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歩道沿いのベンチに腰を下ろしたシオンは、背凭れに深く背を預けて空を仰ぐ。目の冴える碧霄に漂う、綿菓子を指先でつまみ取って並べたような薄雲の群れ。
空腹を満たしたことも相俟って、降り注ぐ陽光が程よく体温を上昇させて瞼が重くなる。怺えきれずに欠伸がこぼれ、一拍置いて隣から、ふわぁとつられたような少女の吐息が聞こえてきた。
顔の左半分にちくちくと刺さる視線は紛うことなく少女のものだ。大方、欠伸がばれたのではと気にしているのだろう。生憎と両膝の上に乗せていた手を口元に引き寄せたのは視界の端に映っていたし、声までしっかり届いていたから顔を向けずとも気づいているのだけれど。
彼女に構わず、シオンはパーカーのポケットから小さく折り畳んだ紙を取り出した。昨日、寝台列車で西区から渡ってきた際に駅で拝借した観光マップだ。
開くと東区全域の地図に、記号と細やかな文字を添えて観光名所の案内が書き連ねてある。とはいえ、戦前から学問のみが隆興していた土地にわざわざ足を運ぶだけの価値を有する名所があるかと問われれば目を泳がさざるを得ない。歴史的建造物に関しては学園都市に点在する学び舎ぐらいだろう。
現在地は、と紙面に目を滑らせる。
ヘルマンの依頼を受諾したのはいいものの、せめて東区にいる間は部屋を貸してくれてもよかったのでは、と今さらな不満に口の両端を僅かに下げる。少女の身の上を問い質せてすらいないのだから、即日に別の区へ移動する羽目にはならないだろうに。
「東区で宿に泊まるならミングかヴェズか。情報収集をするならシュトゥに近いほうがなにかと便利だが……」
学園都市の名に違わず、シュトゥは知識と情報の宝庫だ。奇跡的に戦火を免れた古文書を所蔵している大学附属図書館に限らず、区営図書館も含めると東区は国内一の蔵書数を誇る。
今回の依頼で最も重要なのは情報だ。脳内で組み立てているさなかの予定に図書館を真っ先に付け加える。
そこまで考えて、ウルリヒが依頼書は全て郵便局で保管していると言っていたことを思い出した。静止をかけられないかぎり延々と語り続ける彼とまた逢わなければならないのは気乗りしないけれど、早めに受け取りに行かないければそれはそれでうるさく言われそうだ。
「なら東側のヴェズだな。ヴェズには……あいつの宿屋があるか。ちょうどいい」
ひとつ頷いて、地図を畳もうとしたその時だった。
「あ、あのぉ……」
これまでずっと静観していた少女が、おずおずと声を挟んだ。
見やる先、金茶の双眸はシオンの手元に地図に注がれている。
「わ、わたし達、これからどこに行くん、ですか?」
「ああ……」
存在を忘れていた、というわけではないけれど。同行させるならせめて行き先くらいは伝えられないと不安か、と地図を広げ直して彼女にも見えるように傾けた。
「俺達が今いるのはここ。北西部のミングで、郵便局に寄るためにまずはここから東部まで移動する。今から歩けば一〇時あたりには着くだろうな」
こくこくと少女が頷く。
「で、ウルリヒ……郵便配達員の話によると俺宛の依頼が溜まってるらしいから、今日のうちに片せるところまで片すつもりだ」
「依頼……って、なんですか?」
「使いっ走りだの雑用だの、まぁいろいろだ。お前はただついてくるだけでいい、邪魔だけはするな」
「わ、わかりました……!」
いっそう激しく首肯する少女を他所に、シオンは観光マップを折り畳んでポケットにしまった。
正直なところ、現状溜まっている依頼がどれだけあるのか判明しないことには先々の予定が立てられない。少女の内情を聞き出した結果、翌日に東区を離れなければならなくなる可能性も捨てきれず、そうなると次はいつ東区に戻って来られるかもわからなくなる。
依頼が溜まるぶんにはいっこうに問題はないけれど、ウルリヒから念仏の如き愚痴を吐かれ続けるのはごめんだ。
「ここまででなにか質問は?」
「え、えっと……質問では、ないんですけど……」
口内で飴玉を転がしながら喋っているように口ごもる少女に顔を向けるも、視線は絡まなかった。
方々に目を彷徨わせ、一度ぎゅっと固く瞼を閉ざしてから、彼女はようやく言葉の端を繋いだ。
「と、隣を歩いても、いいですか……?」
「は?」
予想だにしないひと言に繕いのない低まった声が口を衝いて、けれど彼女は凄まれたとでも捉えたのだろう。ひっと上擦った悲鳴を上げ、目一杯に五指を広げた両手を胸の前で左右に振りだす。
「いえその、変な意味じゃなくて……! あの、さっき、後ろをついて行ってたら、時々置いていかれそうになっちゃってて、それで……迷子になったらシオンさ——シオン、に、迷惑かけちゃうから……」
「……はあ」
「あ……そ、そうですよね、邪魔ですよね……すみません、今のはなかったことに……」
「あぁいや、今のは拒否じゃなくて」
どう伝えるべきかと、一度言葉を切って思考する。
シオンとて、必ず自分の後ろを歩けと命令した覚えはない。完全に彼女の独断だ。そもそも誰かと共に歩く際に隣に並ぶ許可を得る必要などあるだろうか。脳内に蘇らせた知人達の過去の挙動は総じて、腕を引っ掴んで強引に連れ回したり、肩を組んで逃走の術を奪ってきたりと遠慮の欠片もなかった。思い返しては自然と眉根が寄るほどに。
まるきり畏縮して肩を窄めてしまった少女の、春陽を浴びて淡く透きとおる横髪がはらりと肩から流れ落ちる。承諾しなければ一晩は罪悪感に苛まれそうな悲愴が全身から滲み出ている。
面倒だな。
唇を引き結んでついこぼしかけた舌打ちを止め、立ち上がる。
「好きにすればいい。けど、はぐれても俺は探さないからな」
「……! は、はい!」
やや遅れて、軽快な足音が追いかけてくる。背後から真横に音は移動し、視界の左斜め下にゆるやかに波打つ琥珀色の髪先が蝶の羽搏きのように踊る。
面倒なうえに、扱いづらい。
食堂で注文を決められなかったことといい、この小娘はとかく他人の意思ばかりを尊重する質なのかもしれない。さらに口悪く言ってしまえば、自らの意思がないがために他者の顔色を窺う癖が染みついている。まだ気を許せるほど互いを知らないことも起因していると思いたいけれど、果たしてそれが払拭できたとして改善の見込みはあるだろうか。
シオンの視線を察知したというふうに少女が顔を上げ、眉尻を下げてへらりと笑う。幼い子供が初めて作り笑いをしてみせたような、不恰好な苦笑。されど邪気がいっさい含まれていないことはシオンでもわかる。
腹の底で蠢く、荊棘を思わせる鋭利な毒気を纏った苛立ちから抜け落ちた棘が、ちくりと痛みを走らせた。
なるほどこれが、罪悪感と言うらしい。
❅
道なりに進んで北部ヤルトアを経由し、住宅の影が少なくなったあたりが東部プフリヒトとの境である。住宅密集地と学園都市との境界を象徴する凱旋門じみた大門などは建設されていないために、正確な区切りを把握している住民はごく一部とされているという。
東区の行政区たる東部プフリヒトは高層建築物が建ち並ぶ一画で、そのどれもが一様に透過率の低いミラー硝子を導入している。空模様の迷彩を纏っているかのようなビルが大空を衝くさまを見上げて、最上階に行けば空のなかに立っている気持ちになれるかもしれないと、純真な童心と期待と興奮は二度と心に戻ってこない。
あくまで自分は、の話だけれど。
「わぁ……」
気づけば視界の端からいなくなっていた少女の感嘆が微かに聞こえた。足を止めはしていないようだけれど、速度が落ちているのは明らかだ。
置いていくぞと声を投げるよりも早く、瞳に紛い物の混ざった蒼空を映して恍惚としていた彼女自らはっと我に返って駆け寄ってきた。
「……ずいぶんと楽しそうだな」
敢えて主語を暈した揶揄は、少女にはうまく伝わらなかったようだ。太陽の光を充分に吸い込んだ向日葵のような笑顔がシオンに向けられる。
「は、はい……! こういうおっきな建物、初めて見たので……!」
「ビルなんて東区のどこにでもあるだろ。そこまで珍しいものでもないし」
「そ、そうかもですけど……でもわたし、ほんとに見たことなくって」
「あの家で暮らしてたのにそれはないだろ。どこだろうと連れ回そうとするおっさんがいんのに?」
「え? で、でも、ヘルマンさんは——」
その時、硝子をこすり合わせたような甲高い機械音が空気を裂いた。
きんと耳を劈く騒音に眇めた目の隅で、少女が小さく叫声を上げて両耳を塞いだのが見えた。舌打ちを鳴らして首を巡らせる。街ゆく老若男女もシオン達同様に轟音の直撃を受け、口々にこぼされる非難が濤声のようにさざめく。
鼻先は自然と、自分達が向かおうとしていた道の先へ向けられる。次の交差点を渡った歩道沿いの一画には区役所と、併設された区営公園がある。季節ごとに開催される野外催事の会場たりうる面積と、色彩鮮やかな草花が織りなす風景は住民からの評判が良く、平日であっても来園者は絶えることがない。
その公園の入口、司祭平服に似た純白の衣装に同色の面紗で顔を覆った奇怪な身なりをした集団が、横に列を成して佇んでいる。
「あぁ……」
あいつらか。
ぐつりと、腹の底でなにかが沸き上がる音が聴こえた気がした。体の内側から末端へと熱が伝う。
ふと右の手のひらに針で刺したような鋭い痛みが走って、無意識のうちに強く握り締めすぎていたことに気がついた。
「愚かな過ちによって各地に刻み込まれた戦傷は、いまだ我がアイネーデ共和国に深く残り続けています。大地は痩せ、水は涸れ、汚染された空気は人類の肺を蝕み、やがて死に至らしめました。全ては敵国への勝利にばかり目が眩み、自国へと降り注ぐ戦禍の雨が如何様かを考えもせず化学兵器の製造を続けた南区——ひいてはかつての大統領の不徳によるもの……しかし、不幸ばかりの日々は今や過去。ご覧ください、この美しい景観を! 美しい自然を! 輝かしい我らが共和国を!」
先ほどの騒音の元凶と思しき白服のひとりが、拡声器を掲げて滔々と語る。
「復興学会こそが、愛すべき共和国の救済者なり! 我々が生み出した新たな生命の循環を以て、みなさまのさらなる平和と安寧をお約束いたしましょう!」
羨望、妄信、称賛、憎悪、畏怖、憤怒。四方から注がれる混沌とした視線を一身に受けながら、白服の集団から拍手が湧き起こる。宣誓を褒め称えるように、自分達こそが善なる存在であると知らしめるように。
耳障りな奴らだ。
西区では月に一度見かけるかどうかという程度だったから、すっかり奴らの存在を忘れていた。人倫と道徳とをかなぐり捨てておいて正義を騙る、酔狂で狂信的な気狂い集団。
避けて通ろうにもここは大通り。細道は入り組んでいて目的地に辿り着こうとなると、かなりの遠回りを要求されてしまう。
重ねて舌打ちをこぼし、シオンは意表を突かれて止まっていた足を持ち上げた。今なお響き渡る拡声器越しの声から可能な限り意識を逸らしながら大股で先を急ぐ。再生ボタンの押下によって停止していた映像が結末への道を再び紡ぎだすように、硬直していた人々も各々の日常に戻っている。
「ゲルト、ネライ……?」
不意にぽつりと、少女が呟いた。初めて耳にした言葉を復唱してみる幼子のような、ぼんやりとした口調。
高層建築物すら見たことのないほどの箱入りならば、まあ奴らを認知していなくともおかしくはないだろう。もしくは家族が彼らに批判的で、我が子が毒されてしまわぬように過保護にされていたならば。
気を取られて歩速が遅くなりつつある少女を一瞥して言う。
「おい、置いてくぞ」
「えっ!? す、すみません……!」
ぱたぱたと忙しない足音が徐々に近づいて、落ち着く。
ちょうど公園を通り過ぎたところで、一度鳴り止んだはずの演説がまたしても空気を震わせ始めた。麗らかな春昼を傲慢で塗り潰す声は確かに遠ざかっているはずなのに、鼓膜の内側にこびりついた残滓が殷々と反響して頭の芯を揺さぶってくる。
郵便局への道を急ぐさなか、ふと少女に名を呼ばれたような気がした。あの、だとかその、だとか、うまく聞き取れない不明瞭な言葉ばかりを並べて、結局口を閉ざしたようだ。
それでいい。自分から距離を置いてくれるなら、見当違いも甚だしい雑言を吐きつけずに済む。
ぐつり、と腹底から喉元まで沸き上がった粘ついた感情を飲み下して、シオンは歩速を速めた。