3-5
「あなた達は、花葬をご存知かしら」
滔々と語り続けていた追懐を一度断って、ふとミオが尋ねてきた。
真面目な彼女らしく両手を腿の上に揃え置いてぴんと背を伸ばし、傾聴していたマリーが小首を傾げた。そうだろうなとは思っていたけれど、やはり知らないようだ。
代わりにシオンは開口する。諳んじるのは、かつて図書館で復興学会に関する文献を片っ端から読み漁っていた際に記憶した一節。
「難病を抱えた、あるいは余命宣告を受けた患者の意思決定に基づき、胎芽化を施すことで強制的に寿命を一〇年間延長させる、新たに追加された尊厳死の一種」
「ご名答。そして他でもない私が、まさに花葬を選んで延命した人間のひとりだった」
絡めていた睫毛をほどいて、ミオがシオン達に向き直る。自らの鼓動を確認するように、重ね合わせた両の手のひらを胸の中心に添える。
「生まれつき心臓に持病を抱えていた私は、入退院や通院を繰り返しながらどうにか学校に通っていた。それでもやっぱり、『普通』の子供に紛れるには無理があったのよ」
愛情深い両親の計らいで、幼馴染みの少年と同じ学校に通えたとしても。
執拗に嫌がらせを受ける毎日で、まるでヒーローのように自分を守ってくれる男の子がいてくれたとしても。
病魔に侵された脆弱な体で、けして諦めずまだ見ぬ明日に縋りつく意志を燃やし続けていたとしても。
「とうとう余命宣告を受けてしまった私には、病院で死を待つ選択肢しか与えられていなかった。お家には帰れず、もちろん学校にだって通えない。幼馴染みの男の子にも、もう、逢えない。そんなある日、偶然院内で開催されていた復興学会の講演に興味本位で参加した私は、花葬と胎芽の存在を知って——そして、気づいた」
その時、窓向こうで轟音が鳴り響いたと同時に室内灯がふつりと消えた。突如降り落ちた薄暗闇のなか、澄み渡る碧霄を収めた彼女の双眸がいっそう美しくきらめく。
「私も花に生まれ変われば、誰かを幸せにできるのかもしれない」
ぱっと再びに燈った灯のなか、両の指を組み握って神に祈るように。星がまばたきを忘れた新月の夜を駆けた唯一の光芒に願うように。
それは、幼くして自らの命の弥終を知った少女の心底からの希求で、叫びだった。
「持病のせいで両親に迷惑ばかりかけ続けてきた私でも、いじめから庇うばかりに標的にされてしまった彼を助けてあげられなかった私でも、『普通』とは違うせいでたくさんの人に嫌厭されてきた私でも——咲き誇るだけで愛でられる花になれたのなら、と。そう、一〇歳の私は思い至った。……もしも当時の私に逢えたなら、必死に引き止めるでしょうけれど」
でもね、とミオが言葉を継ぐ。すうと息を吸い込む音が微かに震えているように聴こえたのは、果たしてシオンの空耳だったろうか。
「私はこれ以上、大切な人達を傷つけたくなかった。私にくれたたくさんの愛を、同じ量と形で返したかった。——ただ、それだけだったの」
❅
ささやかな幸福が一変してしまったのは、一〇歳の誕生日を目前に控えたある日のこと。
いつもと変わらず学校で授業を受けているさなかだった。なんの前触れもなく左胸のあたりが痛みだして、廊下に倒れ込んだそのまま意識を手放してしまった。次に目が覚めた時には見慣れた真白い病院の天井があって、あぁまた倒れてしまったのかと、心底自分が嫌になった。
私が目を覚ますまで病室に控えてくれていたらしい家族が、瞳から涙をあふれさせながら私を抱き締めてくれた。わあわあと声をあげて泣きじゃくる姿が不思議で、理由を尋ねてみたら丸三日眠り続けていたらしい。突然意識を失う現象はこれまで何度もあったけれど、数日に渡って昏睡するのは先にもあとにもこれが初めてだった。
医師によると、私の体にはすでに日常生活を平穏に過ごせるだけの力は残っていないとのことだった。
それが今なお受け続けている嫌がらせのせいなのか、はたまた単に限界が訪れてしまっただけなのかまでは、担当医は明かしてくれなかった。
保って三年。その間に容態が急変する可能性もあれば、逆に余命が伸びる可能性も残されている。されど、ただの子供に不確定な可能性の話をされたところで正常な理解ができるはずもなくて。
あぁ。私、もうすぐ死ぬのね。
もともと眠りにつく前に『明日もちゃんと目が覚めますように』と唱えるのが常だったせいか、あまり動揺はしていなかった。『そう遠くないうちに死ぬ』が『あと三年で死ぬ』に上書きされた程度の薄い反応だった。
涙のひと粒すら流さない我が子の代わりにしとどに頬を濡らしてくれる両親がいてくれたから、却って冷静になってしまっていたのかもしれない。
それからの命終までの日々は、病院で過ごすことになった。容態の急変への備えと、僅かでも延命が叶えられるように。
当時の私の懸念は、自身の体の具合だとか残された短い人生などではなく、幼馴染みの彼にどう説明しようかという一点だった。
もちろん持病のことは伝えていたし、それなりに重度だということも明かしていた。けれど、可能なかぎり不安を抱かせないように軽い口調で話していたばかりに、余命宣告を受けるほどだという認識はしていないだろうという確信があった。まして入院したまま、二度と戻らないとなればなおさらに。
そういったことがあって、両親は私の入院を『父親の仕事の都合で転勤しなければならない』ことにして、北東部から東部への引っ越しを決行した。そのほうがお見舞いにも行きやすくなるからと、私の頭を撫でながら笑ってくれていたけれど、きっと、あれは私を安心させるための嘘だったんでしょう。
入院前日、お隣さんに引っ越しの話をした時、彼はいったいなにを思っただろう。厄介者がいなくなってせいせいしただろうか。いじめの標的でなくなる可能性を見出せてほっとしただろうか。
ほんの少しでも寂しがってくれたなら、それだけで充分嬉しかった。
父親の車に乗り込む直前で、彼に引き止められた。右の手首を掴む、いじめの輪から何度も連れ出してくれた手は、少しだけ震えていたような気がした。
『いつか逢えたら、また花冠作ってほしいな』
そう、彼は言った。
また逢いたいと思ってくれていることが嬉しくて、再会を願う彼の思いを叶えてあげられないことが苦しくて。東部に向かう車のなかで、私は声を殺して泣いた。
入院生活が始まって三ヶ月ほど経った頃。暇を持て余して院内を徘徊していた時、ロビーの集会スペースに横一列に立ち並ぶ奇妙な集団を目撃した。病院の天井よりも白い司祭平服に、額から胸のあたりまでを覆う長い面紗。
つい興味を唆られて集会スペースに敷き詰められたフェルト製の敷物に座り、結局講演を全て聞き終えてから、彼らが復興学会という団体だと知った。曰く、戦争から奇跡の復興を果たした第一人者らしいけれど、そのあたりの話は難解でよくわからなかった。
その代わりに、自然と歩速が早まる病室までの道中、脳内をとある言葉が占領していた。
花葬。
復興学会が発明した特殊な植物の種を用いて、寿命を強制的に一〇年間延長する代わりに、命が尽きたあとに花となる新たな葬儀。
種を埋め込まれた人間はその亡骸ごと埋葬しなければならないために、骨壷に遺骨は納まらない。されど一度花が芽吹けば毎年同じ季節に咲き誇り、街や人々の心を潤す存在となれる。
まるで、私のためにあるみたい。
特殊な種を埋め込まれれば自動的に寿命が伸びて、たったの三年しかない余命を一〇年まで伸ばせる。両親ともっと一緒にいられるし、病気そのものがなくなればもとの家に戻れるかもしれない。
生まれてこのかた病魔に蝕まれ、両親や隣人に迷惑しかかけてこなかった自分でも、花となれば。
こんな不自由な人間の体さえなければ、自分だって誰かを笑顔にできる。ささやかな幸せを届けられる。
もう誰も、悲しませずに済む。
『お母さん。私、花葬がしたい』
病室を訪れて顔を合わせるなり突拍子もない話を切り出した私に、母は困惑を隠しきれない様子だった。次のお見舞いの時までに必死で掻き集めた、膨大な量の復興学会に関する資料を見た時の母の表情が今でも忘れられない。
心臓の痛みを怺えるような。目の奥から滲み出そうになる涙を我慢するような。叱り飛ばしたいのを腹の底に押し留めるような。
きっと、私の選択は間違っていたのでしょう。でも当時の未成熟な私は、自分が間違っていることに気がつけなかった。
その日は母しか病院に来られなかったから、即答はしてもらえなかった。それどころか、返ってきたのは一ヶ月ほどあとだった。それだけ両親を悩ませてしまったのだと痛感した私は、あなたがそうしたいのならと母に頭を撫でられながらしばらく泣き続けた。
私が返事を待つ間に両親は胎芽化の手続きを進めてくれていて、二週間後に北区で手術が行われるとのことだった。予想だにしない性急に動揺する間もなく、事前の身体検査に追われているうちに、あっという間にその日が目前に迫っていた。
北区から遣わされた専用の車に乗り込んで、私だけが手術を受けるための病院に向かうことになった。両親は病院側から連絡を受けたのち、自家用車で東区から北区に迎えに行くとのことだった。
車に乗り込んでから、見たことのない病室で目を覚ますまでの間の記憶は、なにも残っていない。
車には暗幕が張られていて車内は暗く、景色も見えないせいでどの道を走っているのかもわからずにいた。同乗していた職員らしき人と会話をしていたような気もするし、規則的な振動に眠気を誘われて熟睡してしまったような気もする。
いつ北区に到着して、いつ手術が始まって、いつ終わって病室に運ばれたのか、なにひとつ覚えていなかった。
『おめでとうございます。あなたは胎芽化の手術に成功し、無事胎芽となりました。これであなたも、人類の希望のひとつです』
目が覚めたばかりで朦朧とした私の顔を覗き込んで、見知らぬ大人が言った。奇怪な面紗を身につけていないけれど、復興学会の職員だとひと目でわかった。
種を体に埋め込んでからの数日間は拒絶反応が起こる可能性があるということで、一週間の経過観察ののちに帰宅が許可されるという話には素直に頷いた。経過観察といっても病室で安静にして、朝昼晩の一日三回のバイタルチェックを受けるだけのもので、定められた期間は一瞬で過ぎ去った。
けれど、両親が私を迎えに来てくれることはなかった。
北区に向かう道中で交通事故に遭い、ふたりとも亡くなってしまった。
わたし、が。
私が、花葬がしたいなんて言わなければ。
私が、お父さんを、お母さんを、殺した。
わたしの、せいで。
不幸にも、私には両親以外の親族がいなかった。新しい自宅の住所は事前に教えられていたけれど、帰宅したところでそこに家族はいない。
一晩にして、私はひとりぼっちになってしまった。
身寄りを失った私は一時的に北区の温室に移送され、三日と経たないうちに東区の北部にある施設に移された。
両親との突然の死別から立ち直れないまま、私はとある旧貴族の男性に買われた。随分と財を持て余した御仁のようで、私が迎え入れられた時点で五〇人近くの胎芽が彼の屋敷にいた。
どうしてこうも大勢の胎芽がいるのか。私の疑問に答えてくれたのは、屋敷に来て初めて声をかけてくれたリリという女の子だった。
『あの人は、孤児を拾うついでに胎芽にして自分の庭を飾るのが趣味だから』
花葬しか胎芽化の術を知らなかった私は混乱した。なぜわざわざ人様の子供を拾ってまで胎芽にしたがるのか。
純粋な疑問を口にすると、リリは笑った。嘲笑、と表現するのが正しいような、唇を歪に引き裂く嫌な嗤いかただった。
『あぁ、あんたは知らないんだ。まさか花葬だけが、胎芽化の方法だと思ってた?』
そんなわけないでしょ、と笑声交じりに言う彼女の声色が酷く不快だったことを、今でも覚えている。
『復興学会はね、身寄りのない孤児を攫って無理やり胎芽に造り変えて売り捌いてるの。あたしもそうだし、ここにいる子達のほとんどがそう』
愕然とした。声はおろか、呼吸すらもうまく吐き出せなかった。
復興学会の活動は、慈善活動だったはずではなかったの。人類の未来を希望の光で照らすために生み出されたのが、胎芽ではなかったの。
あまりの衝撃に立ち尽くしてしまった私を置き去りにして、彼女はその場を去ってしまった。追いかける勇気なんてものは持ち合わせていなかった。
屋敷では、比較的自由に暮らすことを許されていた。玩具も娯楽も、楽器や画材もひと通り揃えられていて、不自由と呼べるものはほとんどなかったように思う。
ただひとつだけ、外出だけが徹底的に禁じられていた。敷地外や街へ出かける以前に、屋敷から一歩屋外に足を踏み出す程度でも折檻が待ち受けていた。鞭で叩かれ、革靴で蹴られ、鉄棒で殴られた。どうして酷い仕打ちをするのか、その理由を知る者はいなかった。
三年ほど経った、ある夜更けのことだった。ふと目が覚めて屋敷のなかを徘徊していると、誰かの啜り泣きが聞こえてきた。
月光の降る中庭の中心で蹲るベルという女の子がいた。腰まで伸ばした真白い髪が地面に触れるのも気に留めず、膝を抱えて嗚咽を洩らす痛々しさについ、駆け寄って背中をさすった。
『帰りたい』
くぐもった声が、微かに耳朶に触れた。
『わたしのおうちに、帰りたい』
私の、家。
そうだ、とその時私は、ようやく夢から目を覚ましたような気分になった。
私の家は、ここじゃない。この子の家も、他の子達の家も、ここじゃない。こんな、下衆な商売で腐りきった男が造り上げた、暴力と不自由と絶望ばかりが詰め込まれた玩具箱じゃない。
私は——私達は、あの男のために咲く花じゃない。
しくしくと悲嘆に暮れるベルの肩を強く掴んで、私は力強く言った。方法も策略もまるでなければ、行く宛すらも知らないくせに、不思議と覚悟だけが聢と決まっていた。
『一緒に行きましょう。私達はこんなところで、あの男のためなんかに死ぬべきじゃないわ』
呆然とするベルの手をとって他の胎芽達の寝室へ戻り、私は屋敷からの脱走を実行することを宣言した。それも今夜、これから。みんなベルと同じようにぽかんとした顔をして、けれど同室の八人全員が賛同してくれた。
計一〇人での大脱走。成功率なんて計算できたものじゃない。それでも、こんな地獄で飼い殺されるくらいなら、失敗覚悟で希望に縋りついてみたかった。
暇さえあれば屋敷の探検をしていた私は、建物の構造やセキュリティシステムの設置場所をいつの間にか記憶していた。防犯カメラの死角を縫い歩き、警報に繋がる細いワイヤーを踏み越え、家の裏に置き去られたオブジェを積み重ねて高い塀を攀じ登った。
こうして、あまりに呆気なく、私達はお屋敷からの脱走に成功した。自分達でも驚きのあまり、みんなで顔を見合わせて笑い飛ばしてしまうほどに。
私以外の胎芽はみんな孤児で、記憶も朧な年頃で胎芽につくり変えられた子達だった。少しでも屋敷から離れようと夜通し歩き続けて、陽が登ったあとに交代で仮眠をとったあと、唯一バスの乗りかたを覚えていた私が先導して西部に向かった。年齢的に学生に紛れていたほうが不審に思われないだろうと判断した結果の選択だった。
西部に到着してすぐ、私は自分の計画性のなさを思い知った。屋敷を出る前にお金を拝借していたのはいいものの、一〇人が連日外泊をするには到底足りなかった。このままでは野宿になってしまう。
あと数時間で賞味期限が切れる菓子パンを齧りながら熟考した私は、南部に向かうことを決めた。かつての夏、彼と興味本位で分け入った森の奥に、古民家が残されていたのを思い出したのだ。今も誰も住んでいないなら、お金の心配をすることなく身を隠せる。
南部に渡ると、私は遠い記憶を頼りに森のなかを歩き続けた。生い茂った下草を避けて獣道を歩いていたせいで何度も転んで、結局草花を踏みつけてしまった。胎芽の存在を知って以来、この国にある植物全てが誰かの命と同等なのだという事実が脳裏によぎって、萼から離れた花殻さえも踏むのを躊躇うようになった。
時間をかけて辿り着いた古民家は、当時と全く変わらず姿で残っていた。ここが私達の新しい家で、終の住処。支配も暴力も存在しない世界のぬくもりを、ささやかながらも確かに存在する幸福を、私達はようやく思い出した。
けれど同時に痛感する。
私達は胎芽。期限つきの新たな命を授けられた、人ならざる存在。
屋敷から逃亡して二週間後、コルザが急死した。一〇人の末っ子だった。
突然すぎる永別に、私達は涙に暮れた。一〇年の寿命を追加されたとしても、その時間を丸々生きていけるとは限らない。
瞳が溶けんばかりの涙を流しながら、私は家の離れにある空き地にコルザを埋葬した。胎芽は死後二四時間以内に土に埋めてあげなければ、体の内側から生長した種が皮膚を突き破って花を咲かせてしまう。
人ならざる存在とはいえ、苗床は人体。体液は体のなかで滞ったままで、骨も筋肉も内臓もまだ残っている。惨たらしい死姿を目の当たりにしないためには、埋葬するしかない。
翌日、コルザを埋めた場所に菜種が咲いた。彼女の瞳の色と同じ、目の覚めるような黄色だった。
外見からして一〇歳に満たないコルザが亡くなってしまったことを契機に、みんなが明日を恐れるようになってしまった。孤児から胎芽になった彼女達は自分の実年齢を知らない。だからこそ、いつ訪れるかわからない臨終の時に怯え、明日は自分が息絶えるかもしれないと恐怖に支配されていった。
もちろん、私も。
結局、みんなが恐れていた事態は訪れず、そこから半年は誰ひとり欠けずに平穏な日々を過ごしていった。年長の私とリリとロウカは街に下りて農耕を手伝いつつ余った食材をありがたくいただいて、面倒見がいいカルナが年少の子達の面倒を見る。夕暮れ時にいただいた食材を使って夕食を作り、全員で食卓を囲む。湯船は壊れていたから順番にシャワーを浴びて、その日あった出来事をみんなで語り合う。
特別でもなんでもない、ありふれたごく普通の生活。されどそれが、私達が心の底から願った幸せだった。
三ヶ月後、ラタとラーレが亡くなった。双子らしくぴったりと互いに寄り添った恰好で、固く手を繋いでいた。隣り合わせて埋葬した翌日、燃え立つような赤色の鬱金香と、その足元に雪原を思わせる白い芝桜が寄り添っていた。
半年後、カルナが亡くなった。心配をかけまいと気を遣ったのだろうか、部屋の隅で体躯を丸めていた。物陰で眠る猫みたいに。遠い異国では母親に感謝の気持ちを伝える日らしいその日に、淡い桃色の麝香撫子が風に揺られていた。
そのまた半年後、ロウカが亡くなった。外を出歩くのが好きで、日が暮れても帰ってこなかったのを案じて総出で探しに出ようとしたら、森の入り口で息絶えているのを発見した。ひときわ大きい月が夜空に昇り、狼に似た遠吠えが遠方から何度も響き渡った夜が明けると、紫の昇藤が天を衝いていた。
南部に越して一年と四ヶ月が経った頃、ソニーが亡くなった。勉強好きな一二歳の女の子で、真似事だと称して熱心に中等学校の勉強をしていた。橙色の花車が咲いたその日、若き学者がなんらかを受賞したのだと報道されていた。もしも別の世界が存在するなら、あの子にもあんな将来があったのかもしれない。
その一ヶ月後、メリアが唐突にこの家を出ていくと宣言した。すでに半数以上の家族を喪っていた私達は、必死で彼女を引き止めた。もう私も長くはないから、せめて最期だけは自分のやりたいことだけに没頭して死にたいと。頑として譲らず、彼女は毅然と背を伸ばしてこの家を去っていった。
そうして、二年が経過した。残っているのは私とリリとベルの三人だけ。メリアも生きているのかもしれないけれど、消息を知らない私達には断定できなかった。
家族が減っていくにつれて、家のなかは静寂が際立つようになる。その一方で、家族が眠る離れの空き地は色彩が豊かになっていった。
姿はなくとも、みんなは生き続けている。奇跡とも言うべきか、私達は全員が春に咲く胎芽で、だから季節が巡って雪融けが終わりを迎えた頃、再びに彼女達は土のなかから芽吹いて銘々に茎葉を伸ばして咲き誇った。
悲しくはない、と言えば嘘になる。だけど、いつまでも俯いてはいられないから、無理にでも前を見据えて今日を生き抜いた。生を諦めることは、志半ばで永眠した家族に失礼だと思って。
星囁月の第三日目、冬季の始まりの日だった。越冬のために食材を買い込もうと、私はひとりで街に下りた。この頃は、人一倍怖がりなベルを独りにしないように、外出の際は私とリリのどちらかが必ず一緒に留守番をするようにしていた。
本来胎芽は食事を必要としない。けれど、以前のご主人さまの命令で私達は『人間のままでいる』ことを強制されていたことも相俟って、来る冬に備えて食材調達に赴いた私に、馴染みの農家のおばさまがふとこう言った。
北東部から来た若い男性が、ミオという女性を探していた、と。
根拠はなかったけれど、ディックのことだと確信した。南部ではミレイヤという偽名を使っていて、本名を知る人は新しい家族以外にいなかったから。
私を、探しに来てくれた。
私のことを、まだ憶えてくれていた。
思わずこぼれそうになった涙をぐっと怺えて、聞いたことのない名前ですね、とその場は濁して、逃げるようにして私は森へ帰った。早く遠ざからなければ、おばさまから根掘り葉掘り聞き出してしまいそうだった。
それから数日間、私の頭のなかは彼のことで埋め尽くされていた。長いこと逢えずにいた幼馴染み。二度と逢えないと思っていた優しい男の子。死ぬ前にもう一度逢えるかもしれない、初恋のひと。
そんな気の抜けた思考が、きっと傍から見れば丸わかりだったのでしょう。まるきり呆れ果てた表情のリリに、なんかあったでしょと言い当てられて、恥ずかしいと思いつつ私は街での出来事を明かした。
子供の頃に離ればなれになった幼馴染みの男の子が自分を探しに来ていたこと。それが嬉しくて、いい歳にもなって舞い上がってしまっていたこと。
『そんなに好きなら、逢いに行けば?』
突然差し出されたリリからの提案に、有頂天にも昇る思いになったのはほんの一瞬だけ。それはできないわ、と首を振って、私は笑った。
『みんなのそばを離れたくないもの』
『別に死ぬまでその人と一緒に暮らすわけじゃないんだから、別に気にしなくてもいいのに。もう生き残ってるのはあたしとベルしかいないんだし、数日ミオ姉がいない程度でなにも変わらないでしょ』
出逢った当初から、リリは鋏で麻布を裁つようなすっぱりとした物言いをする子だった。胎芽化が下衆な金儲けに利用されていることを知らない私を嘲笑ったかつてもそう。
彼女の発言に唖然としながら、私の意志は不安定に揺れていた。
本当は、今すぐにでも逢いに行きたい。逢って、遠い昔に交わした約束を叶えたい。でも、今の私には新しい家族がいる。みんなが順を追って開花しているさなか、南部を離れている時に自分が突如絶命しないとも限らない。
これ以上悲しまないように、苦しまないように、強引に連れ出した血の繋がらない大切な家族。だから、私が最後までみんなを守らないと。
『綺麗ごとはいいから。逢いたいの? 逢いたくないの?』
リリの言葉はいつだって鋭い。容易く肉と骨を裂いて、その裡に閉じ込めた本心を引き摺り出そうとする。
『………………逢いたい』
一度口にしてしまえば、止める術はなくなった。
『逢いたいわ。病弱ではなくなった今の体で、本当は歩くのが速い彼の隣を歩きたい。こんな遠くまで探しに来てくれたお礼に、また昔みたいに花冠を作ってあげたい。ずっと——幼い頃からずっとずっと、あなたのことが好きだったと、伝えたい』
だってあなたは、私の生きる理由のひとつだったから。
息が切れるほど思いの丈を吐き出した私を、リリは嘲らなかった。目を細めて少し意地悪そうに笑う普段の笑顔を浮かべて、彼女は私の両肩を掴んで半回転させてから軽く突き飛ばした。
『ほら、早く行きなよ。のんびりしてるうちに時間がなくなっても知らないからね。あたし達には時間がないんだから』
はっと目を瞠って、私は深く頷いた。
私達は胎芽。期限つきの命を与えられた、人ならざる者。躊躇う暇なんてない。
リリに背を押され、ベルに見送られ、私は家を飛び出した。ちらちらと綿毛じみた六花が降り落ちる、空風が冷たい冬の日暮れだった。
悲劇のヒロインが自らの運命に立ち向かい、長きに渡って抱え続けた愛の花束を渡しに向かう。まるでロマンス映画の主役になったかのような心逸る思いで、私は北東部へと向かう。
されど神様には、こんなちっぽけな私の勇気も決意も、なにひとつ見えていなかった。
結論から言えば、私は彼を見つけ出せなかった。丸一日寝ずに街中を歩き回って、時に人に尋ねて、門前の表札をひとつずつ食い入るように睨めつけて、それでも見つけられなかった。
もっと時間をかければ、東区中を探せたかもしれない。もっと早く南部を発てば、帰路につく彼の背に少しでも近づけたかもしれない。
今さら後悔したところで、もう遅い。
やりきれない思いを胸中に燻らせたまま南部に戻り、雪が染み込んで泥濘んだ森の道を踏み締めて帰宅した。
ドアを開けた刹那に鼻腔を突いた鉄錆と強い花の香は、異常事態を理解するには充分すぎた。
泥で汚れた靴を脱ぐことなど思考から放り捨てて、居間へ向かって疾走する。頬を切る風は血腥く、かつてのお屋敷で幾度となく目撃した惨憺たる光景が脳裏に蘇った。
蝶番が悲鳴をあげるほど勢い任せに居間のドアを開け放ち、眼前に広がった惨状に言葉を失うほかなかった。
床一面を浸す鮮血。それを泉に見立てて花筏の如く浮かぶ夥しい数の釣鐘草。その花を咲かせる者は、ひとりしかいない。
蹲るリリがゆらりと顔を持ち上げた。彼女の腕に抱かれていた小さな子供の躯には無数の茎が生え揃い、引き裂けた肌膚の隙間から血潮が流れ出ては床上を侵蝕していく。
ぱち、とひとつまばたいた彼女の左目から、瑠璃唐草の花冠が咲きこぼれた。
『…………ごめ、ん、ミオね、ぇ』
はらはらと、とめどなく花びらが散り別る。落涙のように。
『あた、し、間に合……なか、た』
淡い青に混じって朱殷の雫が彼女の頬を伝う。
『ごめ、ん』
絹を引き裂くように彼女の皮膚に亀裂が走り、裂け目をこじ開けるように体内から新芽が萌え出る。
右目も潰され、頬が割れ、はくはくと空を食む唇から吐息に代わって瑠璃唐草が吐き出される。
『…………め、なさ……い……』
それきり、彼女は動かなくなった。対照的に頭部を侵蝕する萌芽は顎先から首を伝い、肩や胸部へとまたたく間に宿主の躯を食らい尽くしていく。
血の海に呑まれながらも、彼女の傍らに注射器が落ちているのが見てとれた。おそらくは逃亡の際にこっそり拝借した薬剤の一種だ。これをベルに投与しようとして、けれど間に合わなかった、と。
不意に、爪先に生ぬるいものが触れた。見下ろすまでもなく彼女達の命の雫だと思い至った途端、それは熱されて液体化した鉄のような極熱と化して両足を溶かさんと纏わりついた。
『……わたし、が、』
絶望を前にして駆け寄ることもできず、呆然とした声が口から滑り落ちる。
『わたしが、彼に逢いたいなんて、思わなければ』
俯いた視界の端、室内に吹き抜けるはずもない微風に吹かれるように釣鐘草と瑠璃唐草が寄り添いながらゆらゆらと漂う。
命終を待たずに開花を迎えてしまう、滅多に起こり得ないはずの突然変異の犠牲となったふたりそのもののように。
『もう一度だけでもなんて、願わなければ』
思い返せば、両親に花葬を打ち明けた時もそうだ。
胎芽化の手術を受けたせいで、私を北区へ迎えに来る途中で両親は帰らぬ人となった。
『私の、せいで』
もしも、彼との再会を諦めていたら。
突然変異に蝕まれるベルとリリに薬剤を投与して、急速な種の生長を食い止められたかもしれない。
私がなにかを願えば、代わりに誰かが犠牲になる。
『また、家族を、殺した』
ああ、神様。
これは、不自由な体で不相応な願いを抱いた私への、罰なのでしょうか?




