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ゴーン……と遠方から鳴り響いた鐘の音につられて、男は手元の新聞に落としていた目線を持ち上げた。
銘々に枝葉を広げる落葉樹の隙間から覗く空模様は快晴。水を多く含ませた白色の絵の具を薄く伸ばしたような淡雲が部分的に漂ってはいるものの、太陽の輝きを覆い隠すほどではない。
なんとはなしに数えていた時報の鐘は八回。午前八時。この街に住まう大半の人々が最も忙しなく活動する時間帯だ。街路の片端にぽつぽつと等間隔に設えられているベンチに腰かけて数十分、新聞を読み耽っていた男の眼前を行き交う老若男女の姿はいまだ途切れない。
くあ、と欠伸をひとつ。ほどよく眠気を誘う陽気のせいか、はたまた単に集中力が失われたせいか。続きを読み進める気分をすっかり削がれてしまい、手渡された時と同じ折り目で新聞紙を畳みつつ視線を地面と水平になるまで下げて街を眺める。
年配よりも若者の割合が高いのはもとより、心做しか学生の姿が多く見受けられるような気がする。今も、五人の初等学校生と思しき少年達がきゃらきゃらといとけない笑声を弾ませながら駆けて行った。背丈の低さとリュックの大きさのアンバランスさが目を惹く。
なにか行事があっただろうかと記憶を辿るよりも先に、目に入った新聞の隅の文字が答えを示した。万讃月、第二五日目——春季の終わり。初等から高等学校までの新年度が始まる時期で、学生の往来が多いのは本日新学期を迎える学校が大半だからだ。
最後にこの街を訪れたのは確か、冬季の中頃だったろうか。大規模な改修こそないけれど、時の流れと共に景観と色彩は移ろい、全く同じ景色を浮かび上がらせることはない。人間が年齢を重ね、背丈や顔貌が僅かずつ変化していくように。
どうりで懐かしいわけだ。
きっちり四隅を揃えて畳んだ新聞を太腿の上に乗せ、男は再び上空を振り仰ぐ。視界の端、春風に散り別る緑葉に紛れて薄紫色の小さな花冠が攫われていった。
約束の時間にはまだ余裕がある。とはいえ、街の中心から末端に至るあらゆる通路が人々でごった返しているなかで優雅に喫茶店へ向かう気力はない。手元にあるのは新聞だけで、他に暇を費やせるようなものもない。
さてどうしたものか、と細く息をついて瞼を閉じ下ろす。
「なァ、おにーさん」
長いまばたきののち、絡んだ睫毛をほどこうとしたその時だった。
頭上に降り注いだ声に意表を突かれ、はっと目を見開いた男は自らの視覚が捉えた光景に肩を跳ねさせた。
ベンチの背凭れ側から上体を乗り出してこちらを見下ろす黒光りのサングラス。短く刈り込まれた金髪に、首から肩にかけての凹凸混じりの流線を描く筋肉質な体躯。春の半ばとはいえ時折肌寒さを感じる時候でもお構いなしのタンクトップ姿に、曝け出された鎖骨にきらめくシルバーのボディピアス。
明らかに堅気ではない。
「朝っぱらからこんなとこでなにしてんの? 仕事行きたくなくて病んじゃってる? あ、それとも可愛い女子大生から声かけられ待ち?」
厳つい容姿に反して声色は爽やかな青年然としている。されど、怒涛の勢いで繰り出される質問とその内容からして揶揄われているのは亮然だ。
「だめだって、まだ若いんだからさァ。今のうちに働いて金稼いどかないと、なんかあった時に食い扶持なくなっておっ死んじまうよ?」
「……」
「しゃあないなァ。そんじゃ、オレと一緒に来なよ。いい仕事回してやっからさァ、ほら」
「……おい、」
腕、ではなくなぜか顔を鷲掴みされて引っ張り上げられそうになり、男はようやく口を開いた。サングラスの表面に映る、鋭く眦を研いで睥睨する葵色の双眸。
「ふざけた茶番はそこまでにしろ、ザグ」
黒に覆われた目元は見えていないけれど、奇抜な男がきょとんとひとつまばたいたような間が空いた。
ややして、顔を掴んでいた両手が離された。鼻先を真正面に向け直してから上半身を捩って振り返る。屹と睨めつけた先、右の親指でサングラスを押し上げた奇抜な男が怺えかねたように噴き出した。
「だはははは! 相っ変わらずノリ悪いのな! つまんねぇ奴ぅ!」
「お前は相変わらず朝からうるさいな。余計なお世話だ、どっか行け」
「おいおい、それはちょっと冷てぇんじゃねぇの? 久々の再会だってのによぉ」
奇抜な男、もといザグが右腕を後ろに引いたのを目視して、男は反射的にベンチから跳び退いた。つき合いが長いぶん、相手の思考も次の行動もある程度は読める。上腕か背中あたりを平手打ちされるだろうと予測して回避した、コンマ数秒前まで男が座っていた場所に樹木の幹じみたザグの太い腕が振り下ろされた。
ぶぉん、と鈍く唸った風切り音に背筋が粟立つ。直撃していたらひとたまりもない。
「てか、いつの間に帰ってきたんだよ? しばらく見てねぇなーって思ってたらしれっと戻ってきやがって」
「なんでその程度で難癖つけられないといけないんだ。今日の早朝だよ」
「へー、そりゃご苦労さん——って、やべ」
不意に目線を自らの手元に下げたザグが焦燥を滲ませて呟く。
見やったと思しき位置は右の手首で、シンプルな意匠の腕時計が嵌められている。二本の針が示す時刻は八時一〇分。
「もうこんな時間じゃねぇか。そろそろ行かねぇと遅刻しちまう……!」
「あぁ、それなら——」
さっさと行け、と送り出そうとした続きは、突として腕を引かれ、強制的に立ち上がらせられたことによって断たれてしまった。腿に乗せていた新聞が落下して鳥の羽搏きのような音が鳴る。
「ほら行くぞ! 多少小走りになるのは許せな!」
「痛って……! おいザグ、なんで俺もなんだ」
「ちょっとぐらい付き合ってくれたっていいだろ? 久々に逢ったんだからさ!」
「いや、こっちにも予定ってもんが——っくそ、人の話を聞け!」
言葉で抗議せども聞き入れられず、かといって力ずくで抵抗しようにも彼とでは純粋な体格差がありすぎて、引き摺られるままあとをついて行かざるを得ない。新聞も放置したままだ。
こちらが隣に並ぶのも待たず、ザグはずかずかと歩を進めていく。当然縺れた足を整える余裕すら与えてもらえないままでいる。
そのさなか、周囲に配慮して声をひそめながら談笑していた通学中の女学生がふたり、その横を通過する騒々しい男どもにぱちくりと目をしばたたかせたのが見えた。驚きは次第に冷め、軽蔑へと色を変える。
こんな朝っぱらから悪目立ちして堪るか。
引き止められはしなくとも、せめて腕だけは振り払おうと拳を握り締める。
「……おっと、悪ぃ悪ぃ。手ェ引いたまんまじゃ歩きにくいよな」
そう言うと、彼は呆気なく拘束していた手を離した。
こちらの反抗は悉く無視したくせに一丁前に気を遣う、身勝手と人の良さを見せつけられて不快に唇を歪める。ザグという男は昔からこうだ。
はあ、と肺に溜まった酸素を全て吐ききるほどに深く息をついて、歩速を上げて彼の隣に並ぶ。身長差の関係で耳のすぐそばで聴こえる、重ねづけされたネックレスが擦れ合う音。
「そんで、お前は今までどこでなにしてたんだ?」
通行の妨げにならないよう、正面を向いたまま応じる。
「西区。知り合いに呼ばれて、酔楽月の中頃から昨日までそっちで仕事をな」
「ってことはだいたい四ヶ月ぐらいか? どうりで見かけねぇわけだわ……その仕事っつーのは?」
「お前には絶対に言わない。人のプライベートを根掘り葉掘り聞き出して垂れ流した前科のある奴を信用できるか」
「あん時ゃ悪かったよ! ったく、頭の堅さも変わんねぇのな」
揶揄する響きのそれは聞き流した。ザグもさして気にする様子はなく、両腕を真上に掲げてうんと伸びをする。
「にしても西区か。ガキん頃に一回行ったような記憶しかねぇなぁ。やっぱうちとは違うんだろ?」
「それはまあ、売りにしているものがそもそも違うからな。学問と商業を同列で比較すること自体が間違ってるだろ」
交差点を右に曲がって大通りに合流する道に入ると、ひときわ学生服姿の若者の数が増した。このまま直進すると、学園都市とも称される西部の街シュトゥに入る。現在ふたりがいる北部ヤルトアは住宅密集地であり、学生の大半はここから通学するためにこの時間帯だけ爆発的に人口が増加するのだ。
我がアイネーデ共和国は、国土全体を東西南北と中央の五つに区切り、それぞれの地にて旧くから根差す特色を最大限に発揮することで繁栄してきた海洋国である。
区分けをしているといっても明確な境界線が引かれているわけではなく、また時の流れと共に土地開発が行われているために、長寿の国民ほど現在の地理と相違が起こりやすい。
医療技術の北区、農業と化学産業の南区、学問の東区、商業と貿易の西区、そして全ての地区の架け橋たる観光事業と鉄道業の中央区。時には区を跨いで専売特許を分け与え、自由と平等と平和を掲げて殷賑を極めてきた。
されど、今となっては過去の栄光。とうに滅びたかつての共和国でしかない。
およそ百年前、近隣諸国との間で勃発した国際戦争によりアイネーデの栄華は頽廃の一途を辿った。
東区と南区が共同開発した起爆型化学兵器は敵国に甚大な被害を与えたものの、開発の過程のなかで生産された不発弾から洩れ出た致死率の高い毒物が人間及び生態系を遍く汚染し、衰退。栄養の絶えた瘠土では食糧となる作物も育てられず、街は敵国による爆撃で壊滅し、総人口もかつての五分の一にまで減少する結末を以て終戦した。
至るところに刻みつけられた戦災の爪痕から決して目を背けず、ひたむきに復興の道を進み続けた果てが、今こうして万民の瞳に映る共和国の姿である。
携帯端末を操作しながら真向かいから歩いてきた高等学校生と思しき女生徒と正面衝突しそうになったザグが、触れそうになった右肩を後ろに引いて躱してから何事もなかったかのように会話を続ける。
「いいなぁお前は、年がら年中どこにでも行けて。単位とか就職とか将来とかなんも悩む必要ねぇじゃんな」
「大学に通う道を選んだのはお前だろう。文句言うな。あと人を暇人扱いするな、別に俺は旅行をしているわけじゃない」
「へーへー、すいませんっした。まぁどうせあと一年しかねぇんだし、せいぜい最後の学生生活満喫してやんよ」
可愛い女子大生と遊び行ったりなァ、と得意満面で見下ろしてくる。学生の特権だとでも言いたいのだろうけれど、生憎と興味がないので再度無視を決め込んだ。
そんな雑談を交わしていると、学園都市との境が見えてきた。紅灰と白磁色の煉瓦が交互に敷き詰められた歩道の先へ向け、二階建て家屋と遜色ない高さの巨大な門をくぐり抜けて、軍隊じみた学生の大群が前進していく。
ザグはともかく、学生ではない男は門を跨ぐ前に捌けなければならない。それを見越して初めから道端を歩いていたため、人波に押し流される前に傍らに寄って通行人の邪魔にならない位置を確保して友人を見送る。
ふと吹き荒れた花嵐に弄ばれた前髪の隙間から彼が門を通ったのを見届けて、男は踵を返す。
「シオン!」
一歩目の足を踏み出した男は、宙に浮かせた足を先へは下ろさず、もう片足の横について振り向いた。
目を向けた先、額の上までサングラスを引き上げたザグが口の端を吊り上げて笑う。
「次逢ったら、酒でも飲みながら土産話聞かせろよな!」
麗らかな天穹を割るような大声に、学生達がいっせいにザグへと眼差しを向ける。当の本人は気にした様子もなく、押し寄せる群衆に呑み込まれて返事を待たずに見えなくなってしまった。
馴染みのある声色の悲鳴が聞こえたような気がして、ふ、と男——シオンは淡く笑声を洩らす。
こちらから逢いに行くつもりは更々ないし、各地を飛び回る仕事柄確約はできないけれど。
「お前が卒業するまでに、また帰ってこれたらな」