二年目、七月
面白い女に出会えた。
この世の不幸を背負ったような顔をし「一人になりたい」と呟いていたので、私は声をかけた。雑居ビルの隙間、目の前にある華やかなカフェを羨望の眼差しで見つめながら、缶珈琲を一人寂しく飲んでいた三十代半ばの女だった。
話など聞かずとも解っていたのだが、余程鬱憤が溜っていたのだろう。見ず知らずの中学生にぽつりぽつりと不満を漏らす彼女は、相当追い詰められていたに違いない。きつい仕事だが給料は安い、学生時代の友人達は早くに結婚し疎遠となり、相談できる友人などいない。恋人を作る暇も、趣味を楽しむ時間も余裕もない。しかして、老人ホームに入居している両親の支払いはせねばならないので僅かな休養すらとる事を赦されない。
とまぁ、このような事をつらつらと語っていた。半ば、独り言だったろう。
その為、私は今までと同じ様に訊ねたのだ。「一人にしてやろうか」と。飛ばしてきた輩は、躊躇する者もいたが皆最終的には頷いた。
だが、この女は首を横に振り「いいえ」と言ったのだ。
驚愕した。
「一人になったところで、必ず後悔するでしょう。一時の感情だけで決めてはいけない、私はそう思います」
「同じ日々の繰り返しだが、希望を持って生きているということか」
問うてみた。
「いいえ、希望などとっくに捨てています。ですが、私にはこのまま生きるより他ないのです」
「そんなことはないと思うが、そなたが判断したのならば仕方がない」
薄幸女だが、芯は強い。会話していても無意味なので、私はその場から立ち去る事にした。
「貴女とお話が出来て、心が少し軽くなった気が致します。ありがとう、死神さん」
私はまた、死神と呼ばれた。
死神と一言に表したところで、解釈が様々だ。今まで私を死神と呼んできた者達は、どういう意味合いでそう呼んだのか。
死を司る者に見えたのか。
死へと導く者に見えたのか。
単に不気味な者として捕えたのか。
まぁ、どれも間違いではない気がするの。
空になった缶を大事そうに胸に抱えている女を一瞥すると、背後に揺らめく影と一瞬視線が交差した気がした。まぁ、あれらは瞳などないので感覚だけだがの。
「実家に帰り、墓参りに行くと良いよ。老人ホームに御両親が入居してから、誰も行っていないだろう」
一応、そう付け加えておいた。
驚いてこちらを見た女の後ろに睨みを利かせると、なんともまぁ耳障りな音を立てて影が消えていく。
死魔だの悪霊だの、まぁ、その名は何でも良い。魅入られると、人間は衝動的に自殺をしたくなったり、徐々に追い詰められ精神を病んでいく。弱い人間の心が呼び寄せるものであったり、不浄な土地へ出向いたせいで気に入られたりと、要因の特定は出来ぬが。
面白いな。
奴らの手段と酷似している。
人間は、弱い。
多感でありながら優秀な知恵を持っているがゆえに、酷く脆い。
強さも持ち合わせているだけに、厄介だ。
進化し続けたところで、過去と同じ過ちを幾度も繰り返す。反省しておきながら、活かすことが難しい。けれどもそれは、退化ではない。
生きているから、仕方がない。それが、人間の道理というものだろう。
他の生命を食さねば生きていけぬ業を背負っているからこそ、悩み考え抜いた挙句、自ら死を選択する者だって出て来よう。外部から少しの衝撃を与えれば、転落する者も少なくはない。
心の強さや弱さには、個体値がある。環境によって上がりもするし、下がりもする。
奴らも死魔だのも、そういったことに酷く過敏だ。
そこを、突く。
突いて、攻める。
「お前達は人間を心底嫌っているが、お前達の影響を受けて人間は成長をしているのだと思うよ。同族嫌悪にしか見えん」
挑発するように、自室の窓から声をかける。
天満月は銀紙を丸く切り取って黒紙の上に乗せたように明るい色彩を放っていおり、蒸し暑い夜の中で、蝉達は未だに合唱を繰り返していた。
――アナタもアサギ様同様、やはりニンゲン贔屓なんだね。残念だ。
ついに、応えた。
私は頬が引き攣るのを痛感しつつ、興奮を堪えながら唇を舌先で濡らす。
「やぁ、チキュウ君こんばんは。月が綺麗ですね」
――月は常に美しい。そもそも天体は尊く、煌びやかで、それでいて圧倒的だよ。
「人間達も、自分達の事をそう思っているだろうね。滑稽なまでにそっくりだ」
私の言葉に、地球が憤懣する。人間であれば、肩を揺らし眼を血走らせているのだろう。
――アサギ様が産み出した思考生命体だから……いや、失礼。生命体、ではないよね。
「何とでも呼ぶが良いよ、破壊の姫君とでも、死神とでも、アサギの中の人とでも」
――会話することすら、悍ましいのに。名を呼ぶだなんて有り得ない。
「その割には、随分と饒舌だの。どうした」
可笑しくて、ククク、と低く嗤う。
途端、地球は口を閉ざしてしまった。シュメッシュ辺りに言い包められ、大人しく身を引いたのか。
やれやれ、折角話し相手が出来たと思ったのに口惜しい事よ。
憔悴した顔つきのトビィに絶句し、ベルーガは一瞬口籠った。
「何か、あったか」
「まぁ……色々と」
風が絶えた夏の夜の闇は、蒸し暑く不快だ。顔を見せたと思ったら気怠そうに横になるトビィを、心底ベルーガは心配している。アサギの情報を持ってくる唯一の男だというのが大前提だが、二人の絆は固く結ばれている。
トビィはトーマについて話をし、大人しく相槌を打っていたベルーガは、聞き終えると表情を険しくする。
「剣の稽古、か。どうにも引っかかるが」
「そう思うだろ?」
現在トビィが疲弊しているのは、トーマの我儘ぶりが目に余るという事、天界城で看病されているトランシスが時折発狂する事、魔界イヴァンにて次期魔王についての騒乱が起きそうだという問題が多発している為である。一通り経過を報告したトビィは、差し出された茶を啜り一息ついた。
トランシスの名が出たので、ベルーガもイルチャについて口を開く。
「ほぼ完治だろう、まさに“奇跡的”に」
「焼死体を回避し過去の怪我も治ったとしたら、誰がどう見たって神からの恩恵だろうな」
「そう、私だけではなく、周囲の者全てが“イルチャは女神に生かされた”と思い込んでいる。よって、本人は極刑を願望したが、流刑で確定だ。マルケスが必死で陛下に掛け合ったことも大きいが、皇帝陛下が処分を下したのだから覆らないだろう」
「恐らく、本人は悪い男ではないからな。真面目な奴なんだろ、どうせ」
「そう心得ている」
二人は視線を交わし、小さく溜息を吐いた。
ちなみに今後辺境の地へ流刑となるイルチャだが、その場所へマルケスを知事として就かせる事となる。その為、牢越しではあるものの、マルケスはイルチャから勤勉を習い続けた。功績が認められ数年後には異例として拘禁が解かれるのだが、その決定打となるのが“女神に救われた男”という異名だ。時の流れですら、突如現れ泡の様に消えた女神の伝説は風化出来なかったらしい。また、視力は著しく衰えているものの、火傷の傷が綺麗に消えてしまえば端正な顔立ちは異性の興味を惹くのに十分なものであり、加えて第三皇子の信頼を得ている男である。求婚の話が後を絶たないが、彼は生涯独身を貫いた。マルケスの傍を離れないと忠義を誓った為だとも、一人の女性を想い続けているだとも噂が流れたが、真相は本人のみが知る。帝国を愛し、その命を捧げた実直な男として名は語り継がれていく。
だがそれは、また、別の話。
「トビィ、お前は“悪魔の囁き”を聞いたことがあるか」
ふかしたジャガイモにチーズをたっぷりと乗せ香辛料を散らしたものを食しながら、トビィは怪訝に顔を上げた。ベルーガはトビィがチーズを好む事を思い出したらしく、こうして細やかながらに嬉しい気配りをしてくれる。
疎ましい表情を思い浮かべながら口内のジャガイモを一気に飲み込んだトビィは、話し辛そうに口を開いた。
「……ある」
「ほぅ、君ほど屈強な男でも」
「……ある。あまり話したくはないが」
数分、間があった。
心の底の蟠りを吐き出す様に、茶で喉を潤したトビィが不貞腐れて開口する。
「アサギをどうしたらオレのものに出来るか……そう考えていた時に。気づいたら、あの華奢な首に指をかけていた」
「成程、殺せば手に入るとでも囁かれたか」
トビィは、無言でジャガイモを頬張る。肯定としたベルーガは、苦笑する。
「リョウはどうだろう、ちなみに、伝えるのが遅れたが私はない」
「オレよりベルーガのほうが屈強だということは把握した」
拗ねた様に口を開き、「リョウは流石というべきか、元神官長なだけあって気配を察知出来るようだ。幾度か忍び寄られたが、追い返したらしい」と付け加える。記憶を消される前、二人でしこたま話し合った内容の一部がこの件である。
「頼もしいな、この場に居ないのが心底残念だ」
「悪かったな、脆い双子が残って」
揚げ足を取る様に言うので、ベルーガは肩を竦める。
「存外、君もトランシス同様子供っぽいところがあるんだな。いやいや失礼、言葉を選び間違えた」
睨まれ、ベルーガは取り繕うように笑った。
「しかし、君もリョウ同様に屈しなかったということだろう」
「まぁ、辛うじて。理性が働いてくれたお蔭で」
「“悪魔の囁き”は負の感情を抱いている時に忍び寄るものなのだろうか」
大体合っている。
奴らは巧妙なのでね、正確には『アサギを追いつめ思考回路を麻痺させる為ならば、誰でも利用する』だろうか。持続する不安や悲哀、嫉妬に憤怒など、誰もが持ちえる感情が餌だ。特に怨恨は爆発的な力を発揮する、そういった感情をアサギに抱いている者達は、比較的踊らされやすい。
トランシスを筆頭に、ユキにミシア、一時のマビルか。
イルチャは特殊だが、奴らにとっては極上の好機だった。彼がいたからこそ、ベルーガとアサギは離れたのだから。イルチャの存在がなかった場合、二人が共にいるところにトランシスが来ただろう。ベルーガはアサギを身を呈して庇いながら、その親密さを見せつけたに違いない。
アサギも、何処まで甘いのだ。幼少の頃、そのままイルチャを屠っておけばよかったのに。何故救わねばならなかったのか、私は解せぬ。
いや、そう思うのであれば、あの時私が殺しておくべきだった。
殺そうと思えば、出来たのだろうか。
アサギによって生み出されたこの私も、命令に反して動くことが出来たりするのだろうか。
解らぬ。
見上げれば、夏の大三角が燦々と我が物顔で夜空に浮かんでいた。