序章
俯けた視界の端を、薄桃色のひとひらが掠めた。
毎日決まった時間に囲む細かい傷だらけのテーブル。それぞれ好きな色を選んで敷いたチェアマットつきの椅子。ベッドを置く広さもないほど狭い部屋の隅に寄せられた薄っぺらいマットと毛布。
なぜか書籍と電子機器はないのに多種多様の画材や楽器が揃えられ、見渡すかぎりの鮮緑が眩しい自然が屋外を取り囲む、俗世から隔離されたような閉鎖的な日々。
それが、世界の全てだった。
それでも、『ただいま』と投げかければ『おかえり』と返してくれるあなたがいれば。
名前を呼んで微笑みかけてくれるあなたがいれば、それで充分だった。
「………………■■?」
力なく四肢を投げ出して横たわる彼の人へ呼びかけた声に、けれど応答はない。
あまりの衝撃にうまく喉を震わせられなくて掠れてしまったから届かなかったのだろうと、肺がきりきりと痛むまで息を吸って、再び紡ぐ。
「■■? ねえ、■■?」
どれだけ耳を澄ませても声は返らない。固く閉ざされた瞼が震える気配も、薄らと隙間を空けたままの唇がゆるやかに弧を描く兆しもない。
ただいま、とドアを開け放ってからずっと鼓膜を弄り続ける、大量の多足類が部屋中を徘徊しているかのような絶え間ない雑音に、堪らず両耳を手のひらで塞いだ。
耳の奥に張りついた音の残滓に顔を顰めて、その根源たる存在を凝視する。
色白を通り越してむしろ蒼白の肌膚を内側から突き破り、脱ぎ着が簡単だからと好んで着用していた白いワンピースをも貫通して若草色の茎がまたたく間に背を伸ばす。一枚、また一枚と葉を広げ、伸びきったその頂点に円やかな蕾が膨らむ。
そこで、生長は止まった。
まだその時ではないと耐え忍ぶように固く結ばれた先端から、朱殷の雫が滑り落ちる。粘性の強いその液体は撫ぜつけるようにゆっくりと茎の表面を伝い、持ち主のもとへと戻っていく。
今しがた己が喰い破ったばかりの宿主の体内へと。
上膊、大腿、横腹、胸部、額、頬。体の至るところが罅割れ、芽吹いた萌芽の全てが赤く濡れていた。干涸びた大地に走る亀裂じみた裂創から流れ出た血潮が、とめどなく流れ出ては床を侵蝕していく。
返事をしてくれないのは。目を開けてくれないのは、きっと。
目前の凄絶に竦んだ足を無理やりに引き摺って進み出る。自分の体の一部なのにうまく動かせない。それでも、発芽を続ける彼の人の傍らにどうにか辿り着いて膝をついた。血溜まりを吸い上げたズボンが生ぬるく湿る不快など、気にも留めなかった。
「——■■を、」
喉首を刺し貫く何本もの茎のうち、最も長い一本を両手で鷲掴む。
左右の指を交互に絡めて、まるで神に祈るように。
「■■を返して、よ」
希求とも怨嗟ともつかない言葉をこぼして、ひと息に茎を引き抜いた。
ぶちぶちと臓腑に張られていた根がちぎれる音。一拍ののち、眼前に赤が飛び散る。喉に空いた空洞から血液があふれ出て、またたく間に首元が赤黒く染まっていった。陽に焼けていない真白い肌も、まだ踏み荒らされていない新雪を思わせる純白のワンピースも、濁った赤に塗り潰されてもとの色彩はどこにも見当たらない。
握り締めた一本を投げ捨て、目についた新たな一本を掴む。ひとつ手にかけてしまえば、もう躊躇いはない。庭に生い茂った雑草を引き抜くように乱雑に、一心不乱に抜き去っては床上に叩きつける。
「やだ、いやだ」
引き抜く、捨てる。引き抜く、捨てる。引き抜く、捨てる。引き抜く、捨てる。
目の奥が熱を帯びて、彼の人の輪郭がぼやける。ほたほたと顎先を伝った涙が血の海にしたたり落ち、腥い濁色を僅かも薄められぬまま呑み込まれて沈んだ。
「ねえ起きて、早く、起きてよ」
瞼を眼球に縫い止めるように両目を貫く茎を引き抜く。睫毛の生え際を縁取る子葉もひとつ残らず取り除いて、されどまだ彼の人の双眸は自分を映してはくれない。
「ひとりにしないで」
隣にあなたがいない日々を知らないのに。
自分を呼ぶその声と、差し出された手のひらのぬくもりと、陽だまりのみたいな笑顔だけが生きるよすがだったのに。
あなたがいなくなったら、どうやって生きていけばいいの。
彼の人を喰い散らかすこいつらを全部抜けば助かるはずだと信じて、懸命に手を動かし続ける。茎の表面に付着する体液で滑って手のひらに鋭い痛みが閃こうとも、奥歯を噛み締めていっそう強く掴み込んで駆逐する。
だからこそ、気がつかない。
自らが生み出した惨劇に、気がつけない。
「——止まりなさい!」
突如、背後から飛ばされた怒号に、反射的に体が硬直する。威圧に慣れた、腹の底まで轟く大音量の低音。
振り返るよりも早く、後ろ髪をちぎらんばかりの強さで引っ張られて倒れ込んだ。頭が激しく揺さぶられ、視界を埋め尽くすほどの光が明滅する。
後頭部に襲いかかった鈍痛と喉元に迫り上がる嘔気に呻く、そのすぐ横を人影が通り過ぎていった。濁った赤ばかりを目の当たりにしていた瞳には鮮烈なほど映える白い長裾が靡く。
「あぁ、なんてことでしょう、貴重な良品が……いつまで寝ているのです? 早く起きなさい」
「……っ、はい」
痛苦から意識を背けてのろのろと起き上がる。
どこからともなく現れた白衣を纏う大人は、立てた親指を真下に向けて彼の人を指し示しながら言う。淡々と、事実を述べるだけのように冷徹に。
「見てごらんなさい、この有様を。殺したのは他でもない、あなたなのですよ」
その時、自分を取り巻く全てが遠ざかった。
聴覚を覆う耳障りな音も、いまだ止まない星のまたたきも、喉奥で蟠る嘔吐感も、波のごとく押し寄せる痛みも、そのひと言に掻き消された。
殺した?
自分が? ■■を?
違う、と心中で否定する。本当は叫んで殴りかかりたいのに、幾度となく刻み込まれた畏怖と心的外傷が反抗を拒む。
■■をこんなふうにしたのは体内に埋め込まれていた種で、本当はこんなに早く発芽するはずはなくて、自分はただ■■を助けたいと思っただけで。
だから悪いのは、■■を殺したのは、お前達大人のせいで。
「……ちが、う、ちがう、だって■■は、■■を、助けたく、て」
「助ける? ははッ、発芽が始まったモノから芽を引き抜いたところで、死者が生き返るわけがないでしょう」
白衣の大人は口の端を引き裂いて嗤う。
「可哀想に。あなたが余計なことをしなければ、美しいまま咲くことができたでしょうに」
そこでようやく、彼の人の姿を聢と見た。
数えきれないほど引き抜いたはずの茎は止まることを知らず、むしろ勢いを増しながら全身を喰い潰し、左胸から長細い木の幹のようなものが生え出している。裂けた皮膚の隙間から覗く血肉と、複雑に絡み合った糸のように蔓延る植物の根。
時間をかければ治癒こそ可能だけれど、数分前に負ったばかりの傷が塞がるほどの超常的な回復力を人間は持たない。だから、手当たり次第に全身を侵す茎を取り除いたために生じた夥しい数の穿孔と裂傷は蒼白い素肌に残ったまま、血の海に身を浸して彼の人は瞼を閉ざす。
二度と目覚めることのない、永い眠りだ。
「あ……あぁ……」
自分が傷つけた。穢した。ちがう、などと拒絶して現実から逃げることは、もう許されない。
嗚咽がこぼれそうになった口元を押さえつけようと持ち上げた両手の、べったりとこびりついた血の色にひっと短く悲鳴を上げる。光景は時に、言葉よりも雄弁に語る。誰かに暴かれなくとも、どれだけ否定しようとも、そこに残された色彩と感触が確たる証左だ。
うまく呼吸ができない。眩暈を起こしたように視界が歪んで、鳴りをひそめていた頭部の痛みが暴れ出す。
「■■……」
狭まった喉を震わせて、彼の人を呼ぶ。赦しを得られないと知りながら、それでも告げたくて。
ごめんなさい、と。
あなたを愛していた、と。
されどその望みすらも、赦してはくれなかった。彼の人のもとに辿り着けないまま、夢の淵に落ちるように意識が途切れた。
それが全ての終わりで、全ての始まりだった。