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3-2

 ざあ、と吹き渡る春風に攫われた色とりどりの花びらが視界をちらちらと踊る。雲翳の空に吸い込まれていくように天高く舞い上がり、やがてその精彩が見えなくなるほどに遠ざかっていく。


 鬱金香(チューリップ)の赤に麝香撫子(カーネーション)の桃。()(タネ)の黄に花車(ガーベラ)(だいだい)昇藤(ルピナス)の紫に釣鐘草(カンパニュラ)の白。瑠璃唐草(ネモフィラ)芝桜(シバザクラ)が地表を覆う。おそらく他にも背の低い花が紛れているだろう。


「ほ、ほんとに花畑があるなんて……」


 唖然と呟きを落とすマリーが、乱れる髪を手のひらで押さえつつ首を回す。


 アイネーデ共和国において、植物は自生しない。

 人間を苗床に咲く種の発明は大成功を収めたものの、栄養の涸れ果てた土壌を復活させることは(つい)ぞできなかった。


 胎芽(シュプロース)から芽吹いて成した種子は、一度でも胎芽(シュプロース)が埋められた土壌であれば何度でも発芽する。栄養が枯渇していない土地ならば植え替えも可能で、その原理を利用して、()()()姿()()()()()胎芽(シュプロース)を購入することに忌避を覚える買い手向けに、温室(トライプハウス)では発芽後ある程度まで生長したものを鉢に植えて売っていたりもする。


 付近には一軒しかなく、さらには森の道中には長らく人が踏み入った形跡がない。この事実から導き出される答えはふたつ。

 民家に住まう彼女もしくはその家族が購入した胎芽(シュプロース)が、四季の循環に合わせて咲き渡っているか。

 あるいは、奇跡的に温室(トライプハウス)から逃げ(おお)せ、発芽を迎えた胎芽(シュプロース)がこの地に眠っているか。


「きれい……」


 なおも恍惚とした様子のマリーが、色彩の乱舞に魅入られたように一歩踏み出した。さくりと小気味よく鳴る、短く切り揃えられた芝生(しばふ)

 さくり、さくりと微かな足音は続く。そのまま進めば、足元の瑠璃唐草(ネモフィラ)を踏み潰してしまう。夢遊病の子供のように覚束(おぼつか)ない足取りの彼女は、そのことにまるで気づいていない。


 シオンは舌打ちをひとつ鳴らして、地面を蹴り出した。あれだけ道中に雑草を踏むことを(いと)っていた彼女が自らの(あやま)ちに気づいた時、どのような反応を示すかなど想像に容易(たやす)い。

 引き止めようと伸ばした指先が黒いワンピースの裾に触れた、その時。


「——止まりなさい!」


 薄鈍(うすにび)色の雲を切り裂くような鋭い叱声が、突如背後から投げかけられた。

 大きく肩を跳ねさせたマリーが立ち竦んだのを尻目にシオンは振り返った。森の出口のあたり、ちょうどシオンの真後ろとなる位置にひとりの女性が立っている。


 歳の頃は二〇歳前後か。右耳の下でひとつに纏めて編み込み、肩口に垂れ下げられた髪は黒茶。(まなじり)を尖らせた天色(あまいろ)の双眸は、先刻民家を訪れた際、ドアの隙間から窺えた色彩と同じだ。全身を覆う黒い外套から覗く首元は鎖骨がくっきりと浮かび上がるほど華奢で、さながら石膏を思わせるほどに色白い。

 右手に携えた杖をつきながら、彼女が歩み寄ってくる。


「あなた達、どうしてまだここにいるの? いえ、それよりも……どうしてここに?」

「……帰る道すがら、薄汚れた看板が立ってたんでな。子供の冗談かと思ったんだが、まさかこんなに花が咲いてるとはな」

「……あぁ、そうね。そうだったわ」


 しゃらん、と女性——ミオの言葉に句点を打つように、杖のストラップに結わえられた飾りが音を立てた。小指の爪ほどの小さな青い花が寄せ集まった意匠のチャーム。


「もう用事は済んだのでしょう。なら、早くご帰宅いただけないかしら」


 頭半分高いシオンを睥睨して、ミオが豪然と言い放つ。

 またか、と真っ向から天色(あまいろ)の視線を受け止め、シオンは眉根を寄せた。数十分前の、似たようなやりとりが頭の隅に蘇る。


「なぜそんなに俺達を帰らせたがる? 少し眺めることすら許してくれないのか?」

「眺める……? その子達を……?」


 喉奥で唸るように低まった声色に(にじ)んだ怒気を察知した途端に、背筋がぞわりと粟立った。変化のない表情も(あい)()って、意図せず触れてはいけない部分に触れてしまった恐怖が一段と強く押し寄せてくる。


「——どうせ、あなた達はなにも思わないのでしょう?」


 上質な弦楽器を連想させる凛とよく(とお)る声が、研がれた刃物の犀利を(もっ)てオンの左胸を穿(うが)った。


「綺麗。美しい。いい香り。あなた達が花を見て思うことなんてせいぜいその程度。気に入れば身勝手に手折(たお)って、必要だからと鋏で切り落として、それでおしまい。その花がもとは誰の命だったか知ろうとなんて、思いもしないのでしょう?」


 憎悪と瞋恚と嘲弄を火種に、見上げてくる碧眼の奥に(とも)る炎が(ごう)と燃え盛る。


「その花を咲かせるために犠牲になった人がいることを、あなた達は知っているくせに」


 (しか)とシオンを見据えて告げられたその言葉は、けれどシオンひとりに対するものではなかった。

 胎芽(シュプロース)を生み出した元凶たる復興学会(ゲルトネライ)を。胎芽(シュプロース)から咲いた花を愛でる人々を。犠牲となった人々の命を悼むことなく私欲を満たす人々を。

 あらゆる人々へ向けた、黒く濁った怨嗟だ。


 沈黙が訪れる。なんと返すべきか、そもそも言い返すべきなのかすらわからない。

 突きつけられた言詞の全てが図星だったわけではない。前半は(おおむ)ね妥当だけれど、後半に関しては全くの決めつけだ。胎芽(シュプロース)の仕組みとその製造過程を熟知しているからこそ、『人類の希望』などという大役を半強制的に押しつけられた人々を(おもいみ)ないはずがない。

 目を背けることなど、できるはずがない。


 じっと見合ったまま膠着していると、不意に、後ろ身頃を僅かに引かれた。確認するまでもなく、相手はマリーだ。

 流眄(ながしめ)で見やれば、ミオの叱責を受けた時の肩を(すく)めた恰好のまま、両手を胸の前で組み交わして固く握り締めている。金茶の瞳に透明な膜を張り、今にもこぼれ落ちそうな涙を(こら)えようと噛み締めたらしい唇に小さな血雫が浮かんでいる。


 なんにせよ、ここはおとなしく引くのが得策か。


 目線を正面に戻し、シオンは開口する。


「あんたの言うとおりだ。許可なく勝手に踏み入った俺達が悪かった。今すぐ帰るから、それで許してくれないか」


 風に煽られた蝋燭(ろうそく)の火が細まるように、ミオの双眸で揺らぐ(ほむら)が収束する。


「……わかっていただけて嬉しいわ。どうかそのまま、この場所を忘れていただきたいのだけれど」


 さすがにそれは無理なお願いね、とミオが淡く微笑む。眉尻を下げて笑うせいか、どこか悲しげな表情に見える。


 背後に隠れたままのマリーを一瞥してから、シオンはミオの横を通過して森の入り口へと向かう。つままれていた袖から指先がすり抜ける。待って、と叢草を踏む跫音(きょうおん)よりも小さな声があとを追いかけてくる。


 ひときわ陽の当たる場所にいるせいか、鬱蒼と茂る木々に囲われた森林はいっそう(くら)く視界が悪いように見える。次第に雲も厚みを増してきていた。早いところ街に辿り着かなければ、森のなかを延々と彷徨(さまよ)う羽目になるかもしれない。

 往路の時点ですでに乳酸が溜まりつつある足を根性で持ち上げ、地面に薄らと落ちる葉陰を踏みしだいた。


「……ひとつだけ、お願いを聞いてくれないかしら?」


 ふたりの去り際を見送るだけかと思われたミオが、ふと思い至ったふうに口を()いた。歩を止めて振り向いた先、蒼い瞳は僅かに俯けられて視線は絡まない。


「約束を破ってしまってごめんなさい、と。——それだけ、彼に伝えてほしいの」


 当然ながら、シオンには託されたひと言が内包する真意を知り得ない。さんざ情報を集めてようやく探し出した末路がにべもなく追い返された件については、本音を言えば多少苛立ちはしたけれど。


 それくらいなら、と了承の意を込めて頷く。依頼の終了を報告する際に併せてディックに伝えればいい。そのうえで彼がどのような反応をしていかなる選択に至るかまでは、シオンの関与すべき範疇ではない。


 微笑を浮かべる彼女はやはり、胸の (うち)に閃く痛みを(こら)えるような、(こら)えていることそのものを悟られまいとするような、ごまかしめいた笑いかたをしているようだった。



   ❅



 往路の約半分の時間を費やして森を抜けたふたりは、停留所でバスを待つことにした。他の地区とは異なり、南部(ルーイヒ)には観光地や食事処がない。場所も目的もないのならば疲労が蓄積した体に鞭を打つ必要もないだろうと、無言のうちに吸い寄せられるようにベンチに腰かけた次第だ。


 凸凹(でこぼこ)と波打つトタン屋根を、降り落ちる雨粒が打ち鳴らす。雨が降り出したのは停留所に身を寄せた直後だったのは運がよかった。もしも森で迷子になっていたら、泥濘(ぬかるみ)に足を取られて転倒し、負傷していた可能性も充分にあっただろう。


 鼻先を持ち上げて雨空を眺めながら、シオンは今後の動きについて思案する。ここから一時間弱かけて東部(プフリヒト)の区役所前に到着し、そこから別の路線に乗り換えて北東部(ヴェズ)まで向かう。どうせならばこのまま終了報告までしてしまいたいから、降車するのは宿泊先のホテル最寄りではなくて住宅地の周辺がいい。


「あ、あの、シオン……」


 ん、と思考を絶って隣を見やる。


「今回の依頼って、これで終わりになっちゃうんですか?」

「ああ。説得には失敗したが、そもそもが『幼馴染みを探してくれ』って依頼だからな。渡すように言われてた手紙も、向こうが読むかどうかはさておき、渡せたことには変わりないから文句はないだろ」

「そう、なんでしょうか……」

「なにか不満でもあるのか?」

「いっ、いえ! 不満なんて、そんなもの……」


 添えられた最後のひと言は雨音にすら掻き消されるほどの弱々しさで、だからシオンの耳には届かなかった。俯いた拍子に顔周りを琥珀色(アンバー)の横髪が覆い隠したせいで、唇の動きも読めていない。

 早々に会話は締めくくられ、ふたりの間を環境音だけが流れていく。


 ここ数日を彼女と過ごすうちに判明したことだが、どうやらシオンの知人は総じて話好きばかりだったらしい。見るからに(かた)()ではない(なり)の大学生に、人懐こい明朗な郵便局員に、煙草(タバコ)の煙を(くゆ)らせながら呵々大笑するホテルオーナーに、美麗な(おもて)揶揄(からか)い混じりの微笑を浮かべる図書館員に、そして皮肉がいっさい通じない育ての親。マリーすらも口数が多い(たち)だったならどうなっていたことか、と想像しかけて踏み(とど)まった。無駄な心労は抱えないに越したことない。


 さあさあと、鼓膜を撫ぜるような柔い音色に誘われ、次第に重みを増していく瞼で緩慢にまばたきを繰り返していたさなか。あの、とマリーが再びに口を開いた。


「や、やっぱり、わたし、このままじゃだめだと思い、ます」


 突然の主張に、シオンの双眸から一瞬にして転寝(うたたね)の気配が吹き飛んだ。一度驚愕に(みは)った瞳を疑心に細める。


「具体的に、どこのなにが駄目だって?」


「こ、このままじゃお姉さん、絶対後悔しちゃうと思うんです。や、約束を破っちゃったことを謝りたかったみたいだし、その……本当は、お兄さんにちゃんと逢って話がしたいんじゃないか、って。そう、思って」

「それはお前の想像の話だろ。言伝(ことづて)の意味は俺にもわからんが、本人がそうしてくれと言っている以上、第三者の俺達が無闇に首を突っ込んでいいものじゃない」

「うぅ……そう、かもしれません、けどぉ……」


 ぎゅっと固く瞼を閉ざして言葉を捻り出そうとしているらしいマリーを見据えて、深まる疑念に眉を(しか)めた。


 なぜ、今回にかぎって口を挟んでくるのだろう。


 今までほとんど自分の意思を表に出してこなかった彼女が。なにをするにも真っ先に他人(ひと)の顔色を窺う癖が染みついている彼女が。

 意識を変える出来事があったとするならば、例の胎芽(シュプロース)の少女が温室(トライプハウス)に連れ戻された現場を目撃したことか。それとも単なる勘か、気まぐれか。


 なにはともあれ、面倒だ。


 相手の内情に無遠慮に足を踏み入れ、膝を抱えて(うずくま)(わだかま)りに手を差し伸べてやる親切心は生憎(あいにく)と持ち合わせていない。そも、これまでにも複雑な事情の解決に手を貸してくれと依頼の延長で懇願されたことはあれど、一度だって快諾したことはない。だから今回もそうするべきだ。


 それなのに。


「お願い、します。あと一日だけ、時間をください」


 ぐ、と喉奥で低く唸る。——なぜだ。


 なぜこいつは、他人のために行動しようとする?


 突き放す言葉は即座にいくつも浮かんで、けれど喉を通って吐き出されるのは音を成さない吐息ばかりだった。餌を求めて水面に浮き上がる鯉のようにはくはくと唇を開閉する姿を、頭を下げるマリーに見られずに済んだ仄かな安堵が、かろうじて胸の片隅に残った冷静な部分に綻ぶ。

 おそらく彼女は、幾度切り捨てようが諦めないだろう。それだけの固い意志が彼女の音吐に宿っている。


 着地点の見えない押し問答を延々と続けるか。要求を呑んで一日だけ自由にさせてやるか。


 ぐらぐらと不安定に揺れる天秤は、ややして一方に傾いた。


「……一日だけでいいんだな?」


 マリーがぱっと勢いよく頭を上げた。金茶の瞳を輝かす歓喜と期待の目映(まば)ゆさから逃れるように、シオンは顔を背ける。

 地上の万物を(あまね)く平等に照らす太陽のような純粋と善性に目を()かれてしまわぬように。


「一日だけくれてやる。その代わり、明日なにも状況が変わらなかったら、おとなしく諦めろ」


 いいな、と念を押した自らの声は、繕ったように抑揚の乏しい声色で鼓膜に貼りついた。

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