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3-6

「だから私は、彼には逢えない」


 長い追想を終えてなお、ミオの声は毅然と空気を震わせる。


「ここに、みんなを置いてはいけない。大切な家族と同じ場所で咲きたいから」

「……たとえ、幼馴染みと交わした約束を踏み(にじ)ることになるとしても?」

「嫌な言いかたね。でも、そうよ。私は一〇年以上前に疎遠になった幼馴染みよりも、一〇年近くをともにしてきた家族を選ぶわ」


 僅かに寄せられた柳眉と()がれた(まなじり)が、言葉以上に彼女の覚悟を雄弁に語る。

 想像を絶するほどに、語り明かされた彼女の過去は壮絶だった。先天性心疾患を抱えて生まれ落ちた瞬間に芽吹いた人生の萌芽が、年齢を重ねる過程で無数の岩石に進路を阻まれて複雑に折れ曲がりながら生長してしまった。


 彼女はなにひとつ間違っていない。幼馴染みの助力を得つつも陰湿ないじめに屈せず登校を続けた勇気も、自らのせいでつらい思いをさせてしまった人々へのせめてもの償いに()(そう)を選んだ切望も、外の世界に憧れた家族のために脱走を企てる覚悟も、どれほどの歳月が経とうと色褪せなかった恋慕のままに再会を夢見た愛情も、自分を置いて咲き()めた家族に対する深い後悔も。


 けして間違いではない。ただ、結果的に惨憺たる結末を迎えてしまっただけだ。


 彼女が幼馴染みに逢いたがらない理由は判明した。自らの過去の過ちの再演を未然に防ごうとする意思と、苦楽をともにした血縁のない家族との固い絆があるからこそ、同じ(てつ)を踏まぬようその場に立ち尽くしたまま生を終えようとしている。

 けれど。


「……ほ、本当にそれで、いいんですか?」


 意外にも、沈黙を破ったのはマリーだった。喉奥から()り上がってくる嗚咽を(こら)えるように震えている声音は、けれど綺麗に響いた。


「本当は、逢いに行きたいんですよね? も、もちろんミオさんの話はちゃんと聞いてましたけど、でも……そ、それならなおさら、逢いに行かないと、だめだと思うんです」

「……なにが、駄目なの?」


 あまりに平坦な声にぞっと背筋が粟立つ。マリーも同じように感じたようで、背を叩かれたようにぴんと居住まいを正した。


「私の話を聞いてくれていたなら、逢いたくないと思う気持ちだって理解できるでしょう? なのにあなたは、私に彼のもとへ行けと言うの?」

「そっ、それは、そう……なんですけど……で、でも、ミオさんはもう長くないんですよね?」

「ええ。それが、なに?」

「最期に逢えなかったこと、後悔したりしませんか?」


 ミオの天色(てんしょく)の眸子が、僅かに見開かれた。


「しないわ。……後悔なんて、私にする権利はないもの」

「ほ、本当に、ですか?」

「……っ、」


 (ごう)、と音を立ててミオの瞳の奥で炎が猛りだしたのを、シオンは見逃さなかった。


「いい加減にしてちょうだい! 何度言えばわかってくれるの!?」


 まるで、割れた硝子(ガラス)の破片が床に散らばり落ちるかのように鼓膜を刺す怒声が響き渡る。あふれる涙の代わりに両の目で燃え盛る青い(ほむら)が、()べられた激情でさらに激しさを増す。


「本当は私だって逢いに行きたいの。約束を破ってしまったこともちゃんと謝りたいし、話したいことだってまだたくさん残ってる。でも、もうどうにもならないの!」


 悲鳴じみた告解の末に、ミオが背を丸めて咳き込んだ。大声を出すことに慣れていないのか、はたまた体の具合が悪いのか。

 深呼吸を繰り返して、ようやく落ち着きを取り戻したミオがのろのろと顔を上げる。くしゃりと歪んだ表情に涙の跡はやはりなく、虚ろに中空を見つめたまま血色の薄い唇が戦慄(わなな)く。


「……足が、もう自由に動かせないの」


 ぽつりと、雨垂れのように呟きが落ちる。


「食事も食べられなくなって、寝ている時間のほうが長くなった。陽射しを浴びると心臓が破裂しそうなほどに痛んで、雨を見ると喉がからからに渇いて息をするのも苦しくなる」


 マリーが呆然と声にならない声を洩らす一方で、シオンはようやくミオの本心と言動が一致したのを確信した。

 胎芽化は一〇年の延命を齎す代償に、人体に多大なる影響を及ぼす。要するに、人間として生きたまま徐々に植物へと自らの体が植物へと作り変えられていく過程を味わされるのだ。


 前提として、人間と植物は同じ生物というくくりにあっても、生存に必要な栄養素や内外の構造がまるで異なる。たとえば栄養補給。人間は主に食物を経口摂取して体内で分解や消化を行うが、植物は根から水と土壌に含まれる栄養素を吸収して生長する。固形物はいっさい必要ない。

 たとえば生体構造。人間は腕と手を用いて物を掴み、両足を交互に動かすことで歩行を可能とするが、植物には運動も歩行も必要ない。芽吹いたその地で茎葉を伸ばし、花咲みの時節を迎えれば蕾を綻ばせ、種を落として季節が巡るのを同じ場所で待つ。蒲公英(タンポポ)の綿毛のように風によって遠くへ運ばれることを意図したつくりになっているものも一部あるけれど、それはあくまで種子の話であって、根が動くことはない。


 原則的に、人体に埋め込まれた種は宿主である胎芽(シュプロース)の死亡を(もっ)て発芽に至る。しかしその前段階として、死期が迫ると苗床は徐々に侵蝕されていく。

 今の彼女は、そのさなかにいる。逢いに行こうにも足が不自由ならば幼馴染みが暮らす北東部(ヴェズ)はおろか、この森を抜けて南部(ルーイヒ)の街に辿り着くことすら叶わない。


「もうじき私は、花になるのよ」


 だから、間に合わない、と。

 不自由な体では、彼に逢いに行くことは叶わない。奇跡的に助力を得て彼と巡り逢えたとしても、家族の眠るあの地に戻るまでに絶命するとも限らない。


 だから彼女は、諦めた。

 幼馴染みとの再会を。

 お守りのように抱え続けた約束を破ることへの謝罪を。

 一〇年以上も心の(うち)で咲き続けていた恋心の告白を。


 ぱた、と膝頭に置かれたミオの右手の甲で雫が()ねた。涙はあとからあとからこぼれて、降りしきる雨が地面を濡らすように彼女の蒼白い肌を潤ませる。


 シオンはそろそろと息をついた。これ以上は、第三者がなにを言おうと無駄だろう。

 珍しく食い下がったマリーには悪いけれど、シオン達にできることはなにもない。彼女が首を縦に振らないかぎり、手を引いて連れ出せはしない。彼女が望まぬかぎり、遠方の幼馴染みへ(いま)()(きわ)を伝えられはしない。

 後悔や懺悔を盾に行動を強制させることを、優しさとは呼ばない。


 重い沈黙が流れるなか、シオンはふと視線を窓の外に向けた。空から真直ぐに降り落ちる白線は窓全体を埋め尽くし、雨粒が硝子(ガラス)に衝突するけたたましい打音がひっきりなしに奏でられている。夜かと()(まが)うほどに暗く分厚い雲に覆われた雨模様を見るに、晴れ間は当分覗かないだろう。

 されど、この場に居座る理由はもうない。正面に向き直り、依然として顔を俯かせたままのミオを見据える。碧眼からあふれた涙を手の甲だけで抱えきれずに色濃く染まる、ミドルグレーのロングスカート。


「……わ、わたし、は」


 シオンが(いとま)を告げようとするよりも瞬息ばかり早く、マリーが口火を切った。


「依頼で、シオンに故郷を探してもらっています。でも、わたしは自分の生まれた場所を覚えていなくて、まだまだ見つかりそうにありません」


 ゆるやかに持ち上がったミオの柳眉が僅かに寄る。赤く色づいた目元にも瞳そのものにも激昂の()(ごり)はなく、代わりに怪訝がありありと浮かんでいるのが見てとれる。彼女だけではなく、シオンもまた、マリーの突飛な発言に困惑を隠せないでいた。

 天色(あまいろ)葵色(モーブ)の二色の視線を一身に浴びて、マリーはさらに続ける。神に祈りを捧げる信徒のように、両の手を胸の前で組み合わせて。


「お父さんとお母さんのことも、実はあまりよく覚えてません。どこかで一緒に暮らしてたんだろうなとは思うんですけど、笑顔はどんなふうだったかとか、どういう声で名前を呼んでくれてたかとかは、なんにも思い出せなくて。わたしはそれが、とても悲しくって。もう、このままずっと逢えないままになっちゃうんじゃないかと思ったら……だ、だんだん、こわくなってきたんです。伝えたいことも一緒にしたいこともたくさんあったはずなのにひとつも思い出せなくて……いつか思い出せたとしても、お父さんとお母さんが見つからなかったら、一生伝えられないままになっちゃうんじゃないかって。そう、思って……」


 途切れ途切れに紡ぎ出されるマリーの声色が、次第に潤んでいく。


「ミ、ミオさんがもう、自由に動けないってことは、もちろんわかってます。でも、だから諦めるっていうのは、違うんじゃないでしょうか? 逢いに行けなくても、気持ちを伝える方法ならたくさんあります。手紙も電話も、写真もビデオも、このお家から出なくたってミオさんの気持ちを残せます。ミオさんが動けなくても、わたしなら代わりに届けられます」


 お願いします、とマリーが(こうべ)を垂れた。体躯を半分に折り畳み、ゆるやかに波打つ琥珀色(アンバー)の髪が地面に触れるほど深々と。


「まだ、間に合います。どうか……どうか、諦めないでください。お願いします」


 しんと静寂が三人を包む。


 低頭したまま微動だにしないマリーから目を外して一瞥した先、音もなく頬を濡らし続けるミオは凝然と彼女を見つめている。水溜まりに波紋が広がるように双眸が揺らいで見えるのは、けして涙のせいだけではなく葛藤も含まれているのだろうと悟る。

 一度は吹き消したはずの希望の燈火(ともしび)が、眼前にいる少女によって再びに(とも)された。自らの手が焼け焦げようとも風除けとなって懸命に火を守ろうとするその献身を、果たして払い除けていいのだろうか、と。そんな葛藤が彼女の胸中で渦巻いているのではなかろうか。


 双方に次の行動を起こす気配はなく、ひとまず膠着状態を解こうとシオンが身を乗り出したその時、窓の外が目映(まば)ゆい白光に包まれた。直後に耳を(ろう)するほどの雷鳴が轟き、ひゃっと短い悲鳴とともにマリーが身を竦ませた。

 雨脚はさらに強まり、降りしきる透明な(つぶて)が万物を殴打する音はもはや巨大な滝が岩肌を打ち鳴らす轟然たる音色じみている。

 とてもではないけれど、まともに外を出歩ける天候ではない。


 シオンは眉をひそめ、心中で舌打ちを鳴らす。こんなことになるならば、マリーの懇願に熱が入る前にさっさと打ち切って帰路についていればよかった。

 悪罵の代わりとでも言うかのように、込み上がった咳が(こら)えきれずに口を突いて出た。口元を手のひらで覆い、背を丸めて(しわぶ)く。天候以前に、不調が治まらないかぎり(ろく)に動き出せそうにない己の体に、今度ははっきりと舌打ちをこぼした。


「……今日はずいぶんと荒れた天気ね」


 なにかを案ずるような響きを含ませてミオが呟いた。ふう、とひとつ落とされた嘆息に俯けていた顔を上げると、彼女は身を屈めて足元に置いた杖を手繰(たぐ)り寄せていた。


「この雨のなか、街へ戻るのは大変でしょう。どうぞ好きなだけ雨宿りしていって」


 だけれど、と言葉の端を繋げて彼女は立ち上がる。しゃらりとさざめく、小さな青い花のチャーム。


「これ以上、彼の話はしないでちょうだい。……変な気を起こしたくはないから」


 今お風呂を沸かしてくるわ、と。それだけ言い残して、ミオは扉の向こうへ消えていった。

 壁を隔てた向こうで猛り狂う暴風雨よりもすぐそばで、ぱたぱたとしたたり落ちた雫がカーペットを叩いた微かな音が耳朶(じだ)を撫ぜた。

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