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こほ、と自らの口からこぼれ落ちた空咳で、シオンは眠りから目覚めた。
ひとつふたつと咳は続く。まるで無数の針で突き刺されているかのように肺が痛んで、咳き込むたびに腹の底から熱いなにかが込み上がるような嘔吐感が襲いくる。そのくせ喉は酷く渇いて息を吸うのもままならない。
まずい。
首裏に脂汗が滲んでじっとりと素肌が湿る。薄らと持ち上げた瞼は重く、ほんの僅かに展けた視界は磨り硝子の向こう側の景色を見ているかのようにぼやけていた。
止まない咳の合間にどうにか呼吸を挟み込んで、乱れる心拍を正そうと試みる。吸って、吐いて。少しばかり長く吸って、同じ長さで吐いて。何度も、何度も、平静が戻るまで繰り返す。
ふと、誰かが自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。さながら上等な弦楽器の旋律を思わせる耳馴染みのある男の声ではなく、銀鈴が転がるような可憐な声色だ。
ああ、また起こしてしまったのだろうか。
いつもそうだ。脆弱な体で生まれてきてしまったせいで、夜雨の降る日は決まって彼女の眠りを妨げてしまう。こんな体に造り替えられてしまったせいで、よりいっそう彼女に不安を抱かせてしまう。
悲しい顔なんて、させたくないのに。
「————————オン」
不安にさせてごめん。でも、いつものことだから、だいじょうぶ。
「——————シオン、」
大丈夫。大丈夫、だから。
「————てくだ……、シオン!」
そんな顔しないでよ。だって、約束したじゃないか。
絶対に、きみをひとりにしないって。
「シオン!」
はっと見開いた視界に、桃色の切片が吹き荒ぶ。雪の.0結晶よりもふた回り以上大きいそれは、どこからともなく吹き抜ける風に乗って散り別り、跡形もなく消え去った。まるで果敢ない桜の花びらのように。
「シ、シオン! 大丈夫ですか!?」
薄紅色の紗幕が晴れると、目の前に少女の顔があった。金茶の瞳にこぼれ落ちんばかりの涙を溜めて様子を窺ってくる。
けほ、こほ、と渇いた咳を吐き出す。口元を抑えた手のひらに飛び散る赤がなかったことだけが、唯一の幸いだった。
膝を抱え背を丸めて横臥する体勢から、両手をマットレスに置いてよろよろと身を起こした。いまだ心拍は乱れ、頭の芯を直に殴られているような鈍痛が治まる様子はない。それでもどうにか、からからに渇いたままの喉で掠れる声を絞り出す。
「……ごめん、ヤエ……もう大丈夫だから——……」
「え?」
音吐が跳ね上がった動揺の滲む声色で、はたとシオンは我に帰る。
今、俺はなんて言った?
記憶違いでなければ、今この場にいない、それどころかマリーとの接点も共通点もまるでない第三者の名を口にした気がするのだけれど。
「あ、あの、シオン? その、ヤエって、どちらさま——」
「忘れろ」
「へっ?」
寝癖のついた髪を振り乱すほど勢いよく首を回して、屹とマリーを睨めつけた。遅れて頭部に襲いかかる、鉄槌で殴打されているかのような激痛に思わず呻く。完全なる自業自得だ。
「これまで俺が言った全てを忘れろ。いいな?」
「え、え? す、全てって……?」
「全ては全てだ。全部、一語一句」
「そんな無茶苦茶な……」
「うだうだ言うな。わかったな?」
「よ、よくわかりませんけど、わかりました……」
よし、と頷いた拍子に、再び咳がこぼれた。何度か続いたけれど、重篤ではない。身を捩ってベッドサイドにあらかじめ用意しておいた飲料水を掴み取り、蓋をひねって流し込んだ。生ぬるい水が喉を滑り落ち、強張っていた全身がゆっくりとほどけていく感覚。
数十分前にはすでに起床していたという彼女は支度の途中だったようで、ちらちらとシオンの様子を窺いながらも洗面所に引っ込んでいった。
備えつけの電気ポッドでお湯を沸かし、マグカップに注ぎ入れたシオンは右手に携えて窓辺に身を寄せる。レースカーテンを開いて臨んだ空は分厚い雨雲に覆われてどんよりと曇っていた。
なるほど、どうりで不調なわけだ。
ず、と湯を啜る。温度調節機能が搭載させていないポッドで沸かしたそれは沸騰直後の水温で、一応息を吹きかけはしたけれど冷ますまでには至らなかった。熱湯に触れた舌先に電流じみた痛みが走る。
「……せめて今日だけでも保ってくれないと困るんだけどな」
独り言ちた次の時、遠くの空にちかりと光線が走ったのが見えた。
❅
シオンの願掛け虚しく、ふたりが南部に到着した頃にはすでに雨は降り始め、ミオの民家へ向かう道のりは泥濘んで非常に歩きにくい状態に変わり果てていた。
もとより銘々に伸びきった下草が足元を絡め取り、それを避けて踏み締める獣道は過分に水を吸収した地面に靴底が滑って危うく転倒しそうになった。転けそうになったマリーに突然腕を掴まれ、何度道連れにされそうになったことか。
こんこん、とドアを叩く音が雨音に混ざる。右手を引っ込めたマリーは背後からでも丸わかりなほどに肩を強張らせて応答を待っている。
しかし、いくら待てど反応はない。
「留守、なのかなあ……」
沈黙を保つドアを前に、マリーが落胆の滲む声色で呟く。
「シ、シオン。反応がないってことは、やっぱりミオさんはいないってことなんでしょうか……?」
「…………」
「あの、シオン? 聞こえてますか?」
「……ん? あぁ、聞こえてるよ。で、なんだって?」
「で、ですからその、ミオさんはお家にいないってことなんでしょうか?」
「いや、いるだろ」
言いつつ、シオンは目線をすいと横に逸らす。
「どうせ居留守使ってるだけだ。この天気じゃ足場の悪い森を抜けるのも一苦労だし、そもそも街に向かう理由もあの人にはないだろ」
「そ、それは、どういう……?」
ふ、とシオンは短く息をついた。
鼓動が酷くうるさい。鼓膜の内側にもうひとつの心臓があるかのようだ。どくどくと激しく打ち鳴らされる心拍に共鳴するように鈍痛が頭の芯を殴り、喉が干涸びていくのがわかる。息を吸うたび、空気に無数の細やかな針が纏わりついているかのように鋭い痛みが走る。
まずい。
起床時と全く同じ、不調の前兆だ。
悪天候で気圧が低くなっているのはもとより、道中で雨に濡れて体を冷やしたのがよくなかった。念には念をと北東部からバスに乗車する前に傘を購入して、手が塞がって邪魔だと思いつつも目的地に到着するまでは聢と差していたのに。
徐々に雨脚が強まる。横殴りに吹きつける風に煽られて斜めに降り注ぐ雨粒が容赦なく体を叩きつける。傘を差そうが屋根の下にいようが、お構いなしに全身を濡れそぼらせていく。
「……あ、あの」
おずおずと呼びかけてくるマリーに、けれど苦悶を腹底に抑え込むことに気を取られて咄嗟に応答できなかった。かろうじて動かした瞳に絡む、僅かに翳る金茶の視線。
「もしかしてシオン、具合、悪いんですか?」
是とも否とも口に出せず唇を引き結んだのを、彼女は肯定と捉えたらしい。濡れて額に張りついた前髪の奥、髪色と同じ琥珀色の眉尻が垂れ下がった。
「や、やっぱり、そうなんですね? どうしよう……」
「……お前は気にしなくていい。いつものことだ、しばらくすれば治る」
「で、でも、わたしのせいですよね?」
「違う。これはただ……」
「わたしが、あと一日だけくださいなんて言ったから……あんなこと言わなければ、今頃ホテルのお部屋で休んでいられたのに……」
「だから——」
気にしなくていいって言ってるだろ、と胸中にふつりと湧き上がった苛立ちのままに、ひと息に空気を吸い込んだのがいけなかった。
喉を通り過ぎて体内に運ばれた酸素が厭に冷たい。その温度に竦み上がった肺が急激に収縮し、突き上げられるような激しい咳が吐き出される。どうにか咳の合間に呼吸を挟み込もうと吸い込んだ空気が呼気に押し出されてあえなく宙に散った。
「——帰りましょう、シオン」
まるでシオンと苦痛を共有して怺えるかのように張り詰めた声色で、マリーが言った。咳のしすぎで薄らと張った涙の膜を隔てて見返す、彼女の表情は強張っている。
「一度北東部に戻って、シオンをちゃんとお部屋に送ってから、わたしだけここに戻ります」
「……な、」
「メルヴァンさんに、シオンの様子を見ていてもらうようにお願いします。そうすれば、シオンはこれ以上、苦しい思いをしなくて済みますよね?」
畳みかけるように毅然と言い連ねるマリーに呆気に取られ、シオンは瞠目する。反駁しようと開いた唇からこぼれるのは熱を帯びた吐息ばかりで音は乗っていない。
右手にそっと包み込むような温もりが触れた。見下ろせば、血色の乏しいマリーの手が自らの手のひらを握り締めている。微かに震えているのは、雨に体温を奪われているせいだろうか、それとも。
なんで。
心の裡だけで呟いたはずのそれは、どうやら口に出てしまっていたらしい。小さな雨雫を乗せたマリーの睫毛がぱち、とひとつ羽搏いた。
なんで、そこまでして他人のために尽くそうとする?
「……諦めたく、ないんです」
地表に降り落ちた雨滴が染み渡るように、銀鈴の声はシオンの鼓膜に溶け込んでいく。
「中途半端なところで、終わらせたくない。せっかく一日だけ時間をもらえたんだから、ミオさんから本当の話を聞けるまで、絶対に諦めたくないんです」
「……たとえそれが、無駄な努力で終わるとしても?」
「はい。もちろん、ミオさんとディックさんがまた逢えて仲直りできたら、それが一番ですけど……なにも変えられないまま全部が無駄になっちゃったとしても、『ミオさんからちゃんとお話が聞けるまで諦めたくない』のが、わたしの本音だから」
意を決するように握り込まれた右手を反射的に引っ込めようとして、シオンは既のところで止まった。
大人に叱咤されるがままに己を封じ込めてきた少女が発した意思は、他人のためのようで、結局は自分のためだ。蟠りを残したまま終わらせたくないから。心のなかで押し殺している本心がきっとあるはずだから。後悔を残してほしくないから。
だから、その手を握って連れ出そうとする。
ほんのひと筋でも陽の射す場所へ。打ち拉がれる肩が雨で濡れない場所へ。
己の全てを差し出してまでも。
偽りの献身で他人を利用して目的を果たそうとする俺とは、違って。
じっと見つめてくる金茶の視線に心の底を見透かされそうな気がして、沈思に目を伏せるふりを装って目線を逸らした。
沈黙の代わりに、雨音がふたりのあわいを埋める。シオンが首を縦横どちらかに振らなければ、この膠着状態は解かれないだろう。縦に振るのは簡単だけれど、横に振るには相応の理由が必要だ。それを見つけられていないがゆえの停滞だった。
「——どうして、そこまでしようとするの?」
不意に割り込んだ声は、遠方で轟いた雷鳴よりもすぐそばで玲瓏と耳朶を震わせた。
いつからそこにいたのか、森の入口に背を向けるかたちで立っていたシオン達の背後にミオが佇んでいた。黒地に白のギャザーで縁を彩った傘を携えた彼女の、晴天を閉じ込めた双眸がふたりを見据える。
「二度と来るなと言ったはずでしょう? 私のことなんて、放っておけばいいのに」
物好きな人達ね、と添えられたひと言は、揶揄う言葉の並びとは裏腹に心悲しい声調をしていたように聞こえた。
降りしきる雨を押し退けながら、ミオが一歩ずつ近づいてくる。ポーチを陣取っていることに気づいたシオンは依然繋いだままのマリーの手を引き、壁に貼りつくようにして道を開けた。雨中に曝された左肩が俄に濡れそぼつ。
傘だけを屋根の外に突き出して紐で括り、ポーチの隅に置かれた鉄製の傘立てに立てかける。ドアノブに手をかけた姿で我に帰ったかのように、マリーが身を乗り出した。
されど、マリーが口を衝くよりも早く、ミオがドアを開きつつこちらを振り返った。雨露に濡れた沃土を思わせる黒茶の前髪からしたたり落ちたひと雫が、まるで涙のように彼女の白い頬を伝う。
「……どうぞ、上がって。すぐに温かい飲み物をお出しするわ」




