あるはずがない。


 ——この時の私は、まだ知らなかったのだ。

 その「敵国」の港で、人生を変える出会いが待っていることを。

 そして、その出会いがやがて、二つの国家の運命を大きく狂わせていくことになるなんて、想像すらしていなかった。


 船が汽笛を鳴らす。

 長く、低く、腹の底に響くような音。

 それはまるで、運命の歯車が軋みながら回り始めた合図のようだった。


 私はアークレイン大公家の娘、セレスタ・アークレイン。

 18歳。

 これは、私が本当の「私」を見つけるための、戦いの記録だ。


「行きましょう、マリー。戦争の始まりよ」


 私は海風に乱れる蒼銀の髪を払い、毅然と顔を上げて、タラップへと足を踏み出した。

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