消える子供
前回、座敷わらしについて書くつもりが、力一杯脱線してしまった。
今回は『ずっけ』でも『ばっけ』でもなく、『わらし』がテーマなのであります。
座敷わらしは、前回も書いたように主に家の中で目撃されるが、屋外で遊んでいる時に「いつの間にか一人増えている」場合もある。
今でこそ道路状況も良く交通手段も発達しているが、当時は道が険しく、山には狼が出たりして大変危険であった。そのためか、神隠しと称される行方不明も多発している。
そんな中、行方不明にもならずにひょっこり現れた子供というものは、大いに不思議であったに違いない。不思議ではあろうが、もしそうであれば『どこそこの子供のない家で大切に育てられましたとさ。めでたしめでたし』という話になりそうなものだ。
しかし、数が増えたという見知らぬ子は、いつの間にか消えているのである。
突然現れて消える子供、確かに謎である。
当時の行方不明の原因としては、事故によるもの、オオカミ等の野生の獣に襲われる、大型の猛禽類に攫われる(田の畔や畑に置いていた赤子が大型の猛禽類に攫われるという話は意外と多い。赤ん坊を背負って野良仕事をするのが大変なので、大きな木の椀のようなものや籠に赤子を寝かせてるところを攫われた。昭和30年代までは、この道具は結構普通に使われていたらしい)等、生存が絶望視されるものも多いのだろうが、何故わざわざ『神』が『隠す』ことにしているのだろうか。
突然、家族を失った悲しみを、『神』という自分たちの力の及ばない、不可思議な存在が『隠して(連れて行って)しまった』とすることで、自分たちを納得させる為の言葉だったのだろうか。
愛読させて頂いている遠野物語には、行方不明になった娘が数十年後に里を訪ねてくる「寒戸の婆」の話や、猟師が山の中で行方不明になった女性にばったり出会う話がいくつか紹介されている。
「猿の経立」のように、あからさまに人間ではない妖に攫われてしまったというケースもあるが、行方不明になった娘たちの話に共通して登場するのは大男である。
また、「異人にさらわれる」というそのものズバリな一文もあるから、神隠しの正体として、いわゆる『異人』に攫われるというケースも多かったとしても頷ける。
古来より東北には鬼が棲む、といわれている。それは朝敵や野盗の類であったり、権力争いに敗れた有力者だったり、異国人であったりしたであろう。
遠野物語が書かれた時代においては、沿岸部では異国人が普通に見られている。
交易があったにしろ、堂々と人を攫うような輩を気性の荒い漁師達が見過ごそうはずもない。自衛の為に見つけ次第攻撃対象とするであろう。
そんな殺伐とした空気の中では、人攫いとは無関係でも人前で口を吸う(これも遠野物語に記述がある)余裕などなかったに違いない。
害がなく、意思の疎通が可能で交流がある異国人は、他所の商人たちから見れば鬼でも、そこで暮らす人々にとっては当たり前の存在足りうる。
神隠しの原因の一つとされるのは、あくまでもその辺りの里で暮らす人々とは『異なる』人という意味の異人であろう。
山岳信仰も盛んであったことから、山中には山伏や木こり、猟師、炭焼きなど、様々な人々が出入りしていたはず。
山の中といえども、人の気配はそこかしこにあっても不思議ではないのである。
神隠しで消えてしまった人々のうちごく少数の人々が、攫われた先の人里離れた山中で生活しており、人々はそれを知っていたからこそ、自分たちの家族の生存を願って『隠された』という言葉を使い続けたのではないだろうか
さてさて、そうして神隠しにあった人々の子孫が、うっかり里に出てきていつの間にか遊びの輪に加わっていた場合である。
そもそも、親族にその里の出身者が居れば、里の遊びに近いものを教わっている場合もあるだろうから、突然現れても遊びの輪に加わることは難しくないだろう。
日暮れまで帰らなければ、神隠しにあった家族が迎えに来て連れて帰ることもあるだろう。
攫ったものが野盗の類であれば、実家に逃げ帰ったところでどんな報復に合うかわからない。親族に累が及ぶことを恐れて、涙を呑んで別れも告げずにひっそりと姿を消すこともあったであろう。
この場合、『見知らぬ子がいつの間にか遊びの輪に加わっていた』ことには説明がつく。
親も警戒して次からは里に近寄らせないようにするであろうから、「あれは誰だったんだろう」のまま終わり、不可思議な出来事として語り継がれたとしても不思議ではない。
不思議ではないが…
おかしい。
今回はちゃんと座敷わらしについて語るつもりが、いつの間にか神隠しの話が大半になっているではないか。
次こそは、ちゃんと書きたかった話を…