2-5
空調設備が完備された図書館には、心地のいい温度と僅かな微睡みの気配が漂っている。
天井にほど近い壁面に嵌め込まれた硝子窓から降り注ぐ陽光がマリーの手元を照らす。放射状に並ぶ閲覧机の一席。机上には分厚い書籍と貸出カウンターから拝借したペンと雑紙の束がある。
マリーはペンの頭で淡いクリーム色の頁に記された一文をなぞりながら読み解いていく。
「胎芽とは——特殊な種を人体に埋め込むことで体内の養分を吸収し、苗床たる者の死後二四時間後に発芽及び開花に至る、高名な植物学者が見出だした『人類の希望』である……。その研究は北区北部ロズリッタに本拠地を置く復興学会が……ゲルトネライ?」
不意に覚えのある単語が現れて、マリーは思わず復唱する。
あれは確か、二日前のことだ。大衆食堂のある北西部からメルヴァンが経営するホテルへ向かうさなかに見かけた、純白の衣装に同色の面紗で顔を覆った強烈な宗教性を放つ団体がそう名乗っていたような、とすでに遠ざかりかけている記憶を辿る。
我々こそが共和国の救済者であると。我々が生み出した新たな生命の循環を以て平和を齎すと。鼓膜を貫く甲高い騒音を迸らせる拡声器を片手に、彼らはそう高らかに告げていた。
「それが、この胎芽のことだったのかな……」
臨終を迎えた命と引き換えに、新たな命を芽吹かせる。
言葉にすれば単純に聞こえるけれど、非人道的かつ道徳から目を背けた行いであることは、世間をよく知らないマリーでもわかる。
そもそも胎芽となる——種を埋め込まれる人間は、どのように選定されているのか。臓器移植の提供者のように意思表示のもと適合者を探し当てるのか。はたまた全共和国民を対象に死期が近づいた頃合いで強制的に施されるのか。水底から立ち昇る泡のように、疑問は次から次へと浮かび上がる。
答えを求めて紙面に視線を滑らせ、されどマリーが求める回答は記されていない。胎芽誕生までの経緯とその功績が共和国に齎した恩恵は事細かに書かれているものの、技術や条件に触れる記述はどこにもない。
それでもめげずに目を通すマリーは、やがて書籍を閉じて深々と息をついた。結局徒労に終わってしまった。
「別の本には書いてあるかな……」
幸いと言うべきか、今日もシオンはひとりで街に繰り出ていて陽が沈む頃までは戻ってこない。彼の帰りを待つ間にマリーができることは本を読み漁るか、併設されている博物館に足を伸ばすかぐらいだ。館内の隅で寝ることもできるにはできるけれど、せっかく図書館に来ているのだから徒に時間を使うには惜しい。
しかし、積極的に学ぼうと奮い立つ意欲とは裏腹に、マリーの体は接着剤で固定されてしまったかのように椅子にくっついて離れない。
ここまでの読破数は二冊。マリーはすでに、難解な書物は総じて難読単語と専門用語の羅列で構成されているという現実を突きつけられていた。
有り体に言えば、非常に読みづらい。
はあ、と億劫な気持ちを溜め息とともに吐き出し、椅子の背凭れの上部に後頭部を乗せて天井を見上げる。想像以上の目映ゆさに網膜を灼かれて、下瞼のあたりからじわりと涙が滲み出てきた。
逃れるように首を曲げて通路を向き、あるものを捉えて潤んだ目を瞠る。館内を満たす白光に紛れて、ところどころに虹色の輝きがまたたいていた。陽射しが硝子に透かされて床上に鏤められる、宝石じみた光の欠片。
雲の流れに従って濃淡が移ろうそれに見惚れていると、不意に視界の端を茶色の爪先が割り込んだ。
あ、と声を洩らす間もなく、革靴はそのまま前進して虹の切片を踏みつけてしまった。七つの色彩は青灰色の毛氈から艶のないくすんだ革の表面に移ろい、足が行き過ぎると再びに床上に散らばる。
ほっと安堵に胸を撫で下ろし、すぐさま光は踏み潰されて壊れはしないという当然に思い至って恥ずかしさが胸中をくすぐった。
太陽が雲に覆われて光の濃淡が移り変わり、先ほどと似た色合いの革靴に映り込んでいるさまをぼんやりと見つめていたさなか。ふとあることに気がついて、マリーは傾いでいた上半身を起こして姿勢を正した。
マリーの視野を行き来しているのは学生が履いているようなローファーだ。長い間履き続けて側面が色褪せつつあるそれの持ち主は、かれこれ五回は同じ場所を往復している。
ややして、忙しなく歩き続けていたその人が立ち止まった。足元から持ち上げた視線の先、両腕で本を抱き締める少女がきょろきょろと周囲を見回している。両腕で辞典ほどの厚みのある古びた装丁の本を抱き抱えている。
歳の頃はマリーと変わらないくらいか。頭の動きに合わせて頼りなげに揺れる、左耳の下で結わえられた薄紅色の三つ編み。
本棚の場所がわからなくなってしまったのだろうか。
椅子の足を引き摺る音が立たないように、けれど颯爽と立ち上がったマリーは急ぎ足でその少女に歩み寄る。まだ完全には本棚の位置を把握できていないけれど、本の種類によっては役に立てるかもしれない。
敷物を踏む跫音に気づいたのか、少女がマリーに瞳を据えた。
「なにか、お探しですか?」
黒縁眼鏡の奥にしまわれた長い睫毛がぱち、と羽搏く。陽の光を弾いて瑞々しくきらめく、色素の淡い浅黄色の双眸。
「……この本、」
躊躇うような間が空いて、ようやっと聞こえた少女の声はか細い。
「どこにしまえばいいのか、忘れちゃって」
「本棚の場所ですね。ちょっと失礼します……あ、えーっと、この番号だと確か……」
背表紙を覗き込んだマリーは首を巡らせ、該当する本棚を探す。
「あのあたりの本棚だったと思います。背表紙に貼ってあるシールに書かれた番号の順に並んでいるはずです。もしよければ、わたしも一緒に行きましょうか?」
「……いえ、大丈夫です。ありがとうございました」
少女は頭を下げ、マリーが示した先へ去っていく、かと思われた。
数歩進んだところで、彼女は足を止めた。やっぱり案内してほしかったのかな、と察したマリーが口を開くよりも先に、耳朶に触れた繊細な声色。小指の爪よりも小さな銀鈴が凛と鳴るような。
「……あの。もしかして、あなたは——……」
「え?」
再び紡ぎ出された言葉は、そこで途切れた。
「……すみません、なんでもないです」
気にしないでください、とだけ言い添えて、少女はくるりと体を翻して今度こそ去っていった。なにを言おうとしていたのか、気になるから教えてくれないかとあとを追う勇気を持ち合わせていないマリーは、ただ呆然とその場に立ち尽くす。
学生さんなのかな、と遠ざかっていく背を見送るマリーの心中に疑問がよぎる。長袖のブラウスに紺のチェック柄のスカート、加えて足元にはローファーという恰好はまさに学生の象徴のようだ。
取り留めもない思考を並べつつ、彼女の姿が本棚の影に隠れて見えなくなるまで見送ってからマリーは踵を返す。ちゃんと目的の場所に辿り着けたかどうかも気になるところではあるけれど、あとは付近にいる職員が助けてくれるだろう。
席から立ち上がったついでに、新しい本を持ってこよう。
僥倖にも億劫な気分に晴れ間が見えたマリーは、栞代わりに挟んでいたメモを引き抜いて机の上の書物を持ち上げた。
「偉いねぇマリーさん、人助けなんて」
「ぴゃっ」
がたん、と手のひらから滑り落ちた本が大きな音を立てた。突として頭上に降りかかった声の主を確認するよりも先に、あたふたと落下した本を拾い上げて折り目がついていないか舐めるように確認する。表紙も頁も無傷だった。
振り返ると、いつの間にそこにいたのか、ほとんど真後ろにレクテューレが立っていた。薄らと驚愕の色が覗く、空色の双眸。
「おや、ごめんね。まさかそんなに驚くなんて。痛くない?」
「だ、大丈夫です……」
念のために手の甲で表紙を払い、机上に置いて彼と向き合う。
「さ、さっきの、見てたんですか?」
「うん。見ていたというか、見えていたというか。また人助けしてるなぁ、と微笑ましく思ってしまってね。つい」
「また、ですか? わたし、前にも誰か助けてましたっけ……?」
「昨日の読み聞かせ会の時だよ。引率の先生からも、生徒のみなさんからも評判がよかったですよ。あの時も思ったけれど、マリーさんは他人をよく見て気を配れる、優しいいい子だね」
——いい子。
どくん、と心臓がひときわ強く脈を打った。徐々に鼓動が早まっていくにつれてうまく呼吸ができなくなる。
酸素が薄くなってぐらぐらと眩暈を起こしたように揺れる頭のなかで、声が反響する。
——『いい子』でいないと。
これは、誰の声だろう。幼少の頃の自分がかけた暗示か、はたまたあの家で一緒に暮らしていた家族の誰かの説諭か。
——『いい子』でいないと。
——『いい子』でいないと、また、あの人達が。
突如として顳顬に閃いた、金槌で殴られたかのような鈍痛に、マリーは奥歯を噛み締める。表情を歪めてはいけない。悲鳴をあげてはいけない。涙を流してはいけない。反抗してはいけない。
なにも考えず、命令されるがまま従うだけの、『いい子』でいなければいけない。
「……そ、」
胸の前で握り合わせた両手が、加減を知らずに皮膚に爪を突き立てる。
「そんなこと、ないです。わたしは……わたしは、いい子なんかじゃ、ない、です」
「……どうして、そう思うの?」
まるで傷口にそっと触れるかのように問いかけてくるレクテューレの優しさが、今は酷く心苦しい。宙空で絡む視線を顔を俯けてほどき、小刻みに震える唇をどうにか動かして声を押し出す。
「ほ、本当のいい子だったら、何度も同じようなことで怒られて、打たれたりしない、ので」
レクテューレは、自分に手を上げない。
段差に蹴躓いて抱えていた本を全て落とした時も、学生に囲まれてどう対応するのが適当かわからずに助けを求めた時も、嫋やかに微笑んで手を差し伸べてくれた。これまで幾度となく暴虐の限りを尽くしてきた人達とは違う。
だから、レクテューレになら明かしても大丈夫だと、そう思った。自らの過去を。抱えた罪を。
細々と息をついて、マリーは俯けていた頤を持ち上げる。見返してくる美貌が女神様のようで、互い違いになるように組み握っていた両の手をいっそう固く握り締めた。
まるで、神に赦しを乞うべく懺悔する信者のように。
あの家にいつから住んでいたのか、正直あまり覚えていない。
この世界に生まれ落ちた瞬間からあの家こそが我が家だったような気もするし、もとは別の家に住んでいてなんらかの事情で引っ越すことになったような気もする。
物心ついた時にはそこにいた、と言い表すのが、おそらくは正しいのかもしれない。
だだっ広い割に家具の少ない、四方を白で塗り潰した奇怪な空間。家族で食事を囲むテーブルに、クッション部分が破れて弾力性を失った椅子。
娯楽の類いは書籍と画材以外になく、分厚いカーテンに隔たれた窓の向こうには目の冴える鮮緑が広がっていて、見渡すばかりの自然はあっても仰ぎ見た上空に太陽はなかった。
あの家には、たくさんの子供が暮らしていた。同年代くらいの少年少女がいて、一回りほど歳上らしき人達は仮初の兄と姉になった。まだ言語を解していないぐらいの幼年達もいた記憶があるけれど、いつの間にかいなくなっていた。
そして子供達を監視する、大人達がいつもそばにいた。絵本に出てくる研究者みたいな裾の長い白い服を着ていたのを鮮明に覚えている。下を向くたび、床の上に倒されるたび、痛苦を怺えようと蹲るたびに、長い裾がひらひら泳いでいたから。
あの家では、大人を怒らせると必ず暴力を振るわれた。これはだめだ、あれもだめだ、それは許されない。どれもこれもにバツをつけては、拳や爪先やしなる鞭が体に襲いかかった。
言いつけを守れなかった時は、屋外に長時間放置された冷たくて濁った汚水に顔を沈められた。
歳下の子の面倒を見きれなかった時は、窓も灯もない真っ暗な小部屋にひとりだけ隔離されて三日間飲まず食わずを強いられた。
大人達の気に障るようなことをした時は、地面に縮こまって何度も何度も謝りながら、ひたすら全身を殴られ蹴られするのを耐え忍ぶしかなかった。
命令には従わないと、痛くて酷いことをされる。
痛くて酷いことをされたくなければ、どんなことでも笑顔で頷かなければいけない。
止まない暴力の末に、動かなくなった子供を何人も見てきた。体の至るところから血を流して、青黒い痣がぱんぱんに腫れ上がって、くすんだ硝子玉みたいな目は開かれているのになにも映さなくて。直視できない有り様のまま引き摺られてどこかへ連れて行かれてしまった。
どこに行ったのかは、知らない。怖いから、知りたくない。
そう、なりたくなければ。
同じ目に遭わされて、見るも無惨な姿になりたくなければ。
大人達の求める『いい子』に、ならないと。
『いい子』になって、自分を守らないといけない。
たとえ嘘を塗り重ねて、本当の自分を見失おうとも。
この地獄を、生き残りたくば。
「だからわたしは、」
深い回想の底から顔を出したマリーは、狭窄した喉で息を継いで言う。
家族の屍から生き残る術を会得し、あまつさえ堆く積み重なったそれを踏みしだいて生き存えてきた自分は。
「本当は、いい子なんかじゃないんです。——自分を守るために『いい子』を演じるのがうまくなっただけの、狡い人でなしなんです」




