第22話 長く住むと、世間が狭くなる関係
「翡翠? いや、いないけど」
おれは駅ホームを左右に見た。
「さっき、青山の会社から出てきたところ。何かあった?」
『今日のディナータイムのシフトなんだが、二五分遅刻している。連絡がねえ』
「じゃあ、切りよく三十分まで待ってみたら?」
『バカ言ってる場合じゃねえんだよ。あいつは遅刻しそうな時、ちゃんと連絡を入れてくる。ミツルがそう躾けてるからな』
時間にルーズなのは、生活がルーズだからだ。
チーフシェフの美弦さんは時間と報告と盛り付けにはめちゃくちゃうるさい人だ。
「じゃあ、わからないな。今日は会う約束もしてないから」
『そうか、わかった』
「あ、ベットラー」
『ん?』
「今日、学校であったんだけどさ。名前も知らない女子から翡翠の名前を聞いたんだけど」
『どういうことだ』
おれは帰宅ラッシュの雑踏を避けるように壁際まで移動し、壁に腰を掛けた。
「おれも詳しく聞かなかったんだけど、地下アイドルのユニット? のグループに翡翠が入ってたらしくて、最近見ないからファンが心配してるって話、これ関係ないかな?」
『同姓同名という可能性は?』
その発想はなかった。だがおれはすぐに否定できた。
「ないと思う。池袋駅で追手の男二人から逃げてた時、他の学校の子に見られてたみたいでさ。それでおれのところに関係を訊きに来てたから」
『おい、追手ってなんだっ?』
語調が強まった。おれは思わずスマホから耳を遠ざけて、
「し、知らないよ。ほんとほんと。翡翠は知ってたみたいだけど、先にそいつらを走って撒いてたら翡翠のシフト時間になってさ、詳しく聞き出す前に別れたから」
『衛よ。お前ちゃっかりガッツリ、面倒ごとに首突っ込んでるんじゃねえか』
「しょうがないだろう。でも今日は一度も翡翠と会ってない。なんなら、今から住所に行って、見てきてもいいけど?」
通話の向こうで沈黙があった。
『それは俺が行く。お前は家に帰ってろ』
なんだかんだ。スタッフ想いの面倒見のいいオーナーだ。
おれもつい背伸びして頼られたくなった。
「ベットラー、そっちはもうすぐディナータイムだぞ? 俺は今日まで休み。学校だってまだ肩慣らしみたいなもんだよ」
『わかった。住所は代官山だ。詳細は送るから見てきてくれ。ちなみに警察沙汰だけは勘弁だからな』
「わかってるって……代官山って、確かすぐそこじゃなかったっけ?」
『あと、アーバレストに戻って、念のためにグラップルガン借りとけ』
「ベットラー。それ、警察沙汰上等の指示だよ」
『いいから持ってろ。ただの確認偵察だ、バレないようにうまく処理しろ。最悪、死体を発見した場合は、先におれに連絡を入れろ』
殺伐か。通話を切って改札を抜け、おれは地上に出た。
アドレスから[松風翡翠]を呼び出す。回線はつながってる。電源は切られてなかった。
『もしもしっ、あなた誰!?』
女性の声だった。
代官山。超高層マンション。
「へえ。翡翠のやつ、二十歳前から良いマンション住んでんじゃねえか」
いねは白スーツに背嚢を片かけして、エントランスを眺め回す。
ついてこなくていいと言ったのに、いねが「戻ってきたお前からトラブルの匂いがする」と訳のわからないことを言って付いてきた。
慣れない東京の知らないマンション訪問で、心細かったのは違いなかったけど口にはしない。
「監視カメラは二台だが、管理人室がねーな。意外とザル警備かよ」
「事件現場はここじゃないと思うけどな……ごめんください、さっき電話した、冬馬衛ですが」
「マモル、ヤサの階層は」
「やさって? 十一階だよ」
マイクから返事があって自動ドアが開く。その向こうにエレベーター。
[11]を押して、ため息をつく。
「なんだよ、ビビってんのか?」
「ビビるよ。金持ちとは喧嘩したくないからさ」
「金持ちは喧嘩しねえかわりに相手の足元見る、それだけ注意すればいい」
エレベーターの扉が開くと、廊下の先で高級スーツを着た四十代の女性が立っていた。ナイスミドルと言うか、二十年後のミカコを想像させるキャリアウーマン。美人だ。
「おろ、芙由美じゃねえか」
「いね……っ。[三島瓶割]っ!?」
女性は小うるさそうな目で、いねを見た。
「いねの、知り合い?」
「まあな。東京に長く住んでみると、案外、世間も狭くなるもんだ」
そういって、いねはおれの前に出た。
「芙由美、飼ってた子犬が逃げたって?」
いねの嘲笑めいた揶揄に、女性は感情を顔に出さず部屋に入った。
「いね、こっちから喧嘩を売らないでくれよ」
「さあな。そりゃ向こうさん次第だろうぜ。くひひっ」
人の弱みに付け込むような嫌な笑い方だ。おれは声を潜めた。
「さっき、飼ってた子犬って、翡翠のこと?」
いねはドアノブを掴んだまま、半顔だけ振り返って、
「金森芙由美って言ってな。元潜穽者だ。[蜘蛛切膝丸]といやあ、親子二代でかなりの実力だったが、【獄闘】の探索層に一番乗りしたものの、浮上にしくじって滑落、救助こそされたが親父が死亡、本人も腹を強く打って第一線を退いた。今、〈ガイアテックス〉って採掘会社の社長やってる。中堅どころだから、やっぱりやり手だな」
そこまで言って、いねはドアの向こうへと消えた。
遅れないよう部屋に入ると、玄関でいい匂いがした。薔薇の匂いだ。
「ドワーフでもスリッパの履き方はわかるわよね?」
「おかまいなく」
奥からの嫌味を、いねは飄々と受け流した。
リビングに入ると、ホテルみたいな瀟洒な内装だった。窓には厚手のカーテンが引かれ、室内照明が最小限、報道番組を流す液晶テレビのほうが明るいくらいだ。
「照明、強くしろよ。顔の皺が目立って老けこんで見えるぜ」
「うるさいなあ。お茶は出さないわよ。あんたの顔見たら、そんな気分じゃなくなったわ」
「はっ。おかまいなくって言ったろ。勝手にやらしてもらうさ」
「ちょっとっ。勝手に人の家のキッチンに入らないでよっ」
いねは台所に入ると、背嚢から霧吹きとブラックライトを出した。
しゅっしゅっと床に吹きかけて、ブラックライトをかざす。
「なあ、室内に争った形跡は?」結局、訊くのかよ。
「なかったわ。ふぅ……クレジットカードの入った財布とスマホ、書き置きがあった」
「【あなたの愛が重い】ですって?」
「張り倒すわよ、あんた!」
金森芙由美の声に感情が入ったので、おれは針金を飲んだ心地でその場に立ちすくんだ。
「冗談で持ってきたルミノール試薬の反応もなし、か。いつ帰ってくるって?」
「必ず……それだけよ」
「付き合って何年だ」
「五年。たまたま、あの子をステージの上で見て」
「ステージ?」
「自費でアイドル活動してたの。あの子が十四歳の時。私も最初は見物だけだったんだけど、いつの間にか目が離せなくなってた。そこから二年ほどして人気が出始めて、友達と辞める続けろで揉めて部屋を追い出されたそうよ。もともとアイドル活動だって、翡翠が友達の身代わりでステージに上がってたみたいだから」
「んで、巣から追い出された雛を懐に入れちまったわけか。寝たのはいつ? どっちから?」
「あんたねえ……勝手に想像してれば。どうせ私は女として終わってる身だし」
「くひっひっひっ。おいおい自虐ネタかよ。ウケるな。それ」
いねは台所から出ると、ようやくリビングに入り、テーブルに置かれた書き置きと財布に手を伸ばす。
「美容師スクールに通ってたことは」
「もちろん。知り合いが校長してるスクールよ。人気校だから受かるとは思ってなかったけど。実力で受かって拍子抜けしたかな。身元保証人になったんだから二年は頑張りなさいよって発破をかけた」
「バイトは?」
「認めてない。お金の心配はしなくていいから、美術館とかデザイン展とか巡って目を養いなさいって言ってある」
「ふん。大した教育ママだな。ならよ、そこに突っ立ってるのは何の友達だと思う?」
「え?」
虚をつかれた顔をして金森芙由美が、おれを見た。
「こいつ、兄ちゃんが店を手伝わせてる、バイトだ」
彼女の目が見開かれた。




