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2-6

「それ以来ずっと、大人の男の人が、怖くて」


 締めくくるように言い落として、マリーは深く息をついた。

 すでに過ぎ去った過去とはいえ、たった数ヶ月前のことだ。完全に忘却するには時間が足りず、心と記憶に刻み込まれた恐怖と苦痛を癒すにはあまりに深くまで傷つきすぎている。


 大衆食堂でいつまでの注文を決められなかったのは、自分に決定権を与えられたことなどなかったから。

 朝市でトッピングに悩んでしまったのは、誰かが決めたものに頷くことしかしてこなかったから。

 迷子の自分に声をかけてくれた母親に笑顔を繕ったのは、大人の前ではそうしろと命じられてきたから。

 『いい子』でいれば苦しいことも痛いことも、味わわずに済むから。


 ふたりのあわいに静寂が降り落ちる。とん、と微かに鼓膜に触れる、どこかの書棚に本を差し込んだ音。


「……そう。そんなことがあったんだね」


 伏せられたレクテューレの睫毛が涙袋のあたりに影を乗せる。髪と同じ白銀のそれの隙間から覗く蒼い瞳は、薄雲のたなびく青空のようだ。


「シオンと話す時、少し口ごもってしまうのはその心的外傷(トラウマ)のせい?」


 投げかけられた問いに瞬息ばかり、呼吸を詰まらせた。


「そ、う……だと、思います。あんまり、ちゃんと考えたことはなかったですけど……」

心的外傷(トラウマ)が原因なら、無理に克服も改善もしようとしないほうがいいと思うよ。あくまで僕個人の意見だけれど。実際、似たような例を身近で見てるしね」

「お友達にわたしと似たような人がいるんですか?」

「そうだね。ところでマリーさん、シオンのことはどう思ってる?」

「えっ」

「優しい? いい人そう? それとも怖い?」


 唐突な話題の転換に、ただでさえ混乱から抜け出せていないマリーは懸命に思考を巡らせようとする。

 優しいか、怖いか。その二極化をするのならば。


「まだ、ちょっとだけ……怖い、です」


 たとえば、初めて顔を合わせた時の険しい顔。

 初めて訪れた大衆食堂で注文を決められないでいた時の気まずい沈黙。

 復興学会(ゲルトネライ)の街頭演説を目にした時の感情の()せた冷徹な眼差し。


 彼と出逢ってから、まだ五日しか経過していない。為人(ひととなり)を完璧に理解できているはずもなければ、彼の好きな食べ物や本すらも知らない。

 それでもけして、怖い人ではないのだと。そう、マリーは思う。


 レクテューレは得心したようにひとつ頷く。


「まあ、彼は短気だから。人と接し慣れていないせいで厳しい言葉ばかり言ってしまうし、あとはほら、目つきがね。きりっとしているせいで怒っているように見えてしまうんだよね」

「で、でも、優しい人なのは間違いない、と、思います。わたしが料理を選べなくて黙っていた時も提案してくれて、迷子になった時も探しに来てくれました」

「本当? ならよかった。もしも彼をもっと知りたいと思うなら、彼の前では本音で喋ってみるといいよ」

「本音、ですか? でも、それだと……」


 マリーとて、本音で語り合うことの重要性は熟知している。相手の機嫌取りのために露ほども思っていない虚言を吐くのは簡単だけれど、そのぶん嘘だと見抜かれたあとが恐ろしい。

 見透かされた相手が関係が薄い他人ならばいいけれど、友人や近しい距離にいる知人ならば。たった一度の軋轢がふたりを引き裂いて、二度ともとに戻りはしない。割れた鏡がもとの形に戻らないように。


「大丈夫。シオンは、マリーさんに酷いことをしてきた大人達とは違うからね。口が悪くて冷たい態度をとる時もあるけれど、暴力を振るったりはしないよ。絶対に」


 だって、とレクテューレが言葉を置く。頭頂に(いただ)かれる陽光で紡がれた天使の輪が、僅かな頭の傾きに合わせて髪先を滑り落ちた。


「彼はとても繊細で、愛情深い人だからね」



   ❅



「ねえママ、見て!」


 突として背後から聞こえてきた声に、ゆるく睫毛を絡めて春茜を見上げていたシオンは薄らと目を開いた。針の先で突かれたような鋭い痛みを瞳に走らせる、赫々(かくかく)と照り返る夕映え。

 視線は無意識のうちに、声の出所(でどころ)を辿る。保育園帰りか、白いキャスケットと簡素なデザインのワンピース型の制服を身に纏った女の子が、両手に携えたなにかを母親に差し出しているさなかであった。


「これね、あっちで()んできたの! ママにあげるね!」

「まあ本当? ふふっ、蒲公英(タンポポ)をもらうなんて、幼稚園の頃パパにもらった時以来かしら。お家に帰ったら花瓶に活けてあげようね」

「うん!」


 ラッピングすら施されていない粗末な花束が、娘から母の手に渡る。ややして母娘はシオンに背を向け、公園から自宅への帰路についた。


 花は便利だ。言葉にしなくとも、渡すという行為だけで気持ちが相手に伝わる。感謝、親愛、友愛、好意、陳謝、祝福、誓約、弔意。花言葉まで考えて選び抜かれた花束なら、咲き誇る花びらが言葉以上に雄弁に語るだろう。


「……呑気なもんだな」


 雑踏に紛れていくふたつの背を見送りつつ、呟きを落とす。


 その花が咲き()めるまでに、どれだけ凄惨で残忍な行為が行われているかも知らないで。

 枯れ落ちるを待つだけとなったその花が、もとは誰の命であったかも知らないで。

 胎芽(シュプロース)と称される『人類の希望』とやらが、どのように造り出されているのかも知らないで。


 ちりちりと焼けつくような痛みを双眸に感じて、瞼を閉ざして俯いた。心中で毒づいたところであの母娘には届くはずがなければ、そもそもが彼女達に限った話ではない。この街に住まう誰もが、共和国に生きる誰もが、それを当然の存在だと思い込んでいる。


 あぁ、なんて反吐(へど)の出る現実だろう。


 痛みと熱が引くのを待ってから、シオンはベンチから立ち上がった。時間の流れとともに太陽は建物の陰に身をひそめ、直線的な輪郭を鮮明に照らし出す。その歳頃特有の甲高い笑声を響き渡らせて公園内を駆け回っていた子供達の姿も減ってきている。

 ふと見やった先、遠方(おちかた)の黄昏には濃藍(こいあい)(とばり)が降り始めていた。



   ❅



「おかえり、シオン」


 ヴィッセント図書館のドアを開けると真っ先に、右隣から声が投げかけられた。天鵞絨(ビロード)を撫でるような、耳触りのいい中低音。

 目を向ければ、ちょうど書架の整理をしていたらしいレクテューレが微笑みかけてきた。ここは俺の家じゃないんだけど、と反射で噛みつきそうになって(すんで)のところで(とど)まり、あぁ、と曖昧な返事で濁す。


「マリーさんならあそこにいるよ」


 シオンが問う前にレクテューレがある方向を指し示す先を辿ると、硝子(ガラス)張りの子供用読書スペースで複数の児童に群がられている彼女の姿があった。どうやら本を一緒に読んでいるようだ。


「彼女、子供に好かれる才能があったみたいでね。あっという間に人気者のお姉さんになったようだよ。誰かさんとは違ってね」

「最後のひと言は必要か?」

「冗談だよ。人には向き不向きがあるからね、前にきみが読み聞かせ会を手伝ってくれた時の大不評はもう気にしなくていいんだよ」

「気にしたことなんて一回もないし、わざわざ過去の不名誉を掘り返すなよ。性格悪いな」

「あはは」


 書棚を整える手は止めず、シオンから顔を背けたままレクテューレが笑声を転がす。高名な画家が()き上げた美人画のような見目をしている割に、彼は子供じみた無邪気な笑いかたをする。


「そっちの進捗はどう? 依頼は進みそう?」

「いや、全然。そもそも情報が集まらない。依頼人(クライアント)にも追加でいろいろと聞き出してるはずなのに、いっこうに対象の行動範囲が絞れない」

「その探している相手の情報は掴めているの?」

「名前と前に住んでいた住所と、家族構成と出身校までは。これだけだとせいぜい当時の状況を割り出すくらいしかできないし、その程度なら依頼人(クライアント)から聞き出せる」

「なるほど。要するに手詰まりということだね」


 返却されたと(おぼ)しき書籍を本棚の余白に差し込む間を空けてから、ん? とレクテューレが声を上げた。


「ねぇシオン、その依頼人のかたは転居先を知ってはいないの? もし知っているなら、そこへ向かえば逢える話なのでは?」

「もちろん知ってたし、所在確認にも行った。でも、いなかったんだよ」

「いなかった……すでにその人だけどこかへ引っ越していたとか?」


 シオンは首を横に振る。


「一家そのものが住んでいなかった」


 依頼人(クライアント)——ディック・リーツマンから得た情報を手がかりに、シオンは彼の幼馴染みが住んでいるという一軒家を訪れた。

 結論を言えば、まだ人は住んでいた。しかし、明らかに情報とは食い違っている五人家族がこぞって屋内から出てきたのを目撃したその瞬間に、シオンは自らが持ち合わせる手がかりが水泡に帰したことを察した。


「母校から同級生を探し当てて居処(いどころ)を聞き出そうとしても、誰ひとり転居先を知らなかった。こ

こまで手がかりが見つからないと、もはや犯罪に巻き込まれてる線を疑いたくなるな」

「これはまた骨が折れそうな依頼を引いてしまったね。運が悪い」

「そういうわけで、まだあんたにはあいつの子守りを任せることになるから。引き続きよろしく頼む」

「子守りってほどのことはなにもしていないけれどね。僕としては人手が増えるのはありがたいよ」


 人手というのは、昨日の読み聞かせ会での助っ人のことだろうか。


 マリーが具体的にどのような手伝いをしたのかはわからないけれど、少なくともこれまでの彼女の言動を鑑みると、あまり役には立たなそうだというのが正直な感想だ。

 引っ込み思案で、受動的で、なにより人の顔色を窺いすぎる節がある。そんな彼女に、果たして元気溌剌な子供達の相手が務まったのだろうか。


 酷薄と知りつつ思考を巡らせていると、ふと、こちらへ近づいてくる足音が聴こえてきた。静粛な場に気を払うようにひそめられた、ぱたぱたと控えめに床敷きを叩く音。


「シオン! すみません、本を読むのに夢中で気づくのが遅くなってしまって……」


 僅かに息を弾ませたマリーが、眉尻を垂れ下げて肩を(すぼ)める。


「気にしなくていい。ずいぶんと楽しそうだったな」

「えっ、そ、そう見えました……?」


 なんだか恥ずかしい、と呟いてマリーが顔を俯ける。今の会話のどこに、羞恥心を誘う話題があったのだろう。シオンは内心で首を傾げた。

 すると、マリーの背後から男児が顔だけを覗かせた。おそらくは彼女を追いかけて来たのだろうその子供は、彼女の服の袖を掴んでぐいと引っ張る。


「マリーおねえちゃん、なにしてるの? 早くつづきよんでよんで!」

「わっ、びっくりしたぁ……ごめんね、今このお兄さんとお話してるから、もう少しだけ待っててくれる?」

「ええー、ぼくたちのほうが先におねえちゃんといっしょだったのにー?」

「お姉ちゃん、お話しないといけないことがあるの。ちょっとだけだから、ね?」

「しょうがないなぁ……ちょっとだけだからね!」


 水で輪郭を(ぼか)した絵の具のような紅が差した頬を膨らませ、大股で来た道を引き返した子供を微笑ましげに見送ってから、マリーがこちらに向き直る。


「ごめんなさい、えっと……なんのお話でしたっけ?」

「いや、日が暮れるから迎えに来ただけだけど」


 言いつつ目を向ける、子供達が(たむろ)する児童用読書スペース。さすがに日没までには帰宅するだろうけど、まだ帰り支度を始める素振りは見られない。一緒に本を読んでいたようだし、マリーが帰ろうとすると騒がしくなりそうだ。


 彼女も子供達の様子が気になっているのか、どこか浮ついたように視線を彷徨(うろつ)かせている。

 残るはホテルに戻るだけでさしたる用事はない。数時間子守りに費やしたとしても問題はないだろうと判じて、シオンは視点を遠くの小部屋からマリーの金茶の双眸に移した。


「あの餓鬼どもが帰るまで遊んどけ。どうせお前が帰ろうとすると駄々捏ねるんだろ」

「い、いいんですか?」

「ちょうど調べたいこともあったからな。手が空いたら声をかけてくれればいい」

「あ、ありがとうございます……!」


 体躯を直角に曲げて辞儀をしたマリーが、(きびす)を返して児童の待つ硝子(ガラス)の箱庭へと戻っていく。どこか跳ねるような歩調に合わせて方々(ほうぼう)に散る、ゆるやかに波打つ琥珀色(アンバー)の髪。


 ひとつ息をついてから、書架を巡り歩こうと右足を半歩後ろに引いたところで、顳顬(こめかみ)のあたりに凝視の気配を感じ取った。相手はひとりしかいない。

 半眼で見やれば案の定、レクテューレがにんまりと間の抜けた笑みを浮かべていた。


「お兄さん、やっさしぃ」

「うるさい」


 可愛こぶるな成人済みの野郎のくせに、と雑言(ぞうごん)を添えると、さして傷ついた様子もなく愉快そうに彼は笑った。まるで悪戯(いたずら)で親の気が惹けて喜ぶ幼子(おさなご)のように。



 マリーを取り囲んでいた子供達全員を見送り、ふたりはホテルへの帰路についた。完全に陽が暮れ、濃藍(こいあい)に沈む街にぽつぽつと(とも)りだした街灯と家々の(あかり)


 最寄りの停留所に停車するバスはたったの一分前に通過していて、三〇分も次発を待つくらいなら徒歩で別の路線の停留所に向かったほうが早いからと、歩道を横並びで歩くふたりの間を環境音が埋める。自動車の排気音、肌寒い夜風にさざめく葉擦れ、遠くから微かに届く時報。

 当然のように会話は生まれない。足音だけが隣を追いかけてくる。


「……なんの本を読んでいたんだ?」


 一〇分と経たないうちに無言に耐えかねたシオンは、とうとう自ら口火を切った。え、と驚きを含んだマリーの声がこちらを見上げる。


「さっき、図書館で子供達と一緒に読んでたろ。そんなに夢中になるほど面白い本だったのと思って」

「あ、あれは、その……世界階層説の本で」

「……は?」


 まさか学術用語が出てくるとは思いもよらず、間抜けな返事になった。

 胡乱げに見下ろした先、まるでずっと強請(ねだ)っていた玩具をようやく買ってもらえた子供のような喜色と高揚に双眸を輝かせたマリーが身を乗り出した。


「聞いたことありませんか? 世界階層説。わたしは初めて知ったんですけど、なんというか、とてもロマンがあるなと思って……!」


 マリーの声色が次第に(うわ)()っていく。


「わたし達が生きている世界とほとんど同じ世界が重なっていて、しかも階段みたいなもので繋がれているなんて信じられませんよね……! この論説が正しければこの目で確かめてみたいですけど、どうやったら見に行けるんでしょうね……飛行機で宇宙まで上昇するか、地底までひたすら掘り進めるか……」


 それきり、彼女は顎先に手を当てて俯き考え込んでしまった。

 シオンとて全く興味が惹かれないわけではないのだけれど、ここまでの熱量を持つことはできない。せいぜい一般教養として記憶に留めておくくらいで、著名な学者の論文を読み漁ろうとは思わない。少なくとも、彼女のようにこの世界の真理に触れようと計画を練ろうなどとは思い至りすらしない。


 というかこいつ、こんな性格だったか?


 記憶しているかぎりでは、いつも消極的でおどおどしていて、自分からなにかを語ろうとはしない性格だったような気がするけれど。

 シオンがひとりで街で情報収集をしている間に、彼女も彼女でなにか心境の変化があったのだろうか。あるいは、こちらが本来の性格か。


「やっぱり、ずっと昔に階段の実態を解明しようとした研究チームみたいに、いろいろ試してみるしかないのかなあ……うーん……でも宇宙には行ってるし、地下にももぐってるし、他に残ってる方法となると……」


 すでに彼女の意識から自分が弾き出されていることを察して、シオンは顔を真正面に向け直した。


 気がつけばふたりは駄菓子屋や喫茶店などの小さな店舗が立ち並ぶ、学生の寄り道スポットに足を踏み入れていた。これまで犬の散歩中の主婦ぐらいしか通行人がいなかった歩道にも制服を纏った青少年が点在している。

 先ほどまでとは打って変わって、建物の数が増えたぶん横道も増える。また迷子にでもなられたら(たま)ったもんじゃないな、とマリーにひと言釘を刺しておこうと思い立った矢先だった。


 淀みなく語られていた彼女の声が、不自然に途絶えた。

 ぎょっと目を剥いて左を向くと、マリーの姿は忽然と消えていた。以前の朝市のように人混みに流されるほど混雑してはいないし、突如逃亡を図ったとて一瞬にして目の届く範囲から姿を(くら)ませられるほどの俊足ではないだろう。

 ぐるりと周囲を見回してみてもそれらしき人影はない。焦燥に噛み締めた奥歯がきり、と(にぶ)く鳴る。


 もう一度あたりを観察する。車道側にはいない。前方にも後方にも。ほんの数秒のうちに誘拐されたという線は薄いとなると、可能性があるとするならば。

 暗闇で目を凝らすように(まなじり)を細めて、ある一点を見据える。シオンの位置からは建物の死角になっているせいでよく見えない、おそらくは裏路地に続くであろう細い脇道。あそこならば、マリーの不意を突いて連れ込むことも可能だろう。


 シオンは躊躇なく脇道に踏み込んだ。暴漢がいようが犯罪者がいようが、探しに行かないという選択肢は(はな)からなかった。

 剥がれ落ちた塗装の断片を踏みしだいて進み、シオンは声を張り上げる。


「マリー!」

「……っ、シオン!」


 返る声は思いのほか近くから聞こえた。おおよそ三メートルほどか。

 ぱりぱりと果敢(はか)なく軽い音を靴底から鳴らしつつさらに進むと、暗がりにも映える金茶の瞳が浮かび上がった。顔、髪、全身と順に容貌が(あらわ)になって、マリーが今にも泣き出しそうな表情で唇に隙間を生む。


「すみません、急にいなくなったりして……」

「謝罪はいい。それよりも、なにがあった?」

「は、はい、それが……」


 首を巡らせて、マリーが路地の奥を見やる。


「この子に、突然腕を引っ張られて……」


 マリーの視線を辿ると、彼女と歳が変わらないくらいの少女が立っていた。左耳の下で結わえた薄紅色の三つ編みに(うす)()色の瞳。制服を着用しているところから推察するに学生なのだろうが。

 覚えた違和感がちり、と脳に電流じみた緊張を走らせる。


 その中等学校は一〇年以上前に廃校になっているはずなのに、なぜ。


「どうして、あなたがこんなところに?」

「知り合いか?」

「えと、知り合いというほどでは……今日の午前中に、図書館で困っていそうなところに声をかけただけで……」

「一応面識はあったわけか。——なあ、あんた」


 あくまで声色は平坦に問う。


「俺達を()けたのか? なにが目的だ?」


 されど声は、返らない。

 黒縁眼鏡の奥にしまわれた双眸が瞬息ばかり揺らいだように見えたのは、単なる光の加減か、それとも。


「……あなた達が、」


 時が止まっているのかと錯覚するほど長い沈黙ののち、ようやく少女が引き結んでいた唇を割った。


「あなた達が、ミオを探しているって」


 シオンは目を瞠った。それはディック・リーマンツから聞いていた、彼の幼馴染みの名だった。

 しかし、その名前は彼に聞いたきり誰にも明かしていない情報のはずだ。街の近隣住民にもレクテューレにも、マリーにさえも教えていない。いったい、どこから洩れたというのか。


「……その名前、誰から聞いた?」

「誰にも聞いていない。私はミオの家族だから。今どこに住んでいるのかも、私は知ってる」

「それを証明できる証拠は?」

「ない。でも、本当のことだから。私も少し前までは彼女達と一緒に暮らしてた。——でも、」


 一度言葉を絶ち、少女は僅かに鼻先を持ち上げた。遠く、ここではないどこかへ思い馳せるように。


「さいごにどうしても、外の世界に触れたくて」


 そう言って、両腕で(しか)と抱き(かか)えた書籍の表紙をそっと撫ぜた。表情こそ変化はないけれど、その手つきにはどこか、愛しい我が子の頬に触れる母親のような慈愛が(にじ)んでいるように見えた。

 少女が前に進み出て、おもむろに右腕をシオンに差し出した。その手には折り畳まれた紙が握られている。


「ここにミオが住んでる。でも、逢ってくれるかはわからない。もともと人を逢うのを避けるために、あんな寂れた土地に移り住んだから」

「……あんたは、これからここに帰るんじゃないのか?」

「さっきも言ったけれど、私は帰らない。この街で自由に暮らして、その時が来たら、この街で死ぬの」

「し、死ぬなんて……どうして。そんな悲しいこと言うんですか……?」


 震えた声音で投げかけたマリーの問いには答えず、少女は受け取る素振りを見せないシオンに痺れを切らしたようにずいとさらに突き出してきた。なかに有害ななにかが隠されているのではと警戒していたところに無言の圧をかけられ、しかたなく受け取る。なにも起こらなかったのがせめてもの幸いだ。


 少女はシオンの脇を通り抜け、颯爽と表通りへと歩き去っていく。呼び止めるマリーの声は虚しく、頑として応じようとしない小さな背中に()()けられて風に攫われた。

 建物の角を曲がった拍子に膝を覆うスカートの裾が柔らかな弧を(えが)いたのを最後に、少女はシオン達の前から姿を消した。

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