プロローグ
ギィ…と、ロッキングチェアの軋む音が鳴る。パチパチと暖炉の炎も暖かく揺れていた。薪はブナの木だろうか。ログハウスの柔らかい質感が、それらと一緒に老人をくるむ。窓の外は雪がちらついていた。
「寒いはずだな」
老人はロッキングチェアからゆっくり離れ、窓に近付く。外は暗く、部屋の灯りが浅く微かに雪を映した。ひらひらと踊る雪は、老人に会釈し落ちていく。そう錯覚するほど、人間じみたどこかホッとする風景だった。
咳を1つ。眉をしかめ、もう1つ。
「今日はもう遅い。一晩は泊めてはやるが、明日は帰りなさい」
老人は途中、咳を交えながら若い男にそう投げ掛けた。
「いや、俺もね、帰りたいわけよ。わかるだろ?誰も好き好んでこんな山ん中に来ねぇよ。こっちもね、『仕事』できてんの。何回言わせんだよ」
若い…といっても、老人からしたらという意味で、年の頃は40半ば…といったところか。老人は男の言葉を聞き流し、新しい薪を暖炉に投げた。炎は一瞬弱まり、また元の勢いで踊り出した。しばらくの沈黙。薪の炊かれる音がやけに響いた。男のため息も薪のそれに混ざり、独特のリズムを崩す。
「無理なものは無理なんだよ。私も何とか描き上げたいとは思っているんだ。しかしね…」
炎を見つめながら言葉を返す老人の顔に、疲れが覗く。
「大丈夫だって!ほら、まだ時間あるしよ、頼むよ!俺もそれないと会社帰れねぇんだわ。チャチャッとさ、やっちまおうや。でよ、飲みに行こう。あ!あんたのおごりでな!それくらい屁でもねェ金入んだろ?」
老人は睨みながら立ち上がり、男の向かいの椅子に腰掛けた。
「人にものを頼んでいる態度ではないな」
「あ?今更何だよ?長ェ付き合いじゃねぇか」
「あぁ…、慣れたよ」
「だろう?なら…」
「長い付き合いだからこそ、わかるだろう。私の筆の止まる理由が」
男は頭を掻き、ため息をつく。
「珈琲くれよ」
「いつもの所だ。好きにするがいい」
男は立ち上がり、キッチンへ。戸棚から自分専用のカップを取り出す。隣の白いカップを手に取り、老人に見せた。飲むか…?と、目で合図する。老人は軽く首を振り、窓に視線を映した。
「で?」
インスタントで、決して上等ではない珈琲を入れる。ブラジルサントスが好きで、老人に頼み置いて貰っているのだ。角砂糖1つ。ミルクはなし。軽くかき混ぜ、熱さに恐る恐る口を付ける。
「なんだ?」
「ッ熱ぃな!…あ?」
「いや…」
「あ、そうそう、で?今度は何よ?イメージが膨らまないとか、そんな感じか?」
余程熱かったのか、眉間にしわを寄せながら老人の前に座った。珈琲から立ち上る湯気が、その熱さを物語っていた。老人も半ば呆れ、口許に笑みが浮かぶ。
「それとも何か?スランプだとでも言いたいってか?」
「いや、実はな、絵自体はもう殆ど描き上がっているんだ。ただ、一つだけな…どうしても描けないものがあるんだ」
「はぁ?なんだよ、じゃあそれくれよ!いいよもう。大丈夫だって!あとは俺がうまく言っとくからさ、分からねぇって!」
「だめだ!そんなことをするくらいなら、今すぐこの暖炉に投げ入れてやる…。私の絵は、私の作品はそんなものではないのだ!」
「わかったわかった!冗談だって!そうカッカすんなよ。そんで?何が描けないのよ?」
老人は微かに見せた興奮を抑え、視線を落とした。白く綺麗な髭が暖炉の炎で少し赤らむのを眺めながら、男は慎重に珈琲を口に運ぶ。
「…実はな」
「ッッ熱ィなおい!」
老人の言葉を遮り珈琲に一渇。
「んぁ、すまん!」
「いや、いい…」
「なんだよ、言えよ!」
「……」
少しの沈黙。老人は軽く首を横に降り、立ち上がった。
「わからんよ、お前さんには」
火はキチンと消せよと、一言だけ男に言い残して老人は部屋を後にした。扉を閉める音が、どことなく寂しげに感じられた。
「何なんだよ、全く…」
ため息混じりでぼやく。暖炉の火は、それを嘲笑うかのように踊った。立ち上るコーヒーの湯気もそれ似合わせて踊る。ほろ苦い香りは男の嗅覚を触り、口に運ばせるのを手伝った。
「熱ッッッ!!!」
外は、雪がチラついていた…。