2-7
「……おい」
寝癖を直すために濡らした髪をタオルで拭きつつ、シオンは呆れに目を細めた。レースカーテンを透かして射し込む朝陽の眩しい、窓側の寄せられたベッドの縁。
華奢な体躯には余りあるサイズの寝巻きに身を包んだマリーが、ベッドサイドに腰かけて虚空を見つめている。とろりと朧げな瞳は緩慢にまばたきを繰り返し——瞼を閉ざしたまま、上体が前後にふらふらと揺れる。
どうやら、マリーは朝に弱いらしい。
シオンが目覚めたと同時に彼女を起こし、洗面所でひととおり身支度を整えて出てきた今現在までの間はせいぜい五分程度だ。にもかかわらず、まだ夢と現を行き来している。
「マリー」
当然、返事はない。瞼すらも持ち上がらない。
「おい、いい加減起きて支度しろ。乗り遅れて置いてかれても泣くなよ、俺は知らないからな」
「んん……まだぁ……もうちょっとだけ……」
マリーは舌足らずな口調で言い、前後左右に揺れてそのままベッドにぱたりと倒れて入眠の構えをとった。掛け布団も被らずに寝ようとしているあたり、相当に強力な眠気のようだ。
されど、それを容認してやるほどシオンは仁愛に満ちた人間ではない。
舌打ちをひとつ鳴らして、足早にベッドに近づいて抱き枕代わりにしている枕を彼女の腕のなかから引っこ抜いた。勢いにつられて落下しそうになったマリーが短い悲鳴をあげて咄嗟にベッドにしがみつく。
「な、なにするんですか急に……!」
「さっさと起きろ。今何時だと思ってんだ」
「えっ、何時……って、まだ七時にもなってないですよ? もうちょっとくらい——」
「遠出するなら今までよりもっと早く起きないと駄目ですね、とか言ってたのはどこのどいつだ」
「あ、あぅ……わたし、ですね……」
ようやく観念したのか、のろのろと体を起こして立ち上がったマリーが両腕を頭上に掲げて伸びをする。まだ開ききっていない目をこすりながら洗面所へ歩いていく後ろ姿を見送りつつ、シオンは盛大に溜め息を落とす。足取りが覚束ないが、転びやしないだろうか。
こうまでしてシオンがマリーを急かす理由は、昨日の夕刻に遡る。
ヴィッセント図書館からの帰路、マリーを路地に引き込むという強引な接触を図ってきた少女から渡された紙は地図だった。おそらくは観光マップの一部を裂いたと思しき跡の下に記されていた地名は、東区南部ルーイヒ。その最南端に、親切にも赤いペンで丸がつけられていた。
そこに、ディック・リーツマンの探し人である女性が住んでいる、可能性が高い。
断定できないのは、件の少女の発言の真偽が定かではないがためだ。
名前も知らず、腹の底に飼う思惑も明かさず、有益な情報のみを託して去っていった。唯一、女性との関係について家族だと口にしていたけれど、それも真実だという証拠はない。
それでも今は、一縷の望みを懸けるしかない。散々街中を駆け回ったにもかかわらず得られなかった、依頼完遂のための希望の星が思いがけず降ってきたのだ。縋らない選択肢はない。
シオン達が宿泊しているホテルがある北東部と南部の最果てまではバスを乗り継がなければならず、加えてその乗り継ぎのバスを待つ時間も相当にかかる。だから、こうして寝穢い彼女を叩き起こすに至っているのだけれど。
「ちゃんと起きるから大丈夫だって言ってたくせにあれか……」
端っから期待はしてなかったけど、と再びに嘆息する。ちなみにシオンは着替えを済ませればすぐに出立できる状態にある。
幸いにも北東部から経由地である東部の停留所までのバスは一時間あたりの本数が多いおかげで乗り遅れることはないだろうが、問題は次のバスだ。南区に近い南部は謂わば僻地で、北部のような大規模な住宅街もなければ、教育機関は初等学校がひとつしかない。
そうとなれば交通が滞るのは必然のことで、定年退職を迎えた老夫婦が農耕や長閑な暮らしを求めて移り住んだ住民が大半を占めている。食物の自給自足が可能なおかげで買い出しに出かける必要はなく、したがって他の地区と南部とを繋ぐ交通機関は自然と削減されていった。
そういった理由から早いうちに出立しなければならないことは昨日のうちに伝えているはずなのに、いざ朝を迎えてみればこの様だ。あまり執拗に急かすのもどうかと控えめにしていたつもりだったけれど、次同じような状況になったら予定起床時刻の一時間前から起こしておこう、と心に誓う。
請けた依頼を蔑ろにするつもりは毛頭ない。それでも、マリーの帰郷を並行している手前、長く東区に止まっていられないのも事実だ。
「これでどうにか解決に向かえればいいんだけどな……」
呟いた次の瞬間、洗面所から絹を裂くような悲鳴が響き渡った。閉ざしたドアを貫通するほどの大音声と、洩れ聴こえてくる俄雨じみた水音。考えられる惨事はひとつしかない。
本日何度目かもわからない溜め息を落として、シオンはマリーの救出に向かう。
❅
ずぶ濡れになったマリーの支度を四苦八苦しながら済ませたふたりは北東部から東部へと渡り、南部行きのバスに乗り継ぐ。
はずだった。
隣から聞こえるぐずぐずと洟を啜る音は、かれこれ一〇分近く続いている。そろそろ苛立ちが抑えきれなくなったシオンは、塩味の強いバターが染み込んだバゲットを飲み込んで横を向いた。
「おいマリー、いい加減にしろ。次の便があるから気にするなって言ったのに、いつまでめそめそしてんだお前は」
「め、めそめそなんてしてないです……これはその、この茶色い粉が変なところに入っちゃって、噎せてしまったせいで……」
「いや、その前からぐずってたろ」
「ぐずるって、赤ちゃんみたいに言わないでくださいよぉ……」
ずび、と鼻を鳴らしてマリーがシオンを仰ぐ。涙に潤んだ目元には紅が差し、口の端は表面にまぶされたココアパウダーで茶色に色づいている。なかなか珍妙な姿だ。
シオンの助力も虚しく、結局、当初予定していたバスには乗車できなかった。一本逃しならまだしも四本もあとの東部行きのバスに乗ったのだから、当然と言えば当然の結末だけれど。
「わ、わたしのせいで南部に行くのが遅くなって、その間にミオさんがいなくなっちゃったらどうしよう……」
「さすがにそれはないだろ。遅くなるって言っても、せいぜい二時間程度だぞ。南区に渡られた場合はどうしようもないが、可能性としてはほぼゼロだ」
「でも、ほぼってことは、一パーセントになる可能性もあるってことですよね……あぁ……わたしが間違ってシャワーを出したせいで……」
このままうだうだするつもりなら、このままここに置いてってやろうか。
シオンはバゲットを噛みちぎって咀嚼し、口を衝きかけた暴言とともに胃に落とした。
マリーはホテル最寄りのバス停に到着した時点で、泣くまではいかないものの瞳に涙の膜を張っているような状態だった。どうしましょう、と愁眉を寄せて見上げられても、シオンには次発便に乗るしかないと答えるほかない。
この際だからと南部で摂るつもりでいた朝食を、降車したバス停付近のベーカリーで購入して食べ進めているさなかだ。
シオンは最後のひと口を放り込む。噛み締めるたびにじゅわりとバターが染み出し、豊かな香りとともに絶妙な塩気が口いっぱいに広がる。バゲットの表面はほどよく焼き目がついてかりっと、なかはバターを含んで重さがありつつもふんわりと柔らかい。店主曰く、スープに漬けて食べるのがおすすめらしい。
次に買った時は試してみよう、と空になった袋を畳みつつシオンは思う。
そろそろ食べ終わる頃合いかとマリーを見れば、小さな両手に収まるほどこぢんまりとしたドーナツはまだ半分ほど残っていた。彼女の食べる速度が遅いのか、はたまたシオンが早食いなのか。
「次のバスが来るまであと三〇分だけど、食べ終わるのか?」
「三〇分もあるなら、さすがに……」
「ちなみに、移動含めて三〇分だからな」
「い、急ぎます……!」
大きく開き慣れていない口を懸命に動かして、マリーが残りを食べ進める。数日前に大衆食堂で喉を詰まらせかけた一件が脳裏をよぎったせいか、飲料水のキャップをゆるめて来るべき瞬間に備えたのはほとんど無意識だった。
結局マリーは喉に詰まらせることはないまま無事に完食し、腹が落ち着いた頃に南部行きのバス停へと歩き出した。犬の散歩をする若い夫婦、風を切って駆け抜けていくランニング中の青年、忙々しく走り去るスーツ姿の男性。休日ということもあって人の往来は比較的少ない。
「あれ……?」
じきにバス停が見えてくるだろうというあたりで、不意にマリーが訝しむ声を発した。
シオン達の進行方向、その右手側に一台のトラックが停車している。両開きのリヤドアの、開け放たれた片側に床板に触れるほど長い漆黒のカーテンが垂れる。それを掻きわけて姿を見せたのは、先日東区から北東部へ渡る道中に遭遇した集団と同じ、純白の司祭平服を纏う人影だった。
復興学会——人類の希望たる胎芽を生み出した、非人道的組織。
ぐつり、と腹の底でなにかが沸き立つ。充分に熱された鉄のように熱く、過分に水を含んだ泥のように重い。
眦を尖らせて睨める先で、司祭平服の学会員が右手に握るなにかを強く引いた。黒く小さな楕円がいくつも連なった紐状の、あれは鎖か。荷室から引き摺り出された子供らしき小さな人影が、足を踏み外して転がり落ちた。地べたに散る、三つ編みに結わえられた薄紅の髪と黒縁の眼鏡。
司祭平服の学会員がいっそう強く鎖を引っ張る。自力で立ちあがろうとしていた人影は両手首を封じる鉄枷が宙を浮いたことで手のひらが地面から離れ、受け身も取れずに顎先から地面に頽れた。ひ、と隣から引き攣れた悲鳴が上がる。
緑葉の上を這う芋虫のように体をくねらせてどうにか立ち上がった人影の、露になった顔貌にマリーが、そしてシオンまでもが言葉を絶した。
乱れた薄紅色の髪に、硬く凍てついた浅黄色の瞳。眼鏡が外れてなお衰えない知的な風貌に、廃校となったはずの中等学校の制服。
昨夕、シオン達に南部までの地図を手渡してくれた名も知らぬ少女、その人だった。
愕然と硬直したのは数瞬で、誰かに突き飛ばされたかのような勢いで真横からマリーが飛び出した。咄嗟にその細腕を掴んで、シオンは唇を割る。
「お前、今なに考えてる?」
「離してください、シオン! 早く助けに行かないと……!」
「馬鹿を言うな。お前が行ったところで、あの子供はもうどうにもならない」
「そんなのっ、やってみないとわからないじゃないですか! ……お願い、離してっ!」
「マリー」
びくん、とマリーの全身が跳ねた。合わせること自体を恐れるようにのろのろと持ち上がった金茶の瞳が、細波立つ水面のように揺れている。
——彼女は、大人の男に叱られることを過剰に恐れている。暴力で命令に服従するように躾けられていたから、自分自身を守るための防衛本能が働きやすくなっているのかもしれない。
耳の奥で蘇ったのは、レクテューレから知らされた彼女の心的外傷のことだ。シオンには直接明かされなかった彼女の過去と、いっとう脆い心の内側の部分。
みるみるうちにマリーの顔が蒼褪めていく。戦慄く唇の隙間から、かちかちと歯が触れ合う音が洩れ聴こえる。
「……っあ、わ、わた、わたし……」
これ以上は言わせまいと、シオンは掴んだままの彼女の腕を引いて路傍に移動する。叫声を上げてしまっている手前、表通り居続けるのは得策ではない。数は多くないけれど、野次馬が遠くから様子を窺っていたことも鑑みて、一度捌けたほうがいいとシオンは判断した。
路地に入り込んで陽の光と周囲の目線を遮断し、聴覚に意識を傾ける。自動車の排気音に紛れて、こちらに近づいてくる足音は聴こえない。ひとまず、他者の好奇からは逃れられたと考えていいだろう。
「そろそろ落ち着いたか……って」
言いさして、ぎょっと目を剥いた。マリーが金茶の双眸からぼろぼろと大粒の涙を流していたのだ。
さしものシオンも、自分が泣かせたという事実と罪悪感にたじろぐ。
「な……わ、悪かった、急に怒鳴って。でも、あのままだとお前が……」
「どうして、」
しゃくり上げる呼吸の合間に、マリーが声を絞り出す。
「どうして、あんな酷いことするんですか?」
ぱたぱたと、顎先からしたたる雫が地面に撥ねる。
「どうしてあの子が、あんな酷い扱いをされないといけないんですか?」
無知ゆえの無垢な問いが、シオンの喉元に突きつけられる。
彼女の疑問に対する正答にシオンは辿り着いている。明かすのは容易いけれど、問題は明かすべきか否か、だ。
正解が人を救うとは限らない。疑問を正しく払拭したいというのが彼女の望みで、それに正しく答えるのがシオンのすべき行いだとして、果たしてそれが彼女自身の心情を歪めることに繋がりはしないだろうか。
知らないままでいたほうがいい真実というものがこの世には存在する。
人倫に背く復興学会の研究も、胎芽の完成とともに歪曲していった世情も、知らずに生きるのが彼女の未来のためかもしれない。
今は、どうすべきか。
クリーム色のブラウスの袖で涙をぬぐって、マリーが見上げてくる。思考を見透かされそうなほど真直ぐな眼差しからは逃れられないのだろうと悟って、諦念にひとつ息を落とす。
「……復興学会と胎芽については、どこまで知ってる?」
「……戦争で荒れた土地を再生するために、復興学会が胎芽の研究を完成させたことと、胎芽は人間の体内に種を埋め込んで育つものってくらいは……」
「充分だ。まずはお前の質問に答えよう。あの子供が復興学会の輸送車から出てきたのは、彼女が胎芽だからだ」
え、とこぼれたマリーの呟きは敢えて拾わずに、シオンは続ける。
「胎芽は本来、規定の施設から自由に出歩くことは禁じられている。『商品』が好き勝手に出歩いて奴らの与り知らないところで死なれでもしたら、希少な種が無駄になるからな。共和国各地には胎芽の管理と売買をするための施設があって、そのうちのひとつが、あのトラックが停車していた場所だ」
陽光を絶えず浴びせることで種の生長を促進させるための全面硝子張りの、街中に馴染めるはずもない異質な施設——通称、温室。発芽前と開花後、どちらの胎芽もひとまとめに管理する、文字どおりの促成栽培所。
輸送されてきたのは、あの少女だけではないはずだ。
「おそらく、あの子供は温室から脱走した胎芽だったんだろう。胎芽は一般人に紛れて生活することも可能ではあるが、種を埋め込まれた時の手術痕が残っている。なんらかの拍子でその痕を復興学会の連中に見られたら強制連行は免れられない」
「……連れ戻すだけなら、あんな乱暴な扱いしなくたって——」
「脱走してようがなかろうが、復興学会の扱いは変わらない。なんせ胎芽は、人間と見做されないからな」
あくまで胎芽は人間ではなく、植物であるのだから。
『人類の胎芽化』計画が進行し現在に至るまでに生まれた世論のひとつが胎芽の人権否定であり、復興学会こそが、その筆頭を担っている。
マリーの両目から再びに涙があふれ出る。沈痛にきつく眉根を寄せ、音もなくしとどに頬を濡らす。
「お前が気に病む必要はない。復興学会に捕らわれた胎芽を、ただの一般人にはどうにもできないからな」
脱走を経て連れ戻された胎芽の末路を、シオンは知り得ない。
成す術がないから、救いの手を差し伸べることも叶わない。
それなのに、言葉の端を継いだ声はどうしてか、自分自身を言い諭すような声色で鼓膜を震わせた。
「俺達に、あの子供を救う方法はなかった。——それだけの話だ」
 




