座敷に棲まうもの
ふと気になったことがある。
座敷わらしについてである。
棲み付いた家は栄えるという福の神のような側面を持ちながら、去ってしまった家は衰退どころかあっという間に滅んでしまうという、貧乏神も裸足で逃げ出すような苛烈さも持ち合わせるという二面性が、どうしても引っかかってしまうのである。
特徴などを整理しながら、少し考えてみよう。
座敷わらしといえば…
住み着いた家は栄え、いなくなると家が廃れるという『福の神的な妖怪』というのが一般的なイメージなのではないだろうか。
姿については諸説あるが、大概は綺麗な着物を着た子供、せいぜいが若い女性といったところか。
同じように『座敷』がつく妖怪には、(あまり知られていないが)実はお爺さんとお婆さんもいる。
柳田国男大先生の遠野物語に、ちゃんと『座敷ばっけ』として登場している。(ちなみにお爺さんは『座敷ずっけ』と呼ばれる。『ずっけ』がお爺さん、『ばっけ』がお婆さん)
座敷ずっけ&ばっけは、裕福な家の奥深くの部屋の床を這いまわったり、姿を見て驚く来客者の顔を見てケタケタ笑ったりしていたという。
表面だけを眺めてしまえば、ただの気味の悪い妖怪である。
だが、座敷わらしと同様に、遠野地方の座敷に現れる妖怪、しかも『座敷シリーズ』の妖怪であるのに、何故にここまで知名度が低いのか。
見た目が可愛くないからと、一刀両断にしてはいけない。
…したくなるけど。
まぁ、あまり想像したくない絵面ではあるが、それを言うなら他にも色々絵にならないクセに有名な妖怪は沢山いる。(泥田坊とかね)
では、老人と子供で何故ここまで知名度に差が出るのか、同じ東北地方の『座敷わらし』との違いを比較しながら考えてみよう。
1:水木しげる大先生が描いてくれなかった。
…これが一番大きな理由の様な気がするけど、もっと他の理由も考えてみよう。
2:住み着いた家から移動しない。
座敷わらしは、家を移動する際に目撃され、村人と話をしたりするがじっけ&ばっけは話をする事がない。そもそも屋外で目撃される事がない。
3:住み着いた家が裕福にならない。
座敷わらしが住む家は栄え、去った家は没落するが、じっけ&ばっけは、庄屋等のもともと裕福な家で目撃されることはあるが、居なくなったからといって家の経済には何の影響も及ぼさない。
大きな違いはこんなものだ。
1番と3番が、有名になれなかった大きな理由なのではないかと思うが、それはさておき。
両者には共通点もわずかながらある。
…「人である」という点が共通していると思ったそこのキミ、反省するように。
冗談はさておき、共通するのはどちらも『裕福な家に出る』という点であろう。
しかも、出るのは大概人気のない奥座敷である。
そもそも奥座敷などというものは裕福な家にしかないものだが、共通点として挙げたのには理由がある。
どちらも、世間の目から何かを隠す為に充分な広さの家を必要とすると言えばわかりやすいだろうか。
現在と違って大昔は、世間の目から隠す為に座敷牢などという物騒なモノまで拵えていた時代である。
座敷牢は、家人でもあまり近寄らない『忌みもの』だから、そこに何がいるのかは家人でも知らない場合がある。まして使用人や他所から来た客の目から何かを隠しておくには最適である。
しかし、座敷牢を家の中に拵えるとなると工事が必要になる為、狭い村の中では隠すどころの騒ぎではなくなってしまう。
ところが、大きな屋敷の奥まった部屋を隠し場所として利用するなら、資金はかからないし、工事も必要ないから必要以上に耳目を集めることもない。
そうまでして隠したい存在として、ずっけ&ばっけの存在を再度考えてみよう。
(座敷わらしについてはのちほど)
改めて、座敷ずっけ&ばっけは、裕福な家の奥深くの部屋の床を這いまわったり、姿を見て驚く来客者の顔を見てケタケタ笑ったりする存在である。
床を這いまわるという事は、下肢筋力の低下が考えられるが、ずっけ&ばっけと呼ばれる程の高齢なら、普通にありそうな話である。
薄暗い部屋で、床を這う高齢者からニンマリ笑いかけられたらそれはそれで怖い光景にはなりそうだが、歩けないからといって奥座敷に閉じ込めたりするものだろうか。
貧しい家柄なら、養えないからと山に捨てることもあるだろうが、豊かな家柄ならご隠居として堂々と家に置いておけば問題はないはず。むしろ、歩けなくなるほど老いた親の面倒を見るというのは世間一般的には美談になりこそすれ、恥ずかしいことではないはずである。
世間から隠そうとするからには、もっと他に理由があるに違いない。
世間から自分の親を隔離し、存在を隠してしまう程の理由を考えると…
ずっけ&ばっけの正体とは、奥座敷に閉じ込められた認知症の高齢者なのではないだろうか。
昔々は、認知症で働けない家族を養っていくのは並大抵な事ではなかったはず。
それでも養えたとして、普通の家なら隠すことは困難だろうし、歳を取って呆けたと近隣に言えば、それなりの理解も得られたことであろう。
ところが、世間体を気にしなければならない庄屋などは、家族が認知症になったなんて口が裂けても言えなかったのではないだろうか。
…しかし、何かの拍子にその存在が露見することもあるだろう。
(遠野物語にあるように、泊まりに来た客が物音を不審に思って見つけてしまうなど)
人の口に戸は立てられない。
噂はすぐに広がるだろうが、相手は庄屋様である。睨まれたら何をされるかわかったものではない。
そこで『座敷』にいる『ずっけ&ばっけ』を妖怪として、昔語りの形をとりながら人々に真実を伝えていったというのが、正解に一番近いのではないだろうか。
「語るなかれ聞くなかれ。妖に関わると、どんな障りがあるかわからない」
言い換えれば「面白おかしく噂話に興じてはいけない。権力者の耳に入ったら、どんな目に遭わされるかわかったものではない」
こっそり言い伝えられるからこそ、昔語りとして生き残り、こっそり伝えなければならなかったからこそ、ここまで知名度が低いのではないだろうか。
あれ?
座敷わらしについて語るつもりが、いつの間にか目一杯脱線してしまっている。
おかしいなぁ…
次こそは、脱線せずにきちんと座敷『わらし』について語りたいと思います。