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1-2

 東区(オスト)在住の学生のうち、住宅密集地(ヤルトア)から学園都市(シュトゥ)へと向かう者が大半を占めているために、始業時間である八時三〇分までの間はあらゆる歩道がほぼ一方通行になる。

 久方ぶりの来訪でそのことを完全に失念していたシオンは群勢に帰路を阻まれ、脇道でひそりと佇立して波が引くのを待つ羽目になった。


 ()(ぜん)と息をついて目を落とした腕時計が示す時刻は八時二五分。方々(ほうぼう)からいっせいに予鈴が響き渡り、今や通学路を()き過ぎるのは寝坊をしたと見受けられる()(なり)の学生が疾走するばかりだ。人波に呑まれる労力も迷惑行為と知りつつ逆行する度胸も今ならば必要ない。

 されど。


「……まあ、どっちにしろもう無理だな」


 諦念を呟いて、シオンはもう一度嘆息する。


 約束の時間は九時。当初の計画ではベンチで適度に暇を潰してから待ち合わせ場所に到着するはずが、予想外の再会によって見事に崩されてしまった。目的地は(くだん)の場所から二〇分程度かかる予定のうえに、逆方向に離れた現在地からでは三〇分以上を要する。走れば間に合わなくもないけれど、シオンの脳内に(はな)からその選択肢はない。

 どうせまだ起きてないだろうし。

 (なか)ば暴言に近い予想も、(ふる)くからの知り合いゆえに。

 向こうから日時を指定してきたとはいえ、冬季と春季はとりわけ遅起きの待ち人が約束どおりに支度を済ませている可能性はだいぶ低い。これまで幾度となく遅刻を待たされた経験から導き出される推測、というよりももはや確信だ。


 長らく地面に根づかせていた足を持ち上げ、もと歩いてきた煉瓦(レンガ)造りの歩道に戻った。地表に落ちる青葉の、微風(そよかぜ)に靡いて細やかに震える影の輪郭を視線でなぞる。重なり合って、離れて、また寄り添う。

 あとひと月早く訪れていれば、見渡すかぎりの薄紅色が敷かれていたのだろう。春季の半ばは特に風が強く、とうに散り過ぎてしまった今では花屑ひとつ残されていない。

 花の盛りは短く果敢(はか)ない。それでも、たったひとりにでも瞳を向けられ愛でてもらえたのならば、花として咲き誇った意味を僅かなりとも得られたはずだ。


 履き潰してすっかり草臥(くたび)れたスニーカーが踏み締める先にはらりと落下したひとひらの緑葉を、大股で飛び越えるように避けてシオンは急ぐ。



   ❅



 結局、シオンが目的地に到着したのは約束の時間を一〇分ほど過ぎた頃だった。

 北部ヤルトア。一戸建て家屋と高層集合住宅が林立する住宅密集地にして、シオンが育った地でもある。


 屋根の形状や壁面の色合い、庭の広さから果てにはドアノブに施された装飾にまでも家主の好みが全面に反映された住宅地は、北上するほど高所得者が住まう。戦前に、首都が置かれている北区(ノルト)との境界に沿う形で貴族が居を構えていた、その名残である。貴族制の廃止と共に階級も撤廃されているため、現在は旧貴族というかたちをとっている。

 過去の地位と称されてはいても、政治に干渉する権利が失われただけでその威望が損なわれたわけではない。社交界には当然の如く名を連ね、行政機関主催の定期講演会にて登壇し。各地でその権威を惜しみなく発揮し、あるいは社会の陰に隠れるようにひそやかに暮らしている。


 そんな旧貴族の邸宅が整然と揃う区画に足を踏み入れる怯臆を、けれど旧貴族ではないはずのシオンは持ち合わせていない。


 からんからん、と打ち鳴らした呼び鐘がけたたましく響き渡る。()(ゆき)を固めて築き上げたかのような純白の壁面に取りつけられた、植物の(つた)と蝶の()(きん)細工をあしらった蹄鉄型(ていてつがた)の小さな鐘。

 広大な敷地に横に広い家屋が建ててある点は他の旧貴族と同じだが、外観だけに注目すれば、この邸宅は比較的素朴な装いをしている。少なくとも庭に噴水が五つも置かれてはしないし、硝子(ガラス)の代わりにステンドグラスを嵌め込んだ巨大かつ絢爛なサンルームが併設されていたりもしない。


 ややして姿を見せた女性が、頭半分高いシオンを見上げてぱちりとまばたいた。瞼の上に乗せたシャドウが落ちて絡んだのか、軽やかに羽搏(はばた)いた睫毛が陽光を受けて刹那輝く。

 女性はドアを大きく開け放って固定し、佇まいを整えて恭しく(こうべ)を垂れた。


「お待ちしておりました、シオンさま。お久しぶりでございます」


 数ヶ月ぶりに耳にした呼称に、氷塊が滑り落ちるような寒気が背筋を走り抜けた。

 シオンは旧貴族でもなければ、遠い血縁がいるわけでもない。主人と(ふる)い仲ならば必然的に一〇年近く仕え続けている女中(メイド)とも一定の親交は築けているはずなのに、彼女はそれをよしとはしてくれないのだ。


「……あの。いつも言ってると思うんですけど、それどうにかなりませんか」

「それ、とは?」

「さま付けで呼ぶやつが……なんというか、その、気色悪くて」


 まあ、と彼女が両手で口元を隠して大仰に驚いてみせる。


「気色が悪いだなんて酷いことをおっしゃりますのね、シオンさま。ですが、あなたさまはわたくしにとって大切な()()()ですもの。敬意を表するのは当然でしょう?」


 誰がいつ、あいつの子供になったんだよ。

 勢いに負けて吐き出しかけた反駁をぐっと喉奥に押し留め、首を横に振る。仮にも長く世話になっている相手だ。反抗期真っ盛りでもなし、多少のお茶目には目を(つぶ)らなければ。


 なかへどうぞと屋敷に招き入れてくれた女性の背を追って廊下を進む。その後ろ姿と、記憶に刻まれている彼女の面影が不意に重なった。(くるぶし)まで隠す黒のドレスに、フリルや装飾の類がいっさいあしらわれていないシンプルなエプロン。もとは髪全体を覆うほどの大きさだったらしいキャップは頭頂から額の上部あたりを覆える程度の面積まで縮小されており、横髪からきっちりと編み込んで結い上げられた金糸は後れ毛一本落ちていない。


 久々とはいえ、たかが四ヶ月だ。劇的に容姿が変わる人間はそう多くはない。シオン自身も成長期はとうに過ぎて背丈も変わらず、だからいつの間にか彼女の背を追い越して見下ろさざるを得なくなった目線が再びに遠ざかりはしない。


「そういえば、シオンさま。確かお約束のお時間は午前九時とお伺いしておりましたが」


 ぎくりと肩が跳ねる。シオンの動揺を察したらしい彼女は、あぁ、と言葉を継いだ。


「大変失礼いたしました。決して責める意図はございません、単なるわたくしの興味です」

「いや、そこは別に気にしてないんだけど……まさかとは思うけど、今日に限ってもう起きてたりは……」

「ご主人さまでしたら、とうに起床なさっていらっしゃいますよ」

「寝といてくれよそこは……」


 彼女曰く、普段は目覚まし(アラーム)ひとつ設定しない彼が、屋敷の物置にしまい込んでいた時計を引っ張り出してまで起床時刻を定めてから(とこ)に入ったのだという。まるで遠足の前夜に興奮を(こら)えきれない幼子(おさなご)のような面持ちだったと語る彼女に、つい脳内で想像してしまいそうになってどうにか踏み(とど)まった。

 いい歳した男がわくわくと目を輝かせている(ツラ)など、思い浮かべて誰が喜ぶものか。


 苔色(モスグリーン)の絨毯の敷かれた廊下をひた歩き、歩道側の壁に嵌め込まれたドアの前でふたりは立ち止まった。全面に精緻な浮き彫り(レリーフ)が施されたそれの余白部を彼女が指の関節で叩く。


「どうぞ、入っておいで」


 間を置かずに返る、ややくぐもった声色。


「失礼いたします」


 開扉した彼女がステップを踏むように移動し、内側からドアを押さえつけてシオンを室内へと導く。今さら気を張る必要はないはずなのに、客扱いをされているという実感が無意識のうちに背筋を伸ばした。

 失礼します、と自らの足音にすら掻き消されそうなほどか細い声で口にしてドアを跨ぐ。


 間取り自体はさほど広くはない、ごく一般的な客間だ。部屋の中央に民族柄が織られた色彩豊かなカーペットを敷き、その上にローテーブルと、ソファーが対面するように置かれている。

 レースカーテンを端に寄せて自然光を照明代わりに取り込んでいるためか、天井に吊るされたシャンデリアに射し込んだ陽光が虹色の欠片を(ちりば)めている。室内の壁際を一周囲うように揃えられた骨董品(アンティーク)の数々が一様に部屋の中心へと視線を注いでいるせいか、歩を進めようとする足が躊躇(ためら)われる。


 応接間と呼ぶには豪奢にすぎる一室の、四人は並んで座れるであろう広々としたソファーの一方に背を預けた男性が悠然と笑む。


「やあ。久しぶりだね、シオン。逢いたかったよ」


 さながら上等な弦楽器の旋律を思わせる、耳触りのいい低音には再会への喜びが(にじ)んでいる。

 白髪混じりの黒髪。懐旧に(ひた)るように細められた黒瞳。口髭も髪色同様に白黒の(まだら)(えが)いているものの、品よく整えられているおかげで不潔さは皆無だ。

 シオンは足を止め、包み隠そうともせず渋面を(あらわ)にした。


「……なんで、」

「早くに起きているんだ、かい? いやだなあ、僕は家主なんだから客人を迎えるのは当然だろう?」

「今までの自分の行いを振り返ってから言えよそれは。こっちは何回あんたが起きるまで待たされてると思ってんだ」

「まあまあ、いいじゃない。たまにはこんな珍しい日があったほうが特別な気がしないかい?」

「しない。ただ逢って話すだけの日に特別感なんて必要ないだろ」

「そうかい? でも、今日はきみが初めて僕との約束に遅刻した日でもあるのに」


 二の句を継ごうとして、シオンはぐっと喉を詰まらせた。


 決して棚に上げていたわけではないけれど、それを引き合いに出されるとなにも言い返せない。彼の言う特別になり得はしないし、彼自身に煽り立てる意図は全くなかったのだろうが。変な深読みをせずに言葉の(うわ)()だけをなぞれば、お前だって寝坊と似たようなことをしたじゃないかと嘲笑されているような気になってくる。

 にこにこと朗らかに笑みを浮かべたままシオンの返答を待つ男性——ヘルマンに対して次第に苛立ちが湧き上がり、つい()めつけて舌打ちをした。きょとんとしばたたかれる、彼の黒瑪瑙(オニキス)じみた睛眸(せいぼう)


 会話が再開する気配を察して、足早に空席のソファーへ歩み寄って腰を下ろした。装飾が一級品ならば家具もまた(しか)り。頑強なスプリングが(でん)()を跳ね返し、数センチほど宙に浮いてから再着席する。


「……遅刻については、悪かった。ここに向かう途中でザグと出会(でくわ)して、西部(シュトゥ)との境で見送ってたら遅くなった」

「あぁ、建築学部に通っている彼かい? 懐かしいなあ。今も元気にしているのかい?」

「さあ、元気なんじゃないか。相変わらず騒がしい奴だったけど」

「ひどい言いようじゃあないか。舌打ちもするし、そんな子に育てた覚えはないんだけどねえ……」


 わざとらしく目頭を抑えてめそめそと泣き真似をするヘルマンをさらにきつく睨んで、いいから早くしろと先を急かす。

 彼は映画のシーンが切り替わるように(さっ)と空泣きを引っ込めると、微笑みを浮かべてテーブル上のカップに右手を伸ばした。ゆっくりと持ち上げられる合間に見えた水面(みなも)の色からしてコーヒーだろうか。


 白磁に暖色を主とした花の絵が施されたカップの縁を唇に寄せ、ひと口嚥下して、ソーサーに戻す。さすがは旧貴族と評するべき洗練された淀みのない一連の動作に、シオンはいっとき会話を繋げることを忘れて目を惹かれてしまった。

 ふう、とヘルマンがこぼした吐息が春陽の射す客間に溶ける。


「じゃあ、きみのお望みどおり本題に入ろう。——アンネ、」

「はい、旦那さま」


 骨董品(アンティーク)が落とす影に紛れるようにひそりと壁際に控えていた女中(メイド)が応じる。


()()()を連れてきておくれ」


 承知いたしました、と再び応じ、ドアの開閉音が続いた。ひとり蚊帳の外に退()けられているシオンは、突如として動き始めた核心の輪郭すらも掴めずに眉宇に(しわ)を刻むことしかできないでいる。


「ところでシオン、突然きみを西区(ヴェスト)から東区(オスト)に呼びつけてしまったわけだけれど。あちらでの仕事はひと段落ついているのかい?」

「……まあ、一応は」

「ならよかった。なにぶん、今回の依頼はなかなかに大変そうでね。区を跨って別の依頼を並行するのは難しいだろうと思っていたんだ」

「依頼? 誰からの?」

「僕だよ」


 予想外の回答にシオンが(しわ)を深める、その反応すらも見越していたかのように彼は微笑を重ねた。


「ちょっと特殊な事情があってね。詳細はアンネが戻ってきてから話そうと思ってるんだけれど」


 その時、ドアの向こう側からノックが聴こえた。シオンを招き入れた時と同じように、入っておいでとヘルマンが穏やかな声調で返す。そのごく短いやりとりの間に、シオンは体ごとドアの方向を振り向いて待ち受ける体勢をとった。

 ドアノブが押し下げられ、開け放たれる。


 されど、客間に戻ったのは女中(メイド)ひとりだった。(へそ)のあたりで両の手のひらを重ね、恭しく辞儀をする、その拍子に。すらりと背筋の伸びた痩躯の後ろに隠れていたもうひとりが姿を覗かせた。


「シオン。僕からきみへの、正式な依頼だ」


 満を持したと言わんばかりに、ヘルマンが言う。


 ゆるやかに波打つ琥珀色(アンバー)の髪。雪を欺く白肌に乗る色は、肉付きの薄い頬と固く引き結ばれた唇の薄紅のみ。リボンやレースがふんだんにあしらわれた黒のドレスは持ち上げないと裾を引き摺る長さで、なるほど女中(メイド)のお古なのだろうと悟る。


「彼女を故郷に帰してあげてほしい」


 瞳を向ける先、薄らと潤みを湛えた少女の金茶の双眸が青陽をきらりと()ね返した。

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