2-1
夢を見ていた、ような気がする。
瞼を開いたばかりの視界は磨り硝子の向こう側の景色のように暈けている。まばたきを繰り返すと次第に鮮明を取り戻して、象牙色の天井にある小さな染みが捉えられるようになった頃には眠気も収まりつつあった。
上体を起こし、深呼吸をひとつ。首周りが厭に冷たくて手の甲でぬぐうも、雫の気配はなく肌は乾燥したままだ。
深緑色のカーテンに鎖された客室はその色彩も相俟って、樹木が鬱蒼と茂る森の奥のように暗い。目を向けた先、薄暗闇にぼうと浮かび上がる時計が指し示す時刻は五時三〇分を過ぎたところだった。おそらくは蓄光材で作られているらしい文字盤の上を一定のリズムで回り続ける、針金じみた細い秒針。
ふ、と吐息がこぼれ落ちた。まるで無意識に詰めていた呼吸が、息苦しさに耐えかねたように。
夢を見たのは、果たしていつぶりだったろうか。
疲労の蓄積や睡眠の質が悪いと夢を見やすくなるとは一般的に語られているけれど、ある程度の自由がきくとはいえ三六五日二四時間仕事詰めのシオンにとっては睡眠不足も疲労困憊も常態だ。それとも、東区に帰ってきたから、だろうか。
首筋をぬぐう右手をさらに持ち上げ、指先で耳朶を撫ぜる。中心よりやや内側の針で貫いたような小さな穴は、比喩のとおり、シオン自らアンネの裁縫箱から盗み出した小町針で空けたものだ。
初めにぶつりと、薄い膜を突き破るような感覚。覚悟を決めた勢いのままに鋭利な先端が肉を裂きながら前進して、異物が体内に侵入していく。切っ先が反対側に到達したことに安堵するのも束の間、得体の知れない高揚感が疼痛とともにどくどくと激しく脈を打ち始める。
今となっては懐かしい痛みだ。無理やり穴を空けたうえに碌な消毒もしないでいたせいで、しばらく出血と化膿と激痛に苦しめられたことも。
掛け布団から引き抜いた足をベッドから下ろして立ち上がり、備えつけの洗面所に直行する。顔を洗って口を濯ぎ、濡らした手で撫でつけて寝癖を直す。水で薄めた墨のような隈がほんのりと涙袋に不健康な色を添えていた。
最後に瞳と同じ葵色のピアスを右耳に装着して、再び客室に戻る。カーテンの裾から洩れる朝日は先ほどよりも光量を増していて、それに伴って部屋の輪郭も次第に浮かび上がっていく。
大きな欠伸をして、シオンは窓際に寄せられたもうひとつのベッドを見やった。
マリーが目覚める気配はまだない。こちらに背を向けているから寝顔は見えないけれど、きっと間の抜けた顔で夢の世界を歩いているのだろう。
とはいえ、この時間帯は子供が目を覚ますにはまだ早い。大人ですら億劫なくらいだ。早朝に無理やり叩き起こさねばならないほど急を要する用事はなく、むしろしばらく熟睡していてくれたほうが気を張る労力が減るから助かるのだけれど。
「……コーヒーでも飲みに行くか」
そう独り言ちて、キーホルダーに通されたルームキーの一本を取り、部屋をあとにする。
扉を閉める寸前に、彼女を起こしてしまわなかったかと視線を投げ、ほっと胸を撫で下ろした。今の開閉音で反応がなかったならばしばらくは大丈夫そうだ。
鍵を閉めて踏み入れたホテルの廊下は時刻の関係かまだ照明は点いておらず、廊下の最奥の壁に嵌め込まれた巨大な窓から射し込まれる微かな朝陽だけが明るさを添えていた。きんと甲高い静寂が鼓膜に触れる。
階段で一階に下りる。カウンターに在るはずのオーナーの姿を探そうとした矢先に、メルヴァンが階段横のドアから現れた。ちょうど裏に下がっていたらしい。危うく衝突しそうになって、既のところで真横に飛び退ることでことなきを得る。
思いがけない遭遇に、ふたりは視線を交わして数度しばたたく。
「おぉ、おはよう。ずいぶんと早起きだなぁ」
「たまたま目が覚めただけだ。なあメルヴァン、コーヒー置いてないか?」
「コーヒーだぁ?」
「前来た時には置いてあっただろ、あの全自動で豆から淹れてくれる機械」
確かあの辺だったようなと記憶を辿りつつ、指を差して問いを重ねる。ロビーの左奥、揃え置かれたプラスチック製の安っぽいテーブルと椅子が並ぶ休憩所。
「いや何年前の話してんだよ。まあ確かにあったけどさ、もうかなーり昔にとっぱらったよ」
「とっぱらった? なんで?」
「少しでも赤字を減らして、どうにか持ち金を増やしていきたくてな」
お前にゃわからんだろうけどなぁ、とメルヴァンが煙草を咥える。油が切れかけているのか、かちかちと手応えのない音ばかり鳴るライターの点火を試みて、五回目でようやく火を燈して煙草の先端を炙る。
ふう、と蒲公英の綿毛を飛ばすように吹き出された紫煙が、いまだ薄暗いロビーに漂う。絞られた照明に白々と透かされて、彼女のもとを離れていくにつれて春曙の肌寒い空気に溶けて消えていった。
お世辞にも良好とは言えない立地に建つ、寂れた個人経営のホテル。学問で興隆してきた東区唯一の観光地と称される西部の対極に位置するここ北東部では、そもそもの集客自体が困難でもあるのだろう。
物憂げに目を伏せて毒を嗜む姿に、けれどシオンは呆れて半眼になる。
「持ち金を増やしたいなら、あんたはまず煙草と酒をやめるべきじゃないのか」
「うっさいなぁ、こちとら正論なんか求めとらんのよ!」
一応自覚はあったらしい。捏ねくり回した駄々がいっさい親に通じずムキになる子供のように、いーっとメルヴァンが歯を剥く。
やいやいと反論を捲し立てる彼女を他所に、シオンは休憩所に歩み寄る。家具の位置こそ変わっていないものの、コーヒーメーカーが置かれていたと思しき場所には色落ちのない四角い跡が残っていた。
「それよりもシオン、あのお嬢ちゃんは?」
早くも傾いた機嫌をもとに戻したらしいメルヴァンが会話を繋ぐ。感情の変化が目紛しいところは出逢った当初からまるで変わらない。
「部屋でまだ寝てるよ」
「はぁ? まさかお前、あんな小ちゃい子をひとりぼっちにしてるっての!?」
「そうだけど。別になにも問題ないだろ」
「大アリだろうが馬鹿野郎!」
ふらふらとロビーを漂い歩いていたシオンの鼻先すれすれを、突如白いなにかが飛来した。仄かに掠めた熱の行方を追って首を巡らせると、玄関ドアの足元に敷かれたマットの上に煙草が落ちていた。それもまだ点火したままで。
ひゅ、と息を呑む音が喉奥で鳴る。火種は小さくとも炎は炎。敷物の短い毛足に燃え移って広がり、付近にある可燃物を次々と巻き込んで燃え盛る。延焼など以てのほかだ。
勢い余って蹴躓きながらも、火元に辿り着いたシオンは母指球のあたりをぐりぐりと地面にこすりつけて煙草を擦り潰す。数秒ののちに足を持ち上げて確認すると、破れた巻紙からはみ出た刻がマットに散らばっていた。
安堵に胸を撫で下ろしつつ、吸い殻が張りついた靴底をマットで拭く。もとはと言えば彼女のせいなのだから、汚れを増やすなと非難を飛ばされる筋合いはない。
「あのな、世間にはロリコンってのがいてな、お前が思ってるよりよっぽど危険なんだ。そんな混沌の世のなかにあんな可愛い子を放り込んでみろ、一瞬でそういう奴らに目をつけられて犯罪に巻き込まれるかもしんないんだぞ?」
「……ああ。お前がその犯罪者予備軍なのは充分わかった」
だんだん頭痛がしてきた。まるで娯楽で夜更かしをして気分がおかしくなっている学生の相手をしているようだ。
これ以上支離滅裂な発言を繰り出される前にと、シオンは颯と踵を返して一直線に階段まで歩を進める。彼女の前を通りがかるといっそう強く香った、化学物質の焼け焦げる匂い。
「あ、なぁシオン。もし時間に余裕があるなら、あの子を朝市に連れていってあげたらどうだ? 品揃えは若干微妙かもだけど、あれぐらいの歳の子なら充分楽しめそうだろ?」
というか行け、と提案らしからぬ語気の圧が背中越しに伝わってくる。
問い返しや拒否をしようものなら、次は彼女が携えている灰皿が直撃するかもしれない危機が迫っていることを即座に察して、反駁しかけた唇を引き結ぶ。
返事の代わりに顔の横に持ち上げた手をひらりと振って、シオンは客室へ向かう一段目に足を乗せた。
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それってわたしが行ってもいいところなんですか、と。
メルヴァンの提案もとい脅迫に従い、朝市に行く気はないかと尋ねたところ、まばたき二回ぶんの間を空けて返された返答に思わずシオンは首を捻った。シオンが客室に戻った時にはすでに彼女は起床していて、杲々と朝陽が射し込む窓際に佇んで街を見下ろしていた。
遠慮にしては、言葉の選びかたに違和感がある。彼女の口振りだと、朝市に赴くためには誰かの許可がなければならないんじゃないかと言っているようにシオンには聞こえた。もちろん許可などは必要ない。
行きたいか行きたくないかの二択で答えろと問いを重ねたらすぐさま頷いたあたり、自分の意思がないということではないようだけれど。
隣を歩くマリーに目線を落とす。朝市には初めて来たらしく、通りの両端にずらりと並ぶ露店をきょろきょろと見回しては、爪先立ちをしたり小さく跳ねたりして店の様子を窺おうと懸命だ。
休日ということもあり、朝市には老若男女が犇めいている。
十数分ほど歩いたところで、不意にマリーが足を止めた。停止が遅れて数歩ばかり人波を泳いだシオンは、人々の合間を縫って彼女のもとへ戻る。
金茶の双眸が向く先を辿ると、そこにはピンクと白の暖簾が目を惹く屋台があった。
小麦粉を牛乳と卵で溶いた生地を厚さ一センチほどの正方形の型に入れて焼き、好きな具材を挟んで食べる東区では定番の朝食だ。生地に混ぜる調味料と間に挟む具材によって食べ応えのある食事にもデザートにもなる、手軽かつアレンジ性の高さに定評がある。
あれが食べたいのか、とは、敢えて訊かなかった。大衆食堂での件から推察し、尋ねたところで曖昧な返事しか返らないだろうとシオンは判じた。
人混みの切れ目を狙い澄まして左折し、屋台に並ぶ。前に並んでいた親子がタイミングよく完成した品を受け取ったおかげで、奇しくもメニューを確認しないまま自分達の番が訪れてしまった。
「いらっしゃい! ご注文は?」
早朝によく似合う爽やかな笑顔を湛えて、店員の青年が注文を促す。次いで、まだ言語を理解していない赤子が発する声に似た意味を成さない長音が隣から聞こえてきて、やっぱりそうなるかとシオンはそろりと息をついた。
昨日判明した優柔不断に加えて碌にメニューを見られていないときたら、まあ概ね予想通りだ。メニュー表と店員とシオンとを順に見回す忙しない気配をそばに感じ取りつつ開口する。
「甘いのとしょっぱいのだったら、どっちがいい」
「えっ?」
「どっち」
「あ、甘いの、です」
「生クリームかカスタードか」
「な、生クリームで」
「ソースはチョコかフルーツ系か」
「チョコがいい、です」
「追加のトッピングは」
「え、えと……じゃあ、クランチチョコ増量で」
「だそうだ」
「あいよ、毎度あり!」
溌溂と応じて調理を始めた店員を、アクリル製のパネル越しにマリーが凝視している。鉄板の上に置かれた型に生地が注がれ、沸々と表面に気泡が弾け、慣れた手つきでひっくり返される。あらゆる動作や変化の全てに感嘆の息をこぼせる純粋が、少しばかり、羨ましい。
ややしてできあがった商品を受け取って会計を済ませ、ふたりは再び人混みに呑まれる。胸の前で小さな花束を携えるが如く、手のひら大の料理を両手で持つマリーの視線はほとんど手元に注がれていて、初めて甘味を食べた子供のように目を輝かせながら頬張っている。
甘みのある生地の上に砂糖の混ざった生クリームをこれでもかと塗りたくり、縁からあふれるほどに回しかけられたチョコソースと、仕上げに細かく砕いたチョコレートの礫を振り撒いて。
正直、見ているだけで胃がもたれそうだ。
「……よく朝からそんな甘ったるいもん食えるな」
声量を落としたつもりが、どうやら届いていたらしい。マリーが顔を上げた。綿雪みたいな白いクリームがついた、淡く紅の差した頬。
「シオンは甘いもの、嫌いですか?」
「別に嫌いじゃないけど、朝に食べたいとは思わない。早く食べないと下から垂れるぞ」
そう告げた、次の時。
背中を突き飛ばされるように人が押し寄せ、シオンは咄嗟に後方へと飛び退いて大群の行進を回避した。十数人ほどが列を成して去っていく背を屹と睨めつける。
現在地を道なりに進むと古物市がある。時刻的にも開店が差し迫っているから、おそらくはそのせいだろう。
迷惑な奴らだ、と舌打ちをひとつこぼして正面に向き直ったシオンはマリーを呼び止めようとして、けれど開いた唇から紡がれたのは声ではなく唖然とした吐息だった。
数秒前までいたはずの場所に、マリーの姿はなかった。