3-7
一度口を衝いて咳き込んでしまえば、あとは自然に治まるまでじっと耐え忍ぶほかない。口元を抑え込んで物理的に押し留めようが、喉首を締め上げて強制的に迫り上がる隙間を埋めようが、なにひとつ効果はない。
いっそのこと、酸素が欠乏して意識を失ってしまえたほうが早く楽になれるかもしれないのに。
「げほっ、ごほっ……っ、く……」
咳く合間に呼吸を挟もうとしてうまく吸えず、さらに咳が連続する。湯沸かしのためにミオが一度離席し、彼女の勧めでマリーが入浴に向かってからの二十数分間もの間、止まぬ咳嗽に苛まれ続けているせいで腹部が引き攣れているかのように痛む。
加えて、やけに肌寒いうえに顳顬のあたりがずきずきと疼いている。症状だけ並べてみれば明確に風邪の症状だけれど、そうではないことをシオンは嫌というほど理解している。
「ずいぶんと具合が悪そうね」
やや離れたところから投げかけられた声に、シオンは視線だけを持ち上げる。カップを乗せたトレーを携え、キッチンからこちらへ向かってくるミオの姿を見るのは本日二度目だ。
「……問題ない」
「そう強がらなくてもいいのに。——どうぞ。これで少しでも体を温められるといいのだけれど」
机上に残されていたソーサーに、新しいカップが乗せられた。植物の蔓と暖色の小花を鏤めた意匠は初めに運ばれたものと同じだけれど、色合いが青や紫といった寒色に変わっている。
薄らと湯気を燻らせる中身は透明。されど、白磁のカップを透かして片栗粉を溶かしたような乳白色に見える。
どうぞ、と促されるままにカップを手に取り、ひと口啜る。味はしなかった。少しとろみがあるような気がするのは白湯だからだろうか。
喉を滑っていった温水が腹の底に落ち、体の内側からじんわりと熱が燈る。春陽に触れた残雪が融けるように悴んだ指先がほどけ、息忙しさに乱れていた心拍も徐々に落ち着きを取り戻していった。
「——ご主人さまのお屋敷から脱走した時、」
ふ、と安堵の息をついた時だった。不意に切り出されたミオの独白じみた会話に、シオンは伏せていた睫毛の先を跳ね上げた。
「この先、みんなの体になにが起こっても対処できるように、保存庫から薬剤をいくつか拝借したの。種の生長を促進させるもの、逆に生長を一時的に止めるもの、種とともに胎芽自身の生命活動を不能にするもの。あとは、種の生長によって引き起こされる不調を緩和させるものもあったわ。胎芽は死に近づくほどに体への負担がとても大きくなるから、もしもあの子達が望んだなら、私が薬を投与して苦しみから解放してあげるつもりでいたの。……一度もそうならずに済んでよかった、って今は思ってる」
「……なぜそれを今、俺に話した?」
「お口に合ったかしらと思って」
意味を咀嚼し損ね、一拍空けてようやっと理解が及んだ。
無味だったはずの液体が途端に口内で苦味を纏った。異物の存在を認知した脳が本能的に体外へ排除しようと嘔吐くも、口から吐き出されるのは空咳ばかりで形を伴うものはなにも出てこない。
ぬくもりを取り戻したはずの全身が急速に冷めていく。脈絡のない会話への違和感よりも、得体の知れない薬品を飲まされた嫌悪が勝って喉が嗄れんばかりの勢いで咳き込む。
「ごめんなさい、言いかたが悪かったわ。私はあなたに害を及ぼす気はないし、そもそも胎芽ではない人体にはなんの効能もないから、どうか安心してちょうだい」
見かねたように謝罪を口にしたミオを、簾がかる前髪の隙間からぎろりと睨め上げる。
「…………なんで、」
古くからの知人達にも、マリーにも、勘づかれていないはずなのに。
地獄から逃げ出したあの日、自分を拾った彼らしか知らないはずなのに。
「なんで俺が、胎芽だと気づいた?」
数日前、メリアという少女が学生に扮してシオン達に接触してきたように。かつてのミオが、食料調達に南部の街へと下りて住民達と交流していたように。
人ならざる者たる胎芽が人間に擬態して日常を送るのは、一般人が想像しているよりも遥かに容易である。
人間と寸分違わぬ容姿に、感情と知能を有するがゆえに意思疎通も可能かつ自我を持つ。種を埋め込むために切開された手術痕さえ目撃されなければ、ひと目見ただけで人間か胎芽かを正確に見分けられる者は存在しない。胎芽の創造主であるかの植物学者すらもそう述べているという。
加えて手術痕は基本的に臍よりも上かつ鳩尾周辺にあるため、よほど親密な相手にしか見つけられない。残るは種の生長に伴う不調だが、それも隠し通す方法は無数にある。
温室からの脱走を経て俗世に紛れ込んできたこの数年間、ひとりとしてシオンの正体を看破した者は現れなかった。
彼女が同じ胎芽であったがゆえに、常人との微かな差異に気づいたというならばまだ納得できる。胎芽化に伴い頭髪や瞳が変色する作用は一般的に知られておらず、若者の染髪やカラーコンタクトレンズの普及も相俟って異変と断定する証拠としては弱い。
「私とよく似ている症状だと思って。でも、確証はなかったわ」
ほんの短い思索から現実に引き戻すように、ミオが声を紡いだ。
「余計なことをしてしまって、本当にごめんなさい。出逢って間もない人間に出された飲み物に異物が混入されていたなんて、あなたの立場で考えてみればとても恐ろしいことよね」
「……いや、もういい」
「でも……」
「謝罪は充分だ。どうせ死にやしないんだろう?」
愁眉を寄せていたミオが視線を彷徨かせ、ややして浅く頷いた。
確かに驚きはしたけれど、彼女の言葉どおり悪意はなかったのだろう。脈拍は正常で、急激に体調が悪化している気配はない。むしろ、無数の針が突き刺さっているかのような喉の痛みが和らいでいるように感じた。
幾多もの胎芽を所有し、あまつさえ孤児に手を差し伸べるふりをして種を埋め込み売り飛ばす、彼女の元所有者は相当な好事家だったのだろう。話題にこそ挙げられていないけれど、下衆の気まぐれで強制的に寿命を操作された者も存在したのかもしれない。
想像するだけで腑が煮えくり返る。
腹の底から沸き上がる憤怒を逃すように深く息を吐き出す。胎芽を生み出した復興学会といい胎芽を購入する輩といい、なぜこうも人倫外れた非道ばかりなのだろう。
「その様子だと、あの子には伝えていないのかしら」
「…………」
「図星みたいね。でも、それでいいの?」
「……なにが?」
「あなたも、もう長くないのでしょう?」
シオンは黙秘を貫く。問いかけの形を成してはいても、彼女のなかでその予想は限りなく正解に近しい位置にあるのだろう。
どれだけ口を噤めども、回答を急かされることはなかった。ミオがカップを傾けて白湯をひと口啜り、ソーサーに戻した音がかたん、とやけに大きく空気を震わせる。
「話題を変えましょうか。——さっき、彼女があなたに故郷を探してもらっていると話していたけれど。南部の森の奥深くに住む私を探しに来るようなあなたは、いったい何者なの?」
「平たく言えば何でも屋だ。もちろん内容の選別はするが、雑用から区を跨ぐ大仕事までだいたいなんでも引き受けている」
「なるほど、どうりで一貫性がないわけね。そのお仕事はいつから?」
「北部の温室から脱走した翌年だから、一七の時だな。共和国内を転々としているとはいえ、よく五年近くも続いてるもんだ」
「それだけ困っている人が大勢いるのでしょうね」
「どうせ顎で使いやすい人間がいて助かってる、とか思ってるだろうけどな」
シオンが一年に引き受ける依頼は二百を優に超えるが、それは純粋に短時間で終了する細々とした依頼が大半を占めるせいだ。先日北東部の露店街に赴いた際、古物商の男性に突発的に声をかけられた一件がその例だ。
むしろ現状のような、故郷を探すために各地を巡ったり行方知れずの幼馴染みを見つけ出してほしいといった、数日以上を目処に引き受ける依頼のほうが圧倒的に珍しい。結果に向かうための道導もなければいつ終了を迎えるかもわからない、さながら立ち込める濃霧のなかをひた歩くような日々。
「でも、あの子の故郷を探すついでに、彼の頼みを引き受けて私を探しに来てくれたのでしょう? 見ず知らずの他人のために身を尽くすなんて、心優しい人じゃないと務まらない仕事だわ」
「……優しい? 俺が?」
「ええ。私はそう思ったけれど」
違うかしら、と小首を傾いだミオの肩口に垂れる三つ編みが、衣服と擦れ合って微かに音を立てた。
はっと嗤笑がこぼれる。人助けを善人のみが成せる行為と思い込んでいる彼女の無垢を滑稽だと嘲るように。
「俺が本当に優しい人間なら、そもそも何でも屋なんてやってないだろうけどな」
シオンが行っているのは慈善事業ではない。依頼内容に応じて報酬の多寡をシオンが判断し、依頼人との間で折り合いをつけることが前提として置かれている以上、ビジネスの一環であることは揺るがない。
繕わずに言ってしまえば、自らの目的のために他人を都合よく利用しているだけだ。
その狡猾は、慈愛とはけして結びつかない。
こちらを見据えるミオがしきりにまばたく。発言の意図を図りかねて、鏤められた言葉を脳内で繋ぎ合わせようとしている、そんな仕草。沈思するように睫毛を伏せ、まばたきの間に天色の眸子を左右に逸らし、やがて真正面に戻される。
「……もうひとつだけ、お聞きしても?」
「俺に答えられる質問ならな」
「答えられはすると思うわ。あなたが答えたいと思うかは正直、微妙なところではあるけれど」
窺い見る彼女の視線に無言で続きを促す。桜色の薄い唇がきゅっと一度引き結ばれ、やがて隙間を生んだ。
「あなたは、なんのためにこの仕事をしているの?」
「金のためだ」
え、と戸惑いを露にしたミオを他所に、シオンは続ける。
「北区に渡るには金が必要だからな。それだけならまだしも、数日宿泊するだけでも馬鹿馬鹿しいほどの金がかかる。目的を果たす前に金が尽きて途中で追放されでもしたら、これまでの苦労が全部無駄になるだろ」
「確かにお金は必要でしょうけれど……でも、数日北区に滞在するだけなら、そこまでの大金は必要ないのではなくて?」
「ああ。滞在するだけならな」
自らが胎芽であることは当然ながら、何でも屋を稼業とする目的もまた、育ての親たるヘルマンと彼の女中であるアンネにしか明かしたことはない。打ち明けたところで共感も賛同も得られないだろうし、むしろ愚行を笑い飛ばされる可能性もけして皆無ではなかった。
つと右腕を持ち上げ、右の耳朶に触れた。小指の爪ほどの大きさの、瞳と同じ葵色の模造石のピアス。
胎芽ではない人間に、理解などできるはずもない。
理解など、そう簡単にされてたまるものか。
「北区の花園に囚われた家族を取り戻す。——そのためだけに、俺は生きている」
ざあ、と。雨音とも葉擦れともつかないさざめきが鼓膜の奥に蘇る。酸素が薄れていく時のようにじわじわと、視界の端から薄桃色の幻影に塗り潰されていく。
あれは、桜の蕾が綻ぶにはまだ寒い春隣の頃だった。
短時間の外出から帰った自分を迎えてくれる彼女の声はなく。気が狂いかねない全面真っ白の部屋の中心に横たわる人の姿と、音もなく広がっていく赤黒い液体に視線は自ずと吸い寄せられた。
雪を欺く白肌を突き破って伸びていく、彼女の血潮に濡れた植物の茎。閉ざされた瞼の縁を萌芽がなぞり、なめらかな流線を描く頬を割り裂いて芽吹き、己を名を紡ぐ声を発するための喉を槍で突き刺すように穿つ。膨らんだ蕾は開かないまま、薫る花の香の代わりに噎せ返るほどの腥臭が立ち込める。
——彼女を、返せ。
ただその一心で、彼女を蹂躙する茎葉をひたすらに引き抜いた。肌膚が裂けようが空洞だらけになろうが、血があふれ出ようが内臓が引き摺り出されようが構いやしなかった。一本抜けば新たな一本が生えてくる無限ループに囚われていることにすら気づけず、最終的に復興学会の学会員に止められるまで足掻き続けた。
——お前らが彼女を、殺したくせに。
——お前らのせいで、彼女は死んでしまったのに。
——なんで、俺が。
その翌日に完全なる開花を果たした彼女は、北区にある復興学会の本拠地兼、上流階級専用の会員制植物園である花園に移送されることとなった。
——なんで家族の俺が、彼女から離されなきゃならないんだよ。
春の花に秋の花は必要ないだろう、と。そんな馬鹿げた理由ひとつで、シオンは唯一の家族と分かたれたのだった。
「金で取引できるのかも、そもそも奴らに交渉するまで辿り着けるかどうかもわからない。北区に辿り着く前に俺が死んで、なにもかもが無駄になるかもしれない」
追憶を終えて、シオンは伏せていた睫毛を持ち上げる。
「それでも俺は、残りの命を全て彼女のために使うと決めた。彼女のためなら他人の不幸や苦悩も利用する。所詮はあんたも、そのひとりってだけだ」
だからこれは、優しさとは呼ばない。慈善など以てのほかだ。
自分自身も他人も、全ては愛する人を取り戻すための礎にすぎないのだから。




