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「そんなに怖い顔をしないで、シオン。順を追って話そう」
話を聞き入れようとしない子供に手を焼く親のような微苦笑を浮かべて、ヘルマンが手招く。
眉尻を垂れ下げて不安を露にしていた少女が身を竦め、瞳をヘルマンとシオンとの間で彷徨かせる。呼ばれているがそちらへ行けばシオンと対峙するかたちになるし、かといってずっとその場に立ち尽くしているのも心苦しい、とでも言いたげな仕草だ。
次第に瞳に張られた透明な膜が下瞼で厚みを増し、今にもこぼれ落ちてしまいそうになる。三人分の視線に曝され続けることに耐えられなくなったのか、やがて女中の背に隠れてしまった。彼女の心情を体現するように小刻みに震える、体の輪郭から覗く琥珀色の癖毛。
拒絶を残念がる素振りもなく、ヘルマンが持ち上げていた左手を下ろして口を開く。
「この子はマリー。紆余曲折あって、きみがいなかった間にうちに住まわせることになったんだ」
紆余曲折、ね。
便利な言葉だ。そのひと言で、聞き手は勝手に詳細を想像してくれる。そしてその大半が悲劇的で同情を誘う内容だからなおさらに。
シオンは身をよじり、再びヘルマンと向き合う。
「……明らかにワケありみたいだし、あんまり首を突っ込みたくないんだけど。どこで拾ってきたんだよ」
「きみと同じだよ。道端で蹲っているところを見つけて、」
「わかった、もう充分だ。故郷に帰りたいってのは本人の意思か? それともあんたの厚意?」
「彼女の意思で、僕の厚意だよ。故郷に帰りたいと思うのも、それを叶えてあげたいと思うのも、いたって普通の——」
言いさして、彼はなにかを思い至ったように言葉尻を断った。
「いや、すまない。……この言いかたじゃあ、まるできみが普通じゃないと言っているようになってしまうね」
別に気を遣わなくていいのに、と思いこそすれど、口には出さなかった。気分を害したわけでもないから怒りは湧き上がらないし、そもそもがどうだっていい内容だ。
自分が『普通』に当て嵌まらないことは事実であるし、その点を踏まえたとしても彼の返答は納得できる。
なにかしらの事情を抱えていることは間違いない少女は、そのなにかしらが原因でヘルマンと出逢い、この邸宅での生活に慣れてきた頃に帰郷を望んだ、といったあたりか。されど、希われたところで彼自身が付き添うことは不可能だからと、頻繁に各区を行き来しているシオンに白羽の矢が立った。
一応の筋は通っている。何でも屋として依頼を受けるにあたって重要なのは動機と内容、そして最後のひとつこそが、シオンがこの依頼を受けるか否かの鍵となる。
「で、報酬は?」
端的かつ率直に問う。初対面の相手であれば唖然とするか畏縮するかの二択となる発問でも、ヘルマンの頬に乗せられた微笑みに罅は入らなかった。付き合いが長いのだから、当然と言えば当然なのだけれど。
いっそ無邪気に質問を重ねる我が子の成長を喜ぶ親のような慈愛すらも覗かせる笑みのまま、彼は手のひらを天井に向けてこちらに差し出してきた。
「きみの望む額をあげるよ」
「……ふざけてるだろ、あんた」
「ふざけてなんかいないさ。ただそれだけの労力と時間が必要だと認識したうえでの、真っ当な交渉さ」
「真っ当だって言うなら、初めから具体的な金額を提示するのが筋じゃないのか?」
「うん、それはそうだ。違いない。じゃあ、今のきみの貯金額と合計して目標金額に達するぐらいの額をあげよう」
これでどうだと言わんばかりに堂々と宣言され、シオンは眉間を指で押さえて項垂れた。こちらの言いぶんに納得したような素振りを見せたくせに、言っている内容は大して変わっていない。
全盛期と比較して権力やその他諸々が衰退しているとはいえ、相手は旧貴族。莫大な財産を有する彼にとって大金を軽々と手渡すことなど困難ではないのだろう。しかし、こんなものはもはや交渉とは呼べない。大金を餌にしたある種の脅迫だ。
シオンがなぜ人々から頼み事を受けて回っているのか、その理由と経緯を熟知しているからこその。
もしも。
不意に、とある記憶が眼裏をよぎった。
肩が外れかねないほど懸命に手を伸ばして、されど無慈悲にも別たれて。それ以来一度も会わせてもらえないまま、自分だけが外の世界に放り出された。
この依頼を受けて、大金を手に入れられたなら。
逢いに行きたくても叶わない。叶えるだけの力も手段も財力も、自分にはまるで足りていない。
期限つきの時間だけが、世界の理に従って過ぎ去ってゆく。
まだ、間に合うのか?
悲願成就への希望と心裡の知れないヘルマンに対する嫌厭が乗せられた天秤が、ぐらりぐらりと不安定に揺れる。
シオンの望みを叶えるには多額の資金が必要となる。東区に籍を置きながら頻繁に他区への往来を繰り返しているのも、偏に東区で請け負える仕事の数には限りがあるからだ。
相応の報酬を受け取って雑事を肩代わりしている身で言えたことではないけれど、人間の欲というものは尽きることがない。失せ物を探してほしい。代理で働いてほしい。恋人に別れを告げてほしい。あいつに痛い目を見せてやってほしい。ひとつ片付ければ、また別の場所で生まれ、果てにはかつての依頼人が再びに話を持ちかけてくる。
そんなことを数年も続けていれば、当然厄介な依頼を吹っかけられる機会もそれなりにあった。欲に善悪の区別はなく、法に触れる話も平然と舞い込むのが俗世の現状だ。依頼人の要求を見極める術も、己が身を危険に曝される可能性を導き出す直感も充分に鍛え抜かれている。
だからこそ、今回ばかりは。
単純な依頼内容に釣り合わない報酬の交渉。その裏に得体の知れないなにかが隠されているような気配を察知しているがゆえに、シオンは首を縦に振れずにいる。
「もちろん無理強いをする気はないさ。どんな依頼を受けようが撥ね退けようが、結局はきみの自由だからね」
でもね、とおもむろにヘルマンが立ち上がり、シオンを通り過ぎて女中のそばへ歩み寄る。長いこと首を傾げて女中の背から双眸だけを覗かせていた少女が彼を仰ぎ見た。その眼前に、さながら舞踏会で一曲を誘うような仕草で差し伸べられた紳士然とした手のひらと、おずおずと重なる白魚の手。
ワンピースの裾とゆるやかに波打つ髪を翻して、ようやっと少女が姿を見せた。つい先ほどまで下瞼に溜まっていた涙はなく、代わりに幼さゆえの好奇と警戒に揺らぐ瞳と視線が絡む。
「きっと、きみにとってもいい経験になると思うんだよ」
❅
明日の朝まで返事は待つから、きみなりにゆっくり考えてごらん、と。
最後にヘルマンはそう締めくくって、交渉を終わらせた。一一時から会食があるらしく、女中のアンネを引き連れてせかせかと応接間をあとにすると、一時的にシオンと少女が部屋に取り残されるかたちとなった。
とはいえ、彼女は単に彼らの忙しなさについていけなかっただけなのだろう。しなやかに伸びた上向きの睫毛を羽搏かせて呆然としたのち、涙を怺えるように唇を引き結んで駆け出していった。丈の合わないワンピースの裾を踏みつけたか、あるいは足の大きさに合わないスリッパが床につかえたか、転倒して体のどこかを強か打ちつけた音が廊下中に響き渡った。
もと住んでいた家ではあるものの、数ヶ月ぶりの帰宅のせいで酷く落ち着かない。家具の配置や内装が大きく変化しているわけではないけれど、ふと、この部屋はこんな感じだったろうかとひとたび引っかかりを覚えてしまうと頭から離れにくくなる己の性分が憎らしい。
暇潰しに邸宅内を散策していたシオンは一時間と経たずに外出し、行く宛もなく東区を歩き回って日が暮れた頃に帰宅した。食事は軽く摂ってきたからと早々に自室に籠もろうとしていたシオンを、されどヘルマンとアンネが許してはくれなかった。
四人で囲うには余りあるだだっ広い食卓の、余白を埋め尽くすように並べられた料理をひと口ずつ食しては達成感を噛み締める表情で壁際に控えるアンネに感想を言い。
せっかくだから一緒にお風呂でも入ろうか、などと冗談か本気か判ぜない満面の笑みで誘ってきたヘルマンをひと睨みで撃退し。
無類の映画好きであるアンネが厳選した渾身の一作をみんなで観ようという流れに乗せられかけたところを、今朝は早かったからとそれらしい理由で逃れ。
結局、ひとりの時間を確保できたのは二二時を迎えるあたりで、その頃にはすでに目を開けているのもやっとの状態になっていた。言い逃れに使った早起きは決して嘘ではなく、しかも所持金をはたいて乗車した寝台列車は寝ては覚めてを頻繁に繰り返していたせいでまともな睡眠がとれていなかったのだ。
階段を上り、右手側の廊下の最奥へ直進。自室のドアを開け放つと、隙間から流れ込んだ甘やかな匂いがあえかに鼻腔をくすぐった。
シングルベッドに、木製の書斎机と椅子。当時一六歳の子供に与えられたにしては充分すぎるほどに広く、されど家具はそのふたつしか設えられていない。配置もかつてのまま一度も変えたことはない。
ふと見慣れない色彩が添えられていることに気づいて、シオンは書斎机へと歩を進める。珍しい壺型の、彫刻も細工も施されていないシンプルな硝子製の花瓶。その窪みに球が置かれ、なみなみと水が注がれた下部には幾本もの根が交錯していた。
小指の先のように丸みを帯びた葉と、反り返った六枚の花びらから成る紫色の花冠が一本の茎に寄せ集まっている。
いつから生けられているのだろうか、机上に花殻は落ちておらず、花瓶に汲まれた水は濁りなく透きとおっている。窓を閉めると、微風に漂う芳香は少しばかり遠ざかった。
とろりと瞼が重くなる。限界がくる前にと手早く右の耳朶からピアスを外し、花瓶のそばに置いた。濃藍の空から室内に射し込む月代を撥ね返す、葵色の人工石。
踵を返して、ほとんど倒れ込むようにベッドに寝転ぶ。その勢いで足に引っかけていたスリッパがぱたぱたと間の抜けた音を立てて落下した。きっとひっくり返ってちぐはぐに散らばっているだろうけれど、几帳面に正すだけの余裕はなかった。
すう、と吸い込んだ匂いが、どこか懐かしくて。顔も知らない母親の腕に抱かれた赤子の頃はこんな心地を味わったのだろうか、と柄にもない想像に浸りながら眠りに落ちた。
翌朝。閉ざした瞼を透かす光の眩しさで目覚めたシオンが階下に下りると、洗面所で髪を結い上げているさなかのアンネと遭遇した。盛夏の碧霄を閉じ込めたような瞳がぱち、と鏡越しにひとつまばたく。
「おはようございます、シオンさま」
「おはようございます。……すいません、邪魔しました」
「いいえ、こちらこそお目汚しをしてしまい、申しわけございません」
もう少々失礼いたしますね、と丁寧に断りを入れて、彼女は器用に金糸の髪を掬って編み込んでいく。左右にわけて結った編み込みを後頭部で交差させてピンで留め、後れ毛が垂れないように整髪料で固める。仕上げに頭の上半分だけを覆うキャップを被り、一分と経たずに彼女の身支度は終了した。
依頼の一環で女児の子守りをした経験があるからこそわかる、練度の高さが窺える手捌きだ。
短髪で髪を結ぶ必要はなく、身近に歳下の女性がいなかったシオンに当然ヘアセット技術を習得する機会はなく、ひとつに結うだけでも随分と時間がかかる。おまけに櫛で梳かしているにもかかわらず諸所から髪が撓んで飛び出るうえに、力加減が掴めず引っ張りすぎて女児を泣かせてしまったほどにセンスが皆無だ。
鏡でひと通り確認してから、彼女は身を翻して洗面所を譲ってくれた。シオンの横を通過し、そのまま朝支度に向かおうとする彼女を流眄で見送ろうとして、はたと思い出す。
「あ、そうだ。アンネさん」
「はい、なんでしょう?」
「部屋の風信子、あれ置いてくれたのアンネさんですか?」
呼びかけられて足を止めたアンネが、花の蕾が綻ぶように微笑む。
「いえ。お花屋さんで購入したのはわたくしですが、あのお花を選んだのは旦那さまですよ。シオンさまが好きなお花だからとおっしゃっていました」
シオンは口を噤む。
なんで俺が覚えてない話をあんたが覚えてるんだよ。
昔からよくあることだ。ヘルマンに限らずアンネもだけれど、なぜ数年前に何気なくこぼした発言を覚えていられるのだろう。シオンにしてみれば明日の天気予報について語らう程度の内容の薄さだから、記憶している必要などないだろうに。
そのうち過去の失態も掘り下げられそうな予感がする。在りし日の思い出をしみじみと噛み締めるような面持ちで回顧するヘルマンの姿を想像して、否、想像しかけて止まった。
押し黙ったシオンの内心を見透かしたように笑みを深めたアンネが、朝支度に向かいますと言い残して洗面所をあとにする。
冷水で顔を洗って口を濯ぎ、寝癖のついた髪を水で濡らした手櫛で梳かす。最後に髪を切ったのはいつだったろうか、長さの違う髪先が生来の癖っ毛のせいで方々に散り交っている。
そろそろ切らないとな、といまだ眠気が残っている頭で思いつつ身支度を済ませ、廊下に出てリビングへと向かおうとした、その時。
からんからん、と呼び鐘が来客を報せた。