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1-7

 (そび)え立つビルの輪郭を焼き焦がすように照りつける夕陽が、赫々(かくかく)と街を橙に染め上げる。あと一時間もしないうちに空には濃藍(こいあい)(とばり)が下り、夜が訪れるだろう。


 東部(プフリヒト)から北東部(ヴェズ)へと渡り歩いてきたシオンは、ふと横を行き過ぎた学生の集団を流し見る。

 歳の頃は一〇代後半、おそらく高校生だろう。黒の詰め襟の学生服に身を包んだ男子四人からどっと笑声が湧き立った。馬鹿かよお前、と笑いに上擦った声音と、続く体のどこかを手のひらで叩いたような軽い打音。

 随分と楽しそうだと思いこそすれど、憧れたことは一度もない。


 学校に通って勉学に励み、部活動に精を出し、放課後は友人達とくだらない話で笑いあう。学校行事も、何事も積極的に取り組んで楽しめる性根の持ち主なら、かけがえのない思い出を作れるのだろう。

 自由を謳歌できる青春は、シオンの人生において存在しない偶像だった。かといって手に入れられなかったことに後悔を(いだ)いたことはなく、名も知らぬ誰かが学生時分を満喫している姿を遠目から眺めているだけで充分だった。


 流していた視線をすいと正面に向け直す。淡く色づいた感傷を吹き散らすように、微風(そよかぜ)が前髪を揺らして視界が晴れる。

 この時間帯は学校帰りの学生と親子連れが多い。北東部(ヴェズ)のほぼ対角線上に位置する西部(シュトゥ)から帰宅途中にこちらへ流れてきて、ここで買い物や交友をする人々が多いためである。


 大通りに面する歩道には種々の店舗が立ち並び、ウィンドウショッピングから買い食いまで楽しめるのが北東部(ヴェズ)の売りだ。メインストリートを外れていけば居酒屋も充実している。歩道の反対側では大道芸人が、ボールの代わりに鉄球じみた黒い球で軽快なお手玉を披露していた。ぱらぱらと(まば)らな拍手が鳴る。

 なるほどだから筋骨隆々なのか、とさして意味のない納得をひとつ。とはいえ(はた)から見ただけではあの球体の素材を見抜けはしないから、真相は大道芸人とシオンよりも先に気を惹かれていた観客のみぞ知る、だ。


 その時、シオンの目の前で男児が転倒した。幼い体躯を地面に擦りつける音に紛れて、手に持っていたらしい紙袋から色とりどりの宝石が転がり出ていくからからと硬質な音色があたりに散らばる。

 反射的に踏み(とど)まった足をそのまま折り曲げて、いまだ地べたに寝そべったままの男児の代わりに宝石を拾ってやる。藍玉(アクアマリン)に似た色彩のそれをつまみ上げると、薄氷(うすらひ)を指で押し割った時のように表面に細やかな(ヒビ)が入った。宝石ではなく、精巧に作られた砂糖菓子だ。


 となれば、地面に落下した時点でゴミ箱行きは確定してしまっている。善意の徒労に思い至ったシオンはどうしたものかと拾い上げる手を止め、その隙を狙うかのようなタイミングで倒れ込んでいた子供が突然跳ね起きて駆け出した。


「ママぁ!」

「ああもう、だから走らないでって言ったのに……すみません、わざわざ拾っていただいて……」


 幼子特有の甲声(かんごえ)と、母親らしき女性の声が頭頂に降り注ぐ。


「ほら、ちゃんとお礼言って?」

「やだぁ! きたなくなっちゃったもん、もういらない!」

「落としたのは自分でしょう? 我が(まま)言わないの。ほら……」

「やだやだやだぁ!」


 あまりの勢いに、頭を振り乱して拒絶を示す幼児の目尻からこぼれた涙が宙に散る。夕映えを受けて星のまたたきのようにきらめく、透きとおった雫。

 なおも母親は我が子を(なだ)めようと言葉を投げかけているけれど、喚声は大きくなるばかりだ。そろそろ暴れ出しそうな気配を察知して、咄嗟にシオンは口を開いた。


「……あの、本当にいらないなら俺のほうで捨てとくんで」

「え? でも……」

「気にしないでいいですよ、こんくらい。それよりも早く新しいおやつ買ってやってください」


 これ以上泣き喚かれる前に、とは、さすがに非礼だろうと思って声には出さなかった。

 眉尻を垂れ下げて萎縮しきった表情をしていた母親はふた言ほど口ごもったあと、一礼してから息子の腕を引いて去っていった。火災報知器じみた甲高い泣き声と足音が遠ざかっていく。


 ふたりの背を見送って、シオンは菓子を片す手を動かし始める。紙袋のなかを覗くと、いくつか落下を免れていた数粒が残っていた。

 たびたび雑誌などで取り上げられるほど有名なこの飴細工店は、高温で飴が溶けた時を想定してあらかじめ袋を二重にして販売していることをシオンは知っている。足元の砂糖菓子を寄せ集めて(から)の袋に入れて口を折り畳むと、上着のポケットにしまい込んで立ち上がった。代わりに取り出した消毒シートで手を拭く。地面に触れていないほうはまだ食べられるだろう。


 背後で成り行きを見守っていた少女をちらりと一瞥し、目的地への足を踏み出す。

 歩きざま、砂糖菓子をひとつつまみ上げて口に含んでみた。舌先に触れた瞬間、砂糖特有の纏わりつくような甘さが溶け出した。薄いコーティングを歯で割るとかりりと小気味の良い音が鳴って、その内側にしまわれたゼリーに似た(やわ)い食感の飴を咀嚼する。

 飲み下して、あまりの甘ったるさに堪らず唇の隙間から舌の先を覗かせて外気に触れさせた。特別甘い物が苦手なわけではないけれど、さすがに砂糖だけで作られた菓子はひとつで充分だ。


 よく何個も食べる気になれるな、と先ほどの男児の泣き顔を脳裏に浮かべつつ、恐怖に近い感想を(いだ)く。

 不意に、再び隣に並んだ夕暉(せっき)と同じ色の視線が自らの手元に注がれている気配がした。見やると案の定、興味津々と言わんばかりの色を(たた)えた少女がいた。


「……お前も食うか?」


 少女が生来の大きな瞳をさらに(みは)って繰り返し頷く。

 先に消毒シートを渡して手を拭かせ、彼女が取りやすいように傾けた紙袋のなかから砂糖菓子をひとつ取り出して、口に放り込む前に顔の高さで掲げて金茶の双眸をきらきらと輝かせている。

 この時初めて、彼女の年相応の表情を見れたような気がした。



   ❅



 歩き続けること十数分。大通りから外れて入り組んだ路地をひた歩き、やがてふたりはとある建物の前で足を止めた。懐旧に僅か目を細めて仰ぎ見る、天空を埋め尽くすほどの高層建築物が林立する東部(プフリヒト)と比較するとどうにも低く映る、五階建ての縦長建築。


 ちなみに先刻、人助けのついでにいただいておいた砂糖菓子はすでに少女の腹のなかに収まっている。シオンは一個でギブアップしたにもかかわらず、よほど口に合ったらしい彼女はひとつ、またひとつと手を伸ばしてあっという間に平らげてしまった。やはり子供の味覚はなにかが違うのだろうか。

 木の実を食す栗鼠(リス)のように小さな口を動かし続ける姿を流眄(ながしめ)に見つつ、シオンが恟々(きょうきょう)としていたことに当の本人は気づいていないだろうけれど。


 入り口に続く小さな階段を登り、真鍮の取っ手を押し下げて開扉する。からん、と頭上で鳴る、硝子(ガラス)同士が触れ合うような硬質でよく(とお)る音色。

 ドアをくぐると、正面にはカウンターがあった。部屋の三分の一ほどを区切るように(しつら)えられたそれの向こう、頭が見える高さから推察するに椅子に座っているであろうひとりの女性が、ドアベルの()に肩を叩かれたように顔を上げた。


「あーい、いらっしゃー……ん?」


 女性が口にした挨拶は、けれど言いきる前に疑問符が添えられた。


「どうも。泊まりたいんだけど、まだ空き部屋ある?」

「いやいや待て待て、どうもじゃないだろ!」


 突如、女性が椅子を弾き飛ばす勢いで立ち上がった。かと思えば、机上に両手をついて軽々と自身の体躯を持ち上げ、ぶぉんと(にぶ)い風切り音を引き連れてカウンターを飛び越えた。突飛な行動に少女が短い悲鳴をこぼしたのが微かに聞こえた。

 跳躍の勢いに流されて、頭頂でひとつに結わえられた女性の長い灰色の髪が野を駆ける馬の尾のように揺れる。磨き抜かれたセラミックタイルの床をつかつかと踏み鳴らしながら接近してきた女性がシオンの前で立ち止まった。


 厳格な性格を連想させる吊り気味の瞳は興奮にか炯々(けいけい)と光を放ち、シオンとほとんど同じ目線の高さで凝視してくる。

 書面に書かれた小さな文字に目を凝らすように細めて、大きく開いて。何度か繰り返し、やがて夜空に咲く大輪の花火のように笑みを広げた。


「ひっさびさだなぁシオン! 全然逢いに来てくれなかったから寂しかったんだぞー?」

「寂しがるような性格じゃないだろ、あんたは。それよりも部屋は——」

「それよりもってなんだよつれないなー、もっと久々の再会に盛り上がってくれたっていいじゃんか!」


 呵々(かか)と笑いながら、女性が思いきりシオンの肩をど()く。躱す間もなく繰り出された拳骨(げんこつ)は鎖骨下部を直撃し、衝撃に数瞬呼吸が止まる。冗談抜きで痛い。


「……っ、あぁそうだな、相変わらずなようで涙が出そうだ。で、部屋は空いてるのか?」

「ほーう? お前も相変わらず反抗的だなあ。あんまり生意気言ってると貸してやんねえぞー?」


 女性がにんまりと唇の端を吊り上げて笑う。幼少の頃に読んだ絵本に登場する悪戯猫のようだ。

 こちらがなにを言おうと馬耳東風、糠に釘。周囲を巻き込み害を及ぼしながら進むハリケーンのような奔放かつ豪気な性格も、閉ざすことを知らないよく回る口も、(ことごと)くシオンを蹂躙する。


 もはや張り合うだけ無駄だと判じて、彼女に勘づかれないよう適当に聞き流していた会話の散弾は、されど不意に止んだ。

 なにやらぽかんと間抜けに口を開けたまま、今しがた拳を打ちつけたばかりのシオンの左肩あたりを見ている。否、正確にはその少しばかり下か。

 何事かと瞳の先を辿れば、しばらく黙ってシオンの背後に身をひそめていた少女がいた。


「んんん?」


 女性が上体を屈めてシオンの背を覗き込む。それよりも早く少女がさらに奥に隠れてしまったため、ふたりが顔を合わせることは叶わなかった。


「なあにー? ずいぶんとシャイなお連れさまじゃない? だぁいじょうぶ、捕って食いやぁしないからねぇ」

「ひっ!?」


 さながら誘拐犯と、その標的(ターゲット)にされた子供だ。まるきり怯えてしまった少女がシオンの上着の後ろ身頃をぎゅっと掴んで引っ張り、体の重心がぶれたシオンは咄嗟に右足を半歩後ろに引くことで転倒を防ぐ。

 それを見た女性が声を上げて笑う。


「じょーだん、冗談だって! 怖がらせてごめんねぇお嬢ちゃん、どうかその可愛いお顔を見せておくれ」


 しかし、少女の返答はない。代わりに服の裾を握る力がほんの僅かに弱められた。されどそれは、衣服を掴まれているシオンにのみがわかる変化であって、悲しいかな、依然断固として顔を覗かせてももらえない女性にはなにひとつ伝わらない。

 だんだんと笑みが薄れていく女性から漂う悲痛に、さすがのシオンも見かねて口を開いた。


「諦めろメルヴァン、今日はもうなにをしても無駄だ」

「えー……」

「自業自得だろ。……で、俺の質問に対する回答は?」

「あぁ部屋だっけ? 空いてるよ、一部屋だけね」


 ちょっと待ってなー、と女性もといメルヴァンが悄々(すごすご)とカウンター裏に戻る。引き出しを開け、なかを(まさぐ)るような音。ややして松明(たいまつ)を掲げる女神像の如く持ち上げられた手のなかで、一本の鍵が照明を受けてちかりと光った。

 あろうことか、彼女は腕を下ろす勢いそのままに鍵を投げ渡してきた。それも顔面を狙った見事なストレートで、危うく鍵の先端に眼球を穿(うが)たれそうになったシオンは包み隠そうともせず舌打ちを鳴らす。


「でもさぁシオンくんよぉ。そーんな小ちゃくて可愛い子と相部屋で大丈夫? なんかいかがわしいことしようと思ってんじゃないだろうなぁ?」

「…………」

「お? 図星? もしかして図星だった?」

「んなわけあるか。でもそうだな、あんたがそういうくだらない戯言(ざれごと)を吐くなら、西区(ヴェスト)で買ってきた酒は別の奴に渡すことにするよ。——行くぞ」

「えっ? は、はい……!」

「はぁ!? ちょっ、おい待ちなってシオン!」


 メルヴァンの絶叫に耳を背けて、階段のあるカウンターの右奥へと歩き出す。手のひらに収まるルームキーに(くく)りつけられたプラスチック製の札の番号は三階。階段を使うには苦にならない階層だ。

 階段を登って到着した客室は、ふたりで寝泊まりするには充分な広さだった。横にふたつ並んだシングルベッドに壁面沿いのテーブルと椅子、電気ポットやドライヤーも完備された、ごく一般的なホテル。

 余談だけれど、入室するまでずっと響き渡っていたメルヴァンの声は、(つい)ぞひと言も返さぬまま気づいた時には沈黙していた。


 ひととおり室内を眺め回し、椅子に荷物を下ろして伸びをする。長いこと持ち続けていたせいか、手首を掴まれて下に引っ張られているかのように右半身が重い。荷物は全て、ウルリヒから受け取った依頼書だ。

 結局、依頼の数はシオンの想像を遥かに超えており、今日一日では到底終わらせることは不可能だった。ひとまずはこのホテルに宿泊しつつ、効率的に依頼を消化していくしかないだろう。ひとつひとつの難度は低くとも、(ちり)も積もれば、だ。


 明日から始まる怒涛の日々を想像してしまって、全身に纏わりつくであろう疲労と精神的負荷につい半眼になる。


「……あ、あの」


 不意に声を投げかけられて、振り返ると真後ろに少女が立っていた。見上げてくる、雨滴に濡れた硝子(ガラス)を思わせるつるりとした眼差し。


「そ、そういえばちゃんと、自己紹介してなかったなと、思って。だから、その……」


 一度言葉を断って、少女が固く目を閉じる。まるで、なけなしの勇気を懸命に振り絞るかのように。


「わ、わたし、マリーって言います。雪が降ってた日に、ヘルマンさんに拾われて……えっと、拾ってもらいました。前に住んでいたお家があんまり、好きになれなくて。それで、嫌になっちゃって、お家を出て、連れ戻されないように逃げてたところを、ヘルマンさんが助けてくれて……」


 それは助けたんじゃなくて、誘拐したって言うのが正しいんじゃないのか。


 反射的に言葉を挟み込もうとして、(すんで)のところで言い(とど)まった。少女の話が事実であり全貌ならば誘拐犯と見做(みな)される危険性が極めて高いけれど、彼女の(あずか)り知らぬところでなんらかの交渉が行われていた可能性がある。

 下手なことは言うまいと、シオンはほどきかけた唇を再びに引き結ぶ。


「わ、わたし、本当のお家に帰りたい、です。でも、その……ごめんなさい。生まれたところのこと、全然、覚えてなくって。だけど、頑張って思い出します、ので……これから、よろしくお願いします」


 あぁ、と。

 体躯を折り畳んでいっそう小さくなったその姿を見つめながら、シオンは思い至る。

 想像していた以上に、厄介な依頼を請け負ってしまったのだということを。


「先に言っておくが、」


 だから、口を()いた。

 線引きは、早くにしておくに越したことはない。


 ヘルマンが話していたとおり、シオンと彼女の境遇は似ているかもしれない。過程は違えど、同じ人間に救いの手を差し伸べられた、無力で惨めな子供だ。心のいっとう柔らかい部分を(さら)け出して語らえば、立場も年齢も境遇も差し置いて、互いの良き理解者となり得るかもしれない。


 だけど。だからこそ。


「俺がお前を連れていくのは依頼だからだ。それ以上でも以下でもない。お前は依頼人で、俺は請負人。お前の過去には踏み入らないし、だからお前も俺を詮索するな」


 そう。これはただの仕事だ。仕事に情は必要ない。

 彼女もシオンが目的を果たすための(いしずえ)のひとつにすぎないのだから。


 全ては、依頼を介して得た全財産を注ぎ込んで、北区(ノルト)へと向かうために。

 遠き日に交わした約束を、叶えるために。


「……わかりました」


 いっとき流れた静寂を飲み込むように了承を告げて、少女は顔を上げた。


「じゃあせめて、シオンの邪魔をしないように、気をつけます」


 少女が——マリーが、唇に淡い笑みを乗せる。

 砂糖菓子を口にして浮かべたものとはまるで違う、微笑む誰かの皮を剥いで貼りつけたような、年齢にそぐわぬ()()()微笑を。


「いい子にするのは、得意なので」

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