前編
始業ベルとともにテスト用紙が配られる。
クラス欄に【6-A】、氏名欄に【穂村太恵】と記入。
苦手な算数だけど気合い入れて頑張ろう!
わたしは中学受験する身。
他の科目はいいのだけど、算数だけはテスト用紙を見た瞬間に気絶したくなる。
おかげでもう一一月だというのに、第一志望の国立H大付属は遠い彼方だ。
──解答を書いている途中で、隣の席の山田君が目に入った。
手を止めて口をぱくぱく動かしている。
テストの時はいつもこう。
彼が勉強できるのに関係あるのかな?
先生とかの大人達からは「神童」と呼ばれている。
しかもかっこいい。
同学年の他の男子達より大人びていて、寡黙で落ち着いた感じ。
まるでファンタジー漫画に出てくる氷の国の王子様。
わたしには縁遠い人だから話したことはないけど……って、見とれてる場合じゃない!
早く問題解かないと!
──テストが終わりホームルーム。
担任のキョウコ先生が黒板にお題を書く。
【将来の夢】
「卒業文集に載せるので、くれぐれも大人になってから読み返して後悔しないものを書いてください」
茶化した声が飛ぶ。
「先生は何書いたんですか~?」
「わ、私は……その……が、学校の先生よ。で、こうして夢を叶えてここにいるの」
マシュマロみたいな髪を震わせて、たれ目の際だつ顔を真っ赤にする。
いったい何になりたいって書いたんだろう?
次々に発表が進む。
男子はプロスポーツ選手にお医者さん、女子は看護師さんとか保育士さんとか。
中にはユーチューバーやアイドルなんて派手な職業も。
わたしみたいな体型マシュマロな子がそんなの書いたら、先生の言う通り大人になって後悔しそうだ。
「次は山田君ね、どうぞ」
「僕の将来の夢は警察官です」
品行方正に見えるし、似合ってると思う。
山田君のお父さんは警察の偉い人で転勤が多いとか。
そのせいで転校を繰り返してるらしく、この学校にも六年になってからだ。
──わたしの番が回ってきた。
「わたしの将来の夢はパティシエ、いわゆる菓子職人です」
これは本当、だけど嘘。
わたしはお菓子を作るのが好き。
元々は自分が食べたくて作り始めたけど、みんな「おいしい」って褒めてくれる。
それが嬉しいし、もっとたくさんの人に食べてもらいたいって思う。
だから本当。
でもわたしはお母さんから「勉強して、大学行って、公務員になれ」と言われている。
誰にも胸張れるし、安定しているし、堅い職業なので結婚にも困らないからと。
実際は離婚したお父さんがギャンブルに明け暮れてた人だから、その裏返しだろうけど。
なりたいものは決められてるから嘘。
……自分で発表しておいて、なんだか複雑な気分になってしまった。
※※※
授業が終わり、職員室へ。
片手には算数の問題集、わたしの日課だ。
わたしの家は塾に通えるほどお金持ちじゃないので、受験勉強は自分でやってる。
でも、わかんない問題はいくら考えたってわかんない。
そこでキョウコ先生に相談したところ、「任せなさい!」と放課後教えてくれるようになった。
「大学の入試問題より難しいんですけど!」
髪をかきむしりつつ、問題と解答のページを代わる代わる睨めっこ。
だけどいつも最後にはわかりやすく教えてくれる。
──でも、今日は違った。
「ごめん! これ、わからない!」
ついにギブアップ宣言。
「先生でわからないなら、どうしたらいいんでしょう?」
キョウコ先生がうつむきながら、眉間に指をやる──目をぱっと見開いた。
「山田君に教えてもらったら? 彼も中学受験するし」
山田君!?
「話したことないんですけど」
「クラスのみんながそうじゃないかな。だから先生としては、これを機会に二人が友達になったら嬉しいなあと思ってね」
「わたしなんかが話しかけたら迷惑だと思います」
「ないない。あってもそんなの気にしてたら御縁を逃しちゃうよ!」
キョウコ先生が拳を握りしめ、強い口調で訴えてくる。
机に「出会いの秋、結婚相手を探そう!」って雑誌がなければ、わたしもその勢いに騙されそうです。
※※※
御縁はともかく、どう話しかけたらいいんだろう?
校門を出てずっと考えていたら、いつの間にか目的の地「まんが図書館」到着!
H市には漫画の公立図書館がある。
全国でも唯一だとか。
流行ってる漫画は揃ってるし、貸出しもしてくれるから家でゆっくり読める。
返却棚へ借りていた漫画を返却。
次は何を借りよう──って、あれは!?
間違いない、こんなところにいるはずのない人がなぜかいる!
山田君、漫画なんて全然読まなさそうなのに。
抜き足差し足で机に向かう彼に忍び寄る。
──えっ!?
驚いた!
さっきも驚いたけど、二割増しで驚いた!
山田君はイラストを描いていた。
正確には漫画を開いて、キャラを模写している。
まさか読むどころか描いてるなんて。
これは……話しかけるチャンスかも。
よし、キョウコ先生の言葉を信じて勇気を出そう。
肩口から小声をかける。
「イラスト上手だね」
「うわあ!」
「きゃあ!」
山田君が叫んだ!
つられて、わたしまで!
彼の目はまんまる、わたしも多分同じ目だ。
周りの視線に気づき、騒いでごめんなさいと頭を下げる。
「出よう」
もう、すっかり落ち着いた声。
でもポーカーフェイスな山田君もあんな顔するんだなあ。
※※※
外のベンチに二人並んで座る。
一一月と思えない、うららかな陽射し。
暖かさと涼しさが相まって心地いい。
「びっくりしたなあ。山田君がイラスト描いてるなんて」
「みんなには秘密だよ」
わたしの手にあるホットココアを指差す。
同級生から奢ってもらうのは気が引けたけど、口止め料ということで受け取った。
「秘密にしないといけないことなの?」
「恥ずかしいじゃない」
「全然、全然。それどころか、すごく上手だよ」
山田君の頬が赤らんだ。
しかしすぐに口を尖らせながら首を振る。
「それこそ全然、全然。まだ模写しているだけで、山田オリジナルのイラストを描いたことないもの。まだプロになるための入口にも立ってない」
「プロ!?」
「僕、漫画家になりたいんだ」
わたしの耳がおかしくなったわけじゃないよね。
自分で自分にしっかり確認、間を置いてから聞いてみる。
「さっきは警察官って」
「あれは親に『なりなさい』と言われてるから」
わたしと同じなんだ。
文集に載せる夢が本当か嘘かの違いで。
こんなところに共通点があるなんて意外。
「でも『秘密』ってのも大袈裟な言い方だよね」
「親にまで話が回るとまずいんだ。僕、親から漫画読むのすら禁止されてるから」
ええっ!
「なんで? どうして?」
「言動が軽薄になるし、理解力が衰えるからって」
わかるような、わかんないような。
「でも、漫画読んでるんだよね?」
「『読むな』と言われれば読みたくなるよ。法律で禁じられてるならともかく」
「うんうん」
「H市に引っ越してきたとき『まんが図書館』のことを知って、行ってみたらはまったんだ。借りて帰れないから放課後はずっといるくらい。その内に、僕もこんなの描けたらいいなって」
山田君がペットボトルのお茶に口をつけ、一息入れる。
「『ポチャ恵』さんがなりたいのはパティシエだっけ?」
「信じられない!」
わたしは立ち上がって、叫んでしまっていた。
山田君は眉を跳ね上がらせながら後ずさりしている。
「び、びっくりした」
「当たり前じゃない!」
「男子も女子もそう呼んでるから、てっきりあだ名かと」
「それは、わたしのいないときに、裏で、でしょ!」
まさか本人の前で口にするなんて!
ポチャ恵はわたしへの陰口。
たまたま知ってしまった時はショックだった。
でも目の前で言わないから怒りようがないし、知らない振りを決め込んでいる。
山田君が頭を下げてきた。
「侮蔑する形で名前もじるなんて失礼じゃないかとは思ってたんだけど……ごめんなさい」
彼、どこかずれてるんじゃないだろうか?
悪気はなかったみたいだけど。
「いいよ。太ってるのは本当だし」
「そんな卑屈そうに首をすくめなくても。ぽっちゃりしてるのは恥ずかしいことじゃない」
この人はどこまで。
「恥ずかしくはないけど気にはするよ。男子はみんな、他の子みたいにすらっとやせてて、でも出るとこ出てて、って女子が好きじゃん」
「僕は別に? 僕の美しさには男子も女子もみんな敵わないんだから、他の人の容姿なんて気にしたこともない」
ずれてるどころじゃなかった。
「よく自分でそんなこと言えるね」
「普段は言わないよ。穂村さんが気にしてるって言うから本音話しただけ」
気を使ってくれたんだ。
名前もちゃんと言い換えてくれてる。
「『太恵』と呼び捨てでいいよ。みんなそう呼んでるから」
「じゃあ『太恵』。どうしてパティシエなりたいって人がH大付属受けるの? 学歴関係なさそうな仕事なのに」
「実はね……」
事情を話すと、山田君はうんうん頷いてる。
そうだ、今こそお願いするチャンスかも。
「それでね、もしよかったら山田君に算数教えてほしいなあって」
返事はすぐさま、きっぱりだった。
「嫌だよ」
……当たり前だよね。
でも、ここまではっきり断られると、逆に教えてもらいたくなる。
「少しくらい、いいじゃない」
「理由ないし。そんな時間あるなら絵の練習したいし」
「冷たいね」
「どう思おうと御自由に。僕は僕にしか興味ない」
はっきり言っちゃった。
山田君って寡黙でもなければクラスに溶け込めないのでもなかった。
ただ独りが好きなんだ。
でも、私も意地だ。
「漫画描いてるのばらすよ」
山田君のまつ毛が跳ね上がった。
「脅す気?」
「どう思おうと御自由に。わたしはわたしにしか興味ない」
わざとさっきの山田君の口調を真似る。
「口止め料払ったじゃない」
「わたし食いしん坊だから、ココアだけじゃ足りないの」
山田君が目を伏せる。
「じゃあばらせばいい」
「えっ!」
「クラスでばれても親にばれるとは限らない。仮にばれても脅しに屈するよりマシだよ」
まさかそんな態度に出ようとは。
だったら作戦変更だ。
「じゃあ、これでどう? 『漫画借りて帰れない』って言ったよね。わたしが山田君の借りたい漫画を代わりに借りてあげる。それなら学校にいる間も読めるでしょ」
ポーカーフェイスが緩んだ気がした。
「それは乗ってもいい提案だね。だけど、僕は太恵にうまく教えてあげられる自信がない」
「どうして?」
「僕には算数ができる秘密がある。それが理由」
「どんな秘密?」
山田君は一瞬唇をきゅっと結び、少しだけ間を置いてから答えた。
「僕、『算数の妖精』が見えるんだ」
──は?
ぽっかりと口が開いてしまった。
この人は何を言ってるんですか?
固まったままでいると、山田君が立ち上がった。
「信じてないみたいだね。証拠を見せてあげる」
※※※
再び館内へ。
山田君がインターネット閲覧用のパソコンを指さす。
「問題探して出してみて。どんなに難しくてもいいよ」
そして、さっき座ってた席へ戻っていった。
「どんなに難しくても」とまで言われると、あの高い鼻をひねってやりたくなる。
意地悪してやろう。
日本で最難関と言われるT大の入試問題を検索、書き写して持っていく。
──しかし、山田君は動じなかった。
「『サン君』、この問題はどう解けばいいの? うんうん」
問題用紙に話しかけてる!
そして山田君の手が動いていく!
テストの時に口を動かしていたのは、これだったんだ!
「できたよ」
見たこともない記号の並んだ解答を受け取って照らし合わせる。
どうも正解らしい。
そして解いていた様子を見たら、妖精さんの存在を信じるしかない。
「いつから? どうして見えるようになったの?」
「小学校あがった時、算数の問題眺めてたんだ。『1』って真っ直ぐで真面目な人なんだろうなとか『2』って押し潰されてて気弱そうな人だよなとか。そうしたら妖精のサン君が出てきた──」
算数の問題を見てそんなの思い浮かべる時点で普通じゃない。
「──テストの解答はサン君が教えてくれる。だから僕は自分が解くことはできるけど、他人に教えるのは自信ないってわけ」
理由は納得した。
でも納得できない。
どうして山田君にだけ妖精さんが見えるの?
そんなの不公平、わたしにも見えたっていいじゃない!
試しにやってみよう。
「8」って、まるまる太ってて、なんかわたしみたいだな。
──白く激しいフラッシュに視界を奪われた。
な、何?
再び見えるようになったとき、目の前には信じられない光景があった。
手の平サイズの女の子が羽をぱたぱたさせながら手を振っている。
「太恵ちゃん、呼んでくれてありがとう! あたしは『スウ』、算数の妖精だよ」
頭おかしくなった?
頬をつねってみる、目をこすってみる。
だけどスウの姿は消えなかった。
「本当に妖精さん?」
「自分で呼んだくせに何言ってるのさ」
「なんで? どうして出てきたの?」
「あたしにもわかんない。世界は不思議が多いよね」
そんな「やれやれ」されても。
「太恵、どうしたの?」
「わたしにも妖精さんが現れたの。スウって言ってる」
「そうなんだ」
「……まったく驚いてないね」
「だって僕にもサン君がいるし。もし本物なら、他の算数の問題開いても出てくるはずだから試してみて」
言われるまま、カバンから算数の問題集を取りだす。
開くと再びスウが現れた。
「あたしは算数や数学の問題の上でしか姿を見せることができないの」
もう信じることにしよう。
そして早速役に立ってもらおう。
さっきの先生に聞いた問題を開く。
「この問題教えて」
「ごめん、無理」
は?
「スウって算数の妖精なんだよね?」
「妖精ってね、レベルがあるんだ。あたしのレベルは10しかない。この問題は20だから、もっと上げてくれないと」
山田君に顔を向ける。
「レベルがどうとか言ってるんだけど」
「ゲームと同じだよ。教えてもらうには育てないといけないんだ」
「レベル上げはどうすればいいの?」
「算数の問題を解くと上がるよ」
それってつまり。
「算数の勉強をしなくていいってわけじゃないのね……」
「がっくりしないで。算数の妖精が現れたのなら太恵の提案を受け容れられるから」
「どういうこと?」
山田君が微笑んだ。
「算数そのものを教えることは自信なくても、妖精のレベルを効率的に上げる問題を教えることはできる」
「ということは、つまり……」
「明日の放課後から、ここで待ち合わせということで。この漫画、早速よろしくね」
「ありがとう」
返事として合ってるのかわからない。
だけどとにかく、差し出された漫画を受け取った。