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3-1

 ぼんやりと臨む遠方(おちかた)の空に、薄墨を溶かしたような灰色の雲がたなびいている。目的地である南部(ルーイヒ)の上空だ。雨が降るかもしれない。

 それまでに探し出せればいいんだが、とシオンは目を眇めて、そのまま視線を少しばかり下げた。隣に座るマリーはシオン同様に窓向こうを眺めていて表情は窺えない。


 泣き沈む彼女の真っ赤に腫れた目をどうにか隠しながらではあるけれど、今度こそ南部(ルーイヒ)行きのバスに乗車して揺られ続けること十数分、ふたりの間に会話は一度も生まれていない。マリーは拒絶の気配を仄かに漂わせ、シオン自身も無理に話を切り出す必要はないと判断したがゆえの、互いに意図して距離をとったことで生じた沈黙。


 無理もない。


 同年代の少女であるうえに、いっときとはいえ言葉を交わした相手が鎖と鉄枷で拘束され、あまつさえ奴隷然とした扱いを受けている現場を目撃してしまったのだから。

 段差に乗り上げたのか、がたん、と車体が大きく揺れた。普段ならば上がるはずのマリーのか細い悲鳴はなく、依然として黙したまま遥か彼方に眼差しを向けている。


 マリーに明かした話は、あくまで断片的なものだけだ。なにも全共和国人が胎芽(シュプロース)を人間と見做(みな)していないわけではない。胎芽(シュプロース)とてもとは同じ人間だと平等に捉え接する者もいれば、肯定も否定もしない無関心な者もいる。


 あの時全てを語らずにいたのは、我ながら英断だったとシオンは思う。一度に情報を詰め込もうとすると、処理が追いつかなくなった人間の脳は次第に取捨選択もせずあらゆる情報を拒絶し始める。まるで現実から目を逸らすように、自らに不都合が生じる要因を排除するように、己を守るための防壁を無意識のうちに張り巡らす。


 細く息をついて、シオンは()(もた)れに深く背を預けた。閉じ下ろした瞼の裏、暗闇に佇む鎖に繋がれた薄紅の髪の少女の輪郭が黒く(にじ)んで、やがて全て呑み込まれてその姿を見失う。

 彼女の末路は知り得ない。シオンにも、マリーにも。



   ❅



 東区(オスト)暮らしが長いシオンでも、南部(ルーイヒ)を訪れたことは過去に二度しかない。


 黄土色の土道が延々と続く道の両端は雑草に縁取られ、(わだち)は自転車か荷車と(おぼ)しき細い線が刻まれているだけで車のタイヤほど太い線はない。周囲を見渡す視界を埋めるのは高層建築物ではなくそこかしこに植樹された樹木ばかりで、建物と言えば(つた)蔓延(はびこ)る木小屋がぽつりと道の端に佇んでいるくらいだ。


 建築様式こそ北部(ヤルトア)の一戸建て住宅とほぼ大差ないものの、その規模は雲泥の差である。土地の面積が違いすぎる。テニスコートが余裕で五つ収まるほどの広大な庭に、噴水やらフラワーアーチやらオブジェやらを並べて飾る豪邸が立ち並ぶ北部(ヤルトア)と比較するのはいささか不相応ではあるけれど、南部(ルーイヒ)には大前提として庭を構えるほどの敷地がない。

 農耕のために整地された土地、とでも言い表せばいいのか。森林と畑に四方を囲まれたこの地は、同じ東区(オスト)とは思えないほどに牧歌的で長閑(のどか)だ。


「……とはいえ、さすがにここまでとは思ってなかったな……」


 日中にしては鬱蒼と暗く、緑陰に沈む森のなかを進みながらシオンはぼやく。区境のせいか誰も分け入った様子のない森林に道はなく、かろうじて発見した獣道を慎重に踏み締めて前進する足取りは当然ながら遅い。


 そんな森のなかに向かう道なんてないよ、と冗談はよせと笑い飛ばすように返された言葉が真実であったと、この時を(もっ)て証明されてしまった。

 土地勘がない以上は人に尋ねるに越したことはないと、偶然通りがかった住民に胎芽(シュプロース)の少女から託された地図を見せて印が付された場所への道順を訊いて、受け取った回答がそれだ。あの森は観光客が踏み入るような場所じゃない、とも。


 なるほど確かに、観光地でもなければ観光マップそのものからも見切れていた。道が存在しないのは、この森を訪れるのは狩人か農作で足腰が鍛えられた近隣住民のみで、その二者ならば獣道だけで事足りるから、そもそも整備しようという思考に至らないためだろう。

 乱れる呼吸の合間に水をひと口含み、シオンは背後を振り返る。


「マリー、無事か?」

「………………………………な、なん、とか……」


 たっぷり一〇秒もの沈黙ののち、遥か上空の雲路を翔ける(トンビ)の声にすら掻き消されそうなほどに掠れた声が返った。

 区を跨ぐ長距離移動もままあるシオンですら息が上がるほど険しい道中だ。大衆食堂も高層建築群も知らない生粋の箱入り娘であるマリーが音を上げるのも無理はない。


「ど、どうしましょう、シオン……あ、足が、ぷるぷるします……」

「どうしようったって、お前の場合はただの運動不足だろ」

「そ、そうかも、しれませんけど……で、でもそれは、どうしようもなかったというか、なんというか……」

「口動かしてる暇があったら頑張って歩け。ここで迷子になったらたぶん見つからないぞ」

「うう……はぁい……」


 悄然と肩を落として、マリーが一歩ずつ(しか)と地面を踏み締める。僅か下に目線を下げ、その足取りを凝視しつつシオンは思案する。

 あからさまに下草の生えていない部分に足を置いているのは、意図的なのか、それとも無意識か。


 バスを降車して以来、これが初めて交わした会話だ。口調も声色も普段となんら変わらず、表情に疲労以外の感情が(にじ)んでいるようにも見えない。

 あれだけの暴挙を目の当たりにしてすぐに気持ちの折り合いがつけられるほど、彼女は精神的に成熟していないはず。とはいえ、嘘をついている様子もない。


「……シオン? どうかしましたか?」


 いつの間にか手を伸ばせば触れられる距離まで辿り着いていたマリーが、小首を傾げて見上げてくる。木立を縫って射し込んだ陽光に星のまたたきじみて光る、金茶の瞳。


「……いや、なんでもない」


 行くぞ、と言い残して(さっ)と身を翻した。一拍遅れて追いかけてくる気配が背中越しに伝わる。


 歩き続けること二〇分弱。ふたりは(くだん)の少女に示された民家を視線の先に捉えた。通常の民家よりもどちらかといえば別荘に近い、ログハウス風の平屋建てだ。軒先にいくつも吊るされている白い物体は遠目からではわからない。

 周囲には草が生い茂り、長い間剪定されていないことを如実に表す枝葉の伸びきった樹木は、軒先の白い物体とともに翠緑のガーランドを垂れ下げている。到底、人が住んでいるとは思えない有様だ。


 呼吸を整えつつ玄関口へと進み、聴覚に意識を傾ける。耳朶(じだ)に触れるのは鳥の(さえず)りと葉擦れだけで、生活音はいっさい聴こえてこない。

 本当にこの家に住んでいるのだろうか、と胸中に綻ぶ疑心はそのままに、シオンは折り曲げた指の関節でドアを叩いた。


 家鳴りや足音を聴き拾おうと再び耳をそばだて、されど自然界のさざめき以外の物音はやはり聴こえない。視界の端で、マリーがそわそわと身を乗り出しては後退(あとずさ)ってを繰り返している。

 最後の望みを懸けて、一度ほどいた右手を握り直した、その時だった。植物の(つる)(かたど)った木彫りのドアノブが、ゆっくりと下げられた。


 そろそろと生まれた隙間から覗いたのは片目だった。太陽を振り仰いだ猫のようにきゅうと瞳孔が細まる、空のいっとう高いところを掬い取ったような澄んだ青の(ぼう)()


「……どちらさま?」


 若い女性の声だ。かろうじて片目が覗き見えるぐらいの空間しか開かれていないせいで、顔貌(かおかたち)も体躯も全く判別できない。


「あんたがミオ・フェリベールで間違いないか?」

「……そうですが?」

「あんた宛の手紙を預かってる。ディック・リーツマンという名に心当たりはないか?」

「ディック……?」


 怪訝に反芻した女性の瞳が、はっとなにかに思い至ったように見開かれた。


「あなた、どうして彼のことを知っているの……!?」

「リーツマンから、幼馴染みを探してくれと依頼を受けてな。——これを、あんたに渡すようにと」


 シオンは袈裟懸(けさが)けのポーチのなかから一通の便箋を取り出し、ドアの隙間から翳して見せる。睛眸(せいぼう)が僅か下に逸れて、けれど、それだけだった。


「帰ってちょうだい」


 突き放すような冷淡な声色が切り捨てた。


「確かに、私はミオ・フィリベールで間違いないわ。でも悪いけれど、私は彼に逢うつもりはないの」

「なぜ? 一〇年以上離れていたと聞いているが」

「……ええ、そうね。それくらいは経ってるでしょうね。だからといって、彼と逢う理由にはならないわ」


 片側だけ覗く瞳に、強い光が閃く。それは断固とした決意のようでもあり、揺らぐことのない拒絶のようでもあった。


「……こちらとしては、あんたがリーツマンに逢おうが逢うまいが構わないんだが、」

「そう。ならどうぞ、そのままお帰りになって」


 冷然とした声が語尾を奪う。頑として折れる様子のない女性に、シオンは肩を(すく)める。


「せめて、手紙だけでも受け取ってくれないか。読まなくても構わない。リーツマンにはうまくごまかしておくから」

「……それくらいなら、まあ」


 隙間から伸ばされた指先にシオンは瞬息、目を(みは)った。


 色白を通り越してもはや蒼白だ。全くといっていいほど血の気のない指先が手紙の角をそっとつまみ、そのまま吸い込まれて暗闇のなかに溶ける。封を開く音は聴こえなかったから、本当に受け取るだけのつもりのようだ。


 それじゃ、とシオンは(きびす)を返した。彼女が手紙を読まずとも、正直なところ依頼には影響しない。あくまでシオンが請け負ったのは『幼馴染みを探し、手紙を渡すこと』であって、彼女を依頼人(ディック)のもとへ連れていくことではない。

 背後で様子を見守っていたマリーの焦燥の(にじ)む声色が聞こえてくるも、届いていないふりをして帰路を辿る。木の陰で隠れる直前に視線だけを投げて見やったドアはすでに閉めきられ、民家はもとの静謐を纏っていた。


 草花を踏んでしまわぬように、一歩ずつ慎重に獣道を見極めながら森の出口へと向かう。獣道とはいえ、シオン達よりも先に通った動物が踏み締めた地面には折れた茎やちぎれた葉が横たわっている。植物を愛でる慈愛を有する人間とは違い、野生の獣には下草に宿る命を惜しむ心はない。

 否。もしかすると、それが本来の思考なのかもしれない。


 人間の遺体を苗床として植物が育っていることを事実として認識しているからこそ、名も知らぬ誰かの命を踏み潰す行為に強い抵抗と拒絶が生まれてしまったのだとしたら。


 思惟の(ふち)に沈み始めた頭を振って、現実に意識を戻す。ただでさえ正しい道のない深い森奥だ。地中から盛り上がった木の根に足を取られて転倒して負傷してしまっては堪らない。

 そうして自らの爪先を追い続けていたせいか、はたまた、進行方向の違いによる視界の変化のせいか。不意に唇を割ったマリーに示されるまで、シオンはそれの存在に気がついていなかった。


「シ、シオン、あれ……」

「ん?」


 彼女が指差した先を辿れば、樹木の幹に(もた)れかかるようにして木製の看板が立てかけられていた。斜めに傾いて天を仰いでいる形は見るからに作りが甘い。木板に書かれた文字も蚯蚓(みみず)が這ったようなへろへろとした文字だ。

 到底、まともな道導(みちしるべ)として作られたものだとは思えない。


 ちらりと、金茶の目がシオンを向く。風にそよぐ緑葉の影が落ちる双眸に揺らぐ、隠しきれていない好奇心と所期。

 待てと命じられた子犬のようにそわそわとする彼女に溜め息をひとつ落とし、シオンは看板に向かう。目を凝らして見れば、木板には『この先、花畑』と書かれていた。


「花畑? こんな山奥に?」

「で、でも、この先に道なんて……」


 赤の塗料で(えが)かれた矢印の示す先に道はない。やはり獣道が続いているだけだ。


胎芽(シュプロース)がここまで逃げてきたっていうのか……?」


 花一輪だけならまだしも、花畑を(かた)るくらいなのだから群生なのだろう。それを加味すると、南部(ズュート)の住民が長らく人が踏み入った形跡のない森の奥深くに胎芽(シュプロース)を埋めにくる可能性は限りなく低い。


 されど、あり得ないと断言はできない。ふと吹き抜けた強風に目を(すが)めたシオンの脳裏によぎったのは、自分達をここまで導いたあの少女のことだ。


——私も少し前までは彼女達と一緒に暮らしてた。でも、さいごにどうしても、外の世界に触れたくて。


 遠く、ここではないどこかへ思い馳せるように。


——私は帰らない。この街で自由に暮らして、その時が来たら、この街で死ぬの。


 最期に——胎芽(シュプロース)の短い生涯が閉じる前に、少しばかりでも温室(トライプハウス)の外で生きたいと願った少女はけれど、鎖と鉄枷に自由を束縛されて連れ戻された。

 それが幸か不幸か、正解か誤りか、善か悪かを断定する権利はシオンにはない。


 少女の話が真実ならば、彼女とともに暮らしていた他の胎芽(シュプロース)はいったい、どこへ行ったのか。

 その答えが眠るであろう先を真直ぐに見据えて、シオンは力強い一歩を踏み出した。マリーの好奇心に当てられたのかもしれないし、ただこの目で確かめたかっただけかもしれない。頭の隅の理性的な部分が、面倒ごとに首を突っ込むなと叱責するようにじんと熱を帯びる。


 泥濘(ぬかる)みに足を取られながら進んでいくと、次第に木々の隙間から洩れる白光が目映(まば)ゆさを増す。銘々(めいめい)に伸びきった枝葉をそっと掻き分け、やがてひときわ眩しい光が視界を埋め尽くした。(くら)んだ目をまばたいて明るさに慣らし、眼前に広がった光景にシオンは息を呑む。


 赤に青、黄色に白、桃に紫、極彩色のカンバスのように色彩(いろ)(ちりば)められたそこは、あたり一面に花が咲き乱れていた。

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