第68話 禍《まが》つ脊髄 前
冒涜的な邪悪に、名前などいらなかった。
フレアの赤い照明の下、五機の[トリシューラ]が鯨ほどもある巨大な醜塊へ果敢に斬り込んでいく。
西洋薙刀、偃月刀、長大両手剣、双短鎌槍、そしてポンプアクションガスショットガンを手にし、彼らが駆け抜けたあとの黒い水飛沫に赤い閃光が宿る。
「[山鳥毛一文字]、推参!」
初手。[ビシャ1]長尾輝彦の両手剣が、名乗りとともに怪物の体を支える腕群を草薙ぎにする。
支えを失って傾ぐ怪物が狂乱の悲鳴をあげて、軽自動車ほどもある頭部を旋回させる。
そこへ[ビシャ3]デニー甘粕のポンプアクションガスショットガンが圧縮されたガスを発破、髑髏を模しながら眼窩から伸びた子供のような短い腕を飛び散らせながら横転した。
「まるで人を知らずして、人に化け損なった邪悪だな!」
[ビシャ2]直江綱が嫌悪と調伏を込めて西洋薙刀を振り下ろす。
「感傷に浸ってる場合かよ。食われりゃみんな、こいつらの糞になるってのに!」
[ビシャ5]柿崎景清が偃月刀で輝彦が斬り残した腕群を切り落として完全に転覆させる。
「国内初の帝都ダンジョン最下層踏破だぞ。[山鳥毛]創設以来の大功名だ。先代の墓前に良い報告ができそうだ」
「ツナさん。怪物を目の前にして気が早いってぇ!」
怪物の体に群生する白い腕の抵抗を両手の鎌槍で斬り払いながら、[ビシャ6]斎藤朝陽が呆れた声を洩らす。
[山鳥毛]は現当主の輝彦以外、前代虎輝が小学生の頃から伴にいる側近だった。長尾本家から支援を受けて徹底的に帝王学を学び、文武に秀でた者たちばかりだ。
虎輝がダンジョン病で早世すると、斎藤を始めとする側近衆で一人息子の輝彦を守り立ててきた。ここ一年は海外ダンジョンで冷遇を受けたが、誰一人欠けることなく帰国できたことは喜ばしいことだった。
ただ、[山鳥毛]に手柄らしい手柄を挙げさせてもらえなかったことが、輝彦を焦りで酸化させているのは傍目にもわかった。しかしあの相場寅治郎に特命任務の与力を頼むまでとは、斎藤たち側近を驚かせた。
なりふり構っていられない。というか、東城家外様直参の名の下に、一刻も早くあの女に傷つけられた自尊心を払拭するだけの戦功を欲したのだろう。
キャロライン・ルー。
二七歳。東城ミカコと同じ大学で首席卒業した才媛らしいが、現地潜穽者の間では評判が良くないエージェントだった。反面、資源コンサルティングプランでは上司の覚えはめでたいらしい。要するに派手な資源採掘目標を立てて自身はキャリアを積み上げる一方で、潜穽者に達成不可能な無理難題を押し付け、酷使する手合いだった。
彼女の思惑は社内昇進ではなく優良企業とりわけ、〝カテドラル〟と異称されるアーバレストUSなどへの栄達欲が斎藤たちにも透けて見えた。
ルーとの関係を有害と見た直江綱が日本の宇佐美孝之に相談してアーバレスト側からレンタル移籍を中途解除してもらった。違約金は宇佐美の謀らいで半額ですみ、長尾家で支払った。そうでもしなかければ、若主人はルーのパワーハラスメントで心を病んでいただろう。
帰国後も軽く女性不信になっているきらいがある。長尾家は虎輝から晩婚傾向にあるので、本家血筋が絶えてもらっては困るのである。
とにかく再出発には国内ダンジョンで戦功こそが輝彦の傷心を癒やす特効薬なのだ。
さっき相場寅治郎がさっき叫んでいた名前は、特命任務のダンジョン踏破とは別件だったはず。だがあのドワーフの声に呼応して発生した熱源反応もこちらで感知している。
ダンジョンの常識で考えて死亡したであろう人物が火を灯した。
なら、その人物は――
「ダンジョンの罠と成り果てた、か」
それでも相場寅治郎は小此木という人物の安否を確かめに近づいていく。
斎藤たちにできることはない。当面は、目の前の怪物を久方ぶりの戦功とするだけだ。
§
「小此木……っ」
ベットラーが静かに呼びかける。
「寅さん。へへへっ、面目ない。そこで……それ以上はあたしに近づかないほうがいい」
赤外線反射形成映像から男が岩で組まれた塚にもたれる格好で座っていた。
高温感知でライターの灯は白く表示された。
[フラガラッハ]のヘルムは砕け、顎周りに欠片めいた部品だけがはりついていた。
血糊で汚れた髪の下で浮かぶ虚ろな笑顔からヴォイド汚染率七四%を検知している。すでにヴォンゾイド化して理性まで失われているはずだが、小此木はベットラーを呼んだ。ダンジョン内で十日以上も浄化フィルターもなしに飲まず食わずで、なお理性を保つことは現代生理科学では考えられない。
〈近づくなよ、衛。あの灯の明かりは真実を隠すためのもの〉
「それ、どういうことだ」
〈直にわかるが、あやつの脊髄はすでに別の脊髄に変えられておる〉
「まさか……おれの時と同じことが?」
〈察しが良くて手間が省けるぞ。ただしあの者を助けた脊髄はあの者を生かすために助けたわけではないようだぞ〉
「それは……お前とおれの時と、どう違う?」
その問いに、返事はなかった。
こいつ、都合の悪いことはだんまりかよっ。
おれの戸惑いをよそに、ベットラーは小此木と一定の距離を置いて話しかけた。
「小此木……お前、その姿は」
「ご覧のとおりです。寅さん、あたしはもう死んでますよ。こいつは掛け値無しだ」
小此木はあっさりと自分の死を認めた。
ライターの灯は儚く揺れていたが、[フラガラッハ]のスキンを照らしている。しかしその腕は正面の定位置から動かない。背後を照らそうとしない。地下空洞の天井に刺さった照明弾をもってしても小此木の背後の漆黒を光に変えることはできなかった。
「何が、起きた……っ?」
「わかりません。確かに死んだはずなんですが、気づいたら死に損なってましてね」
小此木の[フラガラッハ]は転落によるものかずたずたに破損していたが、その隙間から紫檀の皮膚が露出して脈打っていた。
「樊は、どうした」
「その辺であいつの死体が浮いてませんでしたか。まあ、ここへ落ちてきた時から、自分の悲鳴すら聞いてないんですがね」
「どうやって、ここまで落ちた?」
「上でゾンヴォイドに襲われたんです。ありゃあ華僑に肩入れしてた潜穽者たちですね。五、六七……八人くらい? 樊が何人か頭をふっ飛ばしてたんですが結局、押し切られた格好でクレバスに一か八かです。んで、あたしだけここで目が覚めて……お先真っ暗って有り様です」
死に戻っても軽妙な減らず口は滑らかだ。
「お前と樊の関係は」
「恥ずかしながら幼馴染でした。香港の施設で。あたしが五つ上で」
小此木は白く濁った目で、自分でかざすライターの灯を見つめる。
「あいつ、金に目がくらんでマフィア幹部のゾンビ化を手伝ってて、池袋で交通事故を起こしたんです。俺に助けてほしいって。大金を掴んだら必ず自首するからって……その言葉を信じたわけじゃないんですが、あたしなりにほっとけませんで」
「馬鹿野郎が。情にほだされて一緒に地獄まで落ちてちゃ、世話ねえだろがよ」
「へ、へへっ。上司の目を盗んで寅さんに相談したのがまずかった。ほとんどの状況を言い当てられちまうとは恐れ入りました。あれがケチのつけ始めで」
「違ぇだろ。樊の交通事故を自首させなかった時から、とっくにケチがついちまってたんだよ」
「そうですね。かもしれません。最期に寅さんに叱られたのはいい冥土の土産です。ねえ、寅さん。ついでにあたしの遺言を聞いちゃくれませんか」
「とっくに死んでるのにか? 黙って刑事として逝けよ」
「へへっ、へへへっ」
小此木はあらぬ方向に曲がった指三本で持ったままのジッポライターをその場に落とした。
その灯に浮かぶ影の中で、小此木は泣いていた。
「お願いです。寅さん。あたしを殺してください。脊髄を砕いて……死んだ後からずっと耳元でマサカド、マサカドうるさくて敵わねぇ。寅さんから引導を」
[フラガラッハ]頸部の隙間から紫檀色のタールが小此木の顔を這いのぼり、やがて頭部を飲みこんだ。次の瞬間、脊髄装甲が内から破れちぎれ、下から赤いTラインアイ、漆黒の烏帽子甲冑――脊髄龍鎧が現れた。
「小此木ーっ!」
叫ぶベットラーを引き寄せ、おれは前に立ちざま絶縁小太刀を構えた。
「藍鐵、待たせたな。やっとお前の出番が来たぜ!」
〈クトゥニアンだ。格上の精鋭だぞ。衛と我をもってしても、骨が折れる〉
「心配するな。ベットラーも辰巳もいねも、童夢だっている。おれとお前だけじゃない。おれ達はチーム[三島瓶割]だっ、いくぞ!」




