1-5
「なにがよろしくねだ、あのおっさん……」
シオンの恨み言は葉擦れに掻き消されて、吐きつけてやりたい彼にも、吐き出した自身にも届かない。
身支度が整ったことを確認するや否や、ヘルマンは物理的にシオンの背を押してマリーと共に旅路へ送り出した。半ば強引に追い出すような手荒さに成す術なく屋外に放り出される急展開に理解が追いつかずに呆然と佇むふたりを見兼ねたらしいアンネが、どうぞお好きに使ってくださいと差し出した茶封筒の厚みの生々しさが手指に残っている。
ヘルマンの奔放は今に始まったことではない。以前は拒絶こそすれど構うものかと振り回され、全く気が乗らない突発的な買い物や旅行に連れ出されたものだ。まだ陽が昇らない早朝に東区を出発して西区に向かい、日付が変わる間際に帰宅する一日弾丸旅行も両の指を折って数えるだけでは足りないほど経験している。
全ては旧貴族であるがゆえに成せる豪遊だ。女中経由で手渡された金一封然り、彼はどうにも金銭感覚が狂っている節がある。
こいつもその類いだろうな。
紅灰と白磁が稲妻型を描くように敷き詰められた煉瓦道を歩きつつ、シオンは背後に意識を傾ける。
ヘルマンの邸宅を出立して以来、ずっと斜め後ろをついてくる少女——名は確か、マリーと言ったか。彼女は常に一定の距離を保ってシオンの背を追っている。いっそ不自然なほどきっちりと、横一列に広がって歩く大学生の集団に行く手を阻まれて減速した時でさえ、だ。
肌に刺さるような鋭い気配こそ纏っていないものの、警戒されているのは明らかだった。
まあ、それはそうか。
「……あ、あの、」
溜め息をひとつ転がした直後、背後から微かに呼び止める声がした。
振り返った先、緑風に遊ばれて顔半分を覆い隠した自らの髪を搔きわけて露になった丸い瞳がシオンを見上げる。視線が絡んで、少女が横に逸らしてほどけて、また結ばれて。
ひゅう、と微風がふたりを包む沈黙に音を吹き込む。どれだけ待てど、彼女から言葉の端が繋がれることはなかった。神に祈りを捧げるように胸の前で組み握られた両手だけが、言葉の代わりに心情を表して忙しなく動いている。
その時、餌をねだる子犬の鳴き声じみた音が聴こえてきた。出処は探るまでもなく、髪先が翻るほど勢いよく顔を伏せた眼前の少女だ。
ウルリヒが彼の屋敷を訪れるのは決まって朝の六時三〇分。起床から現在まで時刻の確認は特にしていなかったけれど、彼と出逢ってすぐに依頼の話を進められて強制的に送り出されたのだから、今はおよそ七時を数分過ぎたあたり。
つまりは、朝食時だ。
おそらく羞恥で赤く染まった顔を隠そうと俯いているのだろうけれど。琥珀色の髪の隙間から真っ赤な耳の縁が覗いていることには気づいてないんだろうな、と思いつつシオンは口を開いた。
「……その前に、まずは飯か」
❅
「……いい匂い」
呼気を吐き出すのと同じくらいに微かなその呟きは、周囲のさざめきのあわいをすり抜けてしっかりと届いた。
東区で人気を博する大衆食堂の盛況に日時は影響しない。隣席から時折弾ける若い女性の姦しい笑声に目を眇めていたシオンは、机上に広げていたメニュー表から僅かに目線を持ち上げた。
テーブルを挟んで対面に座る少女は、自分の声が聞き拾われていることに気づいていないようだ。どこかそわそわとした様子で首を右へ左へと巡らせている。
すぐ横を通った給仕が携えるトレーに乗せられた料理を横目で見送り、離れた席で他の客が食べている料理に目を凝らし。まるで、初めて食事処を訪れたか、料理そのものを初めて目にしているかのような反応をしている。
数秒待てど、彼女がシオンの視線を察知することはなかった。先ほどのは単なる独り言だったかと判断して、再びにメニュー表へ向き直る。
とはいえ、過去に足繁く通っていた名残で注文は悩むまでもなく決まっている。新しい料理は増えただろうかと頁をめくり進めてみても、品目はおろか冊子自体が最後に訪れた四ヶ月前となにひとつ変わっていなかった。
「……あの、えっと……シオン、さん?」
不意に呼びかけられて、シオンは顔を上げた。疑問符がついていたのは名前に確証がなかったからか、あるいはどう呼ぶべきかわからなかったからか。
見返した先、しきりにまばたきを繰り返す金茶の双眸には緊張が色濃く滲んでいる。数ヶ月とはいえそれなりの信頼関係は築けている大人から紹介された相手とはいえ、見知らぬ男と行動をともにしなければならない状況に今すぐ順応しろというのも無理な話だ。
そういえば、俺からは名乗ってなかったか。
そもそも、彼女はあの屋敷で邂逅する前に自分の話を聞かされていたのだろうか。どこでなにをして、どのような状態でヘルマンと出逢ったのか。そしてどう生き存えてきたのか。仮にその全てを語り聞かされているとしたら、彼女はなにを思っただろう。
「シオンでいい。なんだ?」
「は、はい。その……わたし、どうすればいい、ですか?」
「どうって、なにが?」
「な、なにをすればいいのかな、って、思って……」
語尾は喧騒に負けてほとんど聞こえなかった。空中を彷徨っていた彼女の視線が机上に落ちて、涙袋のあたりに薄らと影が降りる。
なにを、と口のなかで復唱して、眉をひそめた。食事をしに来ているのだから、好きな料理を注文する以外になにをする必要があるというのか。メニュー表はテーブル上に置いて、それも彼女側から正しく読める向きで開いているから見えないことはないはずだ。
そもそも外で食事をしたことがないならまあ、あり得なくはない、か?
地産地消が主で、他区や諸外国の料理を提供する店が存在しないほど閉鎖的な生活様式を構築していた南区の出身だと仮定したとしても、それは戦前の話だ。どう見積もっても十代前半から半ばくらいにしか見えない彼女が生まれた年代には別の意味合いで一変している。
ふつふつと胸中に湧き上がる疑問を軽く首を振って払い除け、シオンは机上に開いているメニュー表を押しやる。
「とりあえず、好きな物を頼め。金ならヘルマンからもらってるから、金額については気にしなくていい」
「あ、わ、わかりました。じゃあ、ええと……」
机の下から伸び上がろうとする犬のようにテーブルの縁に両手を添え、少女がメニュー表に鼻先を寄せる。料理名に限らず、その下に連記されたカロリー表示までも一字一句見逃すまいとするほど熱心に隅々まで目を通し、頁をめくる。
紙面に穴が空くほどに凝視して、また頁をめくる。一枚、また一枚。
決められなかったのか、裏表紙に辿り着いた冊子をひっくり返して、再び初めから見始める。
頬杖をついてその様子を眺めていたシオンは、五回目の繙きが始まる直前で痺れを切らして開口した。
「……なあ、」
「ひゃっ!? は、はい!」
マリーがびくりと肩を跳ね上げて見上げてくる。
「あと何分かかる?」
かれこれ着席から一〇分は経過している。急を要する予定もないけれど、このままでは時間を浪費するだけだ。入店直後に運ばれてきたお冷やもすでに飲み干してしまっている。
少女が両手を胸の前で握り締め、うろうろと視線を泳がせる。細波の立つ水面のように揺れる、照明を弾く金茶の眸子。
「ごっ、ごめんなさい、ごめんなさい……急いで決めます、から……だから……」
語尾は、やはり力なく萎んで聞き取れなかった。
再びに机上へと顔を沈ませてしまった彼女だけれど、やはりいっこうに決まりそうな様子はない。それどころか頁をめくる手すらも止まってしまっている。
埒が明かないな。
大きく息をつくと、肩を跳ねさせた少女が怖々とシオンを見た。されど敢えて視線を絡めることはせず、メニュー表の喉に指先を引っかけて自身のもとに手繰り寄せた。
「えっ、あっ、あの……」
「嫌いな食べ物は?」
「え……?」
「食べられない食材とか、食べれるけどできれば避けたい食材とか」
ふるふると少女が首を横に振る。本当に怒らせてしまったと勘違いしているのだろうか、下瞼に留まる小さな雫溜まりが顔を振る動作につられて揺れ、ほろりとこぼれ落ちた。
服の袖口を引き延ばして強くこすり、摩擦で赤くなった目元を見つめて言葉の端を継ぐ。
「お前が決められないなら、俺が勝手に決める。食べられない料理だったら別のものを頼めばいい。それでいいな?」
「…………」
「返事は」
「はっ、はい!」
了承に頷きを返し、テーブルの端に鎮座する呼び鈴をつまみ上げて振る。長らく使い続けていることを物語る、鉄錆が斑模様を描くそれは、大小高低様々な声のさざめく店内に凛と響き渡り、清廉な音を聴き拾った女性店員がこちらを向いた。
注文は、と告げた女性の声色は怠惰を隠しきれておらず、酷くぶっきらぼうで愛想がない。制帽の隙間から覗く赤紫に染め上げられた髪が目を惹く、学生と思しき若い店員だ。最近雇用されたばかりなのかもしれない。
注文を終え、待つこと十数分。先刻注文を聞きに来た女性店員が、器用にも両手にそれぞれ盆を乗せてやって来た。盆の上に乗った料理から湯気が立ち昇っては吹き抜ける風に呑まれて消える。
テーブルに備えつけてある木製のカトラリーケースから匙をふたつ取り出す。注文時に言い添えていた汁椀に、ふたつ注文した料理のうちの片方を装い、スプーンを添えて彼女に差し出す。同様に自分のぶんも取りわけて、いただきます、と手を合わせた。
乳白色の料理を掬って口に運ぶと、どろりとした食感が舌先に触れた。穀物をスープで煮込んだ料理で、歯で噛み砕かずとも舌だけで擦り潰せるほどに柔らかい。まろやかな甘みが口いっぱいに広がって、あとを追うように濃厚なコクが米穀を包み込んでするりと喉を滑り落ちていった。野菜や茸の食感とスープの旨みとの相性が絶妙で、自然と食器を持つ手が早まる。
おそるおそるというふうにシオンの様子を窺っていた少女は、次々と食べ続ける姿を見て意を決したように唇を引き結んで合掌した。スプーンの先でほんの少しばかり掬い取り、ふうと息を吹きかけてから口に含む。
どうだ、とシオンが尋ねるまでもなく、彼女は双眸に残っていた涙の気配を一瞬にして吹き飛ばした。顔中に咲き広がる、輝かんばかりの喜色。
続けざまに二度、三度と料理を掬い、早くも半分ほど食べ進めた少女が、水を飲んでひと息落ち着いたところで口を開く。
「……お、おいしい、です。すごく」
「それはなにより」
「これ、なんていうお料理ですか?」
「リゾット。米を火で炒めて野菜や茸を具としたソースと出汁で煮た料理だ。見た感じチーズも使われてるっぽいな」
「リゾット……そっちのお料理はまた別、ですか?」
「こっちは粥」
「リゾットに似てるけど、違うお料理なんだ……」
「食べるか?」
ちょうど自分の皿に取りわけたぶんを完食していたシオンは、新しい取り皿に粥を装いつつ尋ねる。
少女は自身の取り皿に残るリゾットと粥の大皿を交互に見やり、ひとしきり悩んだのちに、こっちを食べ終わらせてからにします、とコップを置いて匙を持ち上げた。彼女が自由に取りわけられるように別皿を差し出してから、シオンは粥を口に入れた。
食感こそリゾットに似ているけれど、味の濃さに大きな違いがある。塩のみで味つけされたそれは淡白な味わいで、朝食は量をあまり食べない質であるシオンが好んで食す料理のひとつだが、今回は先に味の濃いリゾットを食べていたせいか、舌が覚えている味よりも数段塩味が強く感じられた。
ふたり揃って黙々と食事を進めていると、突如、正面から苦しげに呻く声が上がった。何事だ、と反射的に顔を撥ね上げる。次いで喉奥につかえた異物を吐き出そうとするように激しく咳き込む少女に、シオンは急いで席を隔てる仕切りの上に置かれた水差しを引っ掴んでコップに注ぎ入れた。勢いで水滴が飛び散るのも気にしていられない。
少女はひと息で水一杯を飲み干して、けほこほと方々に気を遣っているような控えめな咳をする。食堂内はどこかしこも騒々しいから必要以上に声をひそめる必要はないのに、まるで対面にいるシオンにすら聞こえないように無理やり押さえ込むように。
またたく間に空になったコップにまた水を注いでやるさなか、ぼんやりとシオンは思い耽る。
浮き足立った様子であたりを見回して、悩みすぎて料理も自力で決められなくて、料理のおいしさに目を輝かせて、かと思えば喉に詰まらせて瞳を湿らせて。
そそっかしくて、危なっかしい。
「……あの人から見た俺も、こんな感じだったのかな」
久方ぶりに食べた温かい料理が、冷めきった心身に染み渡って。知らずこぼれ落ちた涙をぬぐいながらひたすらに食べ続ける自分を、真正面で眺めていた育ての親は。
尋ねようにも当人はおらず、そもそも覚えているのかすらもわからない。それほどに遠く果敢ない、過去の記憶だ。
少女が無言で小首を傾げて聞き返してくる。噎せたはずみでまたしても浮かんだ涙をぬぐい、さらに紅が差した眦。
ただの独り言だ、と短く返して、シオンは食事を再開した。