一年目、十一月
凝然として延び広がっている雲のない寒空を、二頭の竜が優雅に舞う。
目的地に到着すると、馴染みの顔ぶれが彼を出迎え手厚く歓迎してくれた。ディアスより温暖なこの島の気候に一息つき、トビィは薄く微笑む。
「御久しゅうございます、トビィ殿」
「すまなかったな、これでも何かと忙しい身で」
「存じております、機動力の高いトビィ殿ですから、伝達を任されてしまうのでしょう」
鋭利な歯を見せ欠伸をしている竜を仰ぎ、ナスタチュームは朗らかに笑う。
前魔王の従兄弟であるナスタチュームが統治しているこの孤島は、いつ訪れてもなんら変わりがない。基本自給自足の彼らは、閉鎖された土地ながらも穏やかに過ごしている。トビィ的には、田舎に帰って来た思いだ。
「破壊の姫君の脅威は去った、と認識しておりますが、良いのでしょうか」
館とは大げさな家に案内されたトビィは、慣れた様に床に座り差し出された茶を啜った。開口一番に本題を突っ込んで来たナスタチュームに苦笑し、コップをそっと床に下ろす。
「どうだろう。“今は”としておくべきなのだろうか」
「神クレロは、チキュウを覗いていないのですよね?」
「あぁ。余計な刺激を与え、勇者……いや、アサギの記憶を呼び覚ますきっかけをつくってはならないと、断固として徹底している」
「ということは、今頃チキュウは破壊の姫君によって消滅している可能性もあると?」
「可能性はあるだろう、としか。何しろ誰も見ていないのだから、答えようがない」
勇者として異界から召喚されたアサギが破壊の姫君ではないのかと、最初から踏んでいたのはこのナスタチュームらだ。真偽を確かめるべく最初に接触したのが派遣されたオークスと、手違いのラキ。人間にしては内に秘める魔力が膨大過ぎたアサギは、勇者の枠を超えていると彼らは判断した。
破壊の姫君としてこちらへ足を踏み入れたと推測していた彼らだが、それが誤りだったと気づき、彼女の守護をする為に内密に動いていた。
まぁ、それも無駄に終わったが。
読みは大筋合っている、だがな、アサギの守護など無理なのだ。
「私は、トランシスさんと離れたのならば、破壊の姫君として覚醒はしないという結論に達しています」
重苦しい声でそう告げたナスタチュームは、緊張した面持ちでやって来たサーラとオークスを招き入れる。四人で輪になると、神妙な顔つきを浮かべ知らず短い溜息を吐く。
久方ぶりに会うのだからもう少し寛げばよいのに、この男らは真面目だ。
当然か、宇宙の存亡がかかっているのだから。
破壊の姫君とは、アサギの心が大きく揺らぎ絶望に支配された状態で引き起こされるものだと彼らは思っている。単純に言えば、アサギの中で眠る潜在意識が覚醒した状態ということだろうか。それを揺さぶらぬ様、守護すると彼らは言っていたのだが、容易い事ではない。外部との接触を断ち塔に幽閉すれば鬱憤が溜まり、結局惨劇を引き起こす。
多感期の娘に常に心穏やかにと告げたところで、それは無理な話だろう。
だがな、根本からその推測が間違っているのだよ。
例え定められた未来を捻じ曲げトランシスにあの場で遭わなかったとしても……アサギとトランシスは巡り遭うのだ。
これは、避けられない。
避けることが出来ぬから、私がここにいるのだ。避けられたら、私など存在しないよ。
破壊の姫君が何かなど思案したところで、無為無策。
数年先に、この者達が想像する通りの“破壊の姫君”が降臨する。
上手く演じられるよう、今から学習しておかねばな。
肌を刺すような冷たい空気は、迫りくる冬の到来を感じさせる。
こうした感覚で四季を判断できるこの場所は、良い環境下なのだろう。花の色が移り変わる度に、生きていることを実感する。時が流れている様は、嫌でも五感を刺激する。
この間、ミノルとトモハルを見かけた。
二人共、元気そうで何よりだ。私には気づかず、友人らと駅前のファーストフード店で騒いでいた。薄情な奴よ、あれほどアサギを気にかけていたというのに。
空の星は雲隠れしているが、代わりに地上に星が煌めく。星の様な街の灯りは、騒々しいがもう慣れた。これでは昼も夜も然程変わらぬ、自然の摂理を無視し生きる人間達は、本当に逞しい。
カンカンカンカンカン……。
徐々に降りる遮断機と、忙しなく点滅する警報機を見つめる。
「そこにいては危ないよ」
人通りの少ない踏切に、一人の老人が佇んでいた。死人の様な青白い顔をして、生きる気力を根こそぎ奪われたように朦朧としている。
私が声をかけると、彼は一瞬身体を震わせたが何も言わなかった。
これが自殺というもの。
人は自由であるがゆえに、死という選択も可能な生物だ。
「死にたいという事は承知したが、そなたがここで跳ねられてその後はどうなる。解るだろう? 衝突した電車の洗浄作業やら、乗客らの混乱、警察も来るだろしこの場は騒然となる。死にゆくものを止める事はしないが、場所を変えてはどうだろう」
私はアサギではないので、止めない。
私の話を聞いているのかいないのか、老人は何も言わず電車を待ち続ける。
「やれやれ、困った御仁だ。電車に恨みでもあるのかね」
目の前を、快速電車が通過して行った。
風が、髪を揺らす。
やがて警報機が鳴り止み、遮断機が無造作に上がった。
「どうして、助けたのです。何故、死なせてくださらなかった」
足元でしゃがみ込んでいた老人が、ようやく口を開いた。存外、元気そうな声だった。
「そんなに死にたいのか。この世と別れたいのか」
見下ろすと、彼はぎこちなく頷いた。乾ききった皮膚の上を、涙が伝っていく。
「もう、生きていても仕方がないのです。家内に先立たれ、子供もおらず、金も尽きました。痴呆も始まり身体も思うように動かず、思考も奇妙。そこまでして生に縋りつきたくないのです」
「そうか」
空気が、冷えていく。
この踏切を通過する電車は、十分ほどでやって来る。
再び線路内に入ろうと四つん這いになり進む老人に、声をかけた。
「やはり死にたいか」
「はい。……お嬢さんは死神ですか、でしたら殺してください」
死神。
成程、私を死神と呼ぶのか。それはそれで興味深い。
「死神ではないが、何故そう思う」
「この世の者とは思えぬ美しい容貌でございますが、温かみがありませんので天女様ではないだろうと」
「ほぅ」
恐らく、アサギであれば天女か天使か女神か、その類の言葉が飛び出していたのだろう。
「再度問うが……本当に、この世に未練はないのだな」
「ございません」
「あい分かった。そなたは頑張って生きた。疲れただろう、ゆっくり休むと良いよ」
カンカンカンカン……。
再び遮断機が下り、電車が疾走して行く。
静けさを取り戻した踏切の脇で、一人の老人が倒れている。その微笑みは大層柔らかで、亡くなっている様には思えない。
「おやすみ、良い夢を」
私は、その場を後にした。いつしか、気温もぐんと低くなったので、些か寒い。身体を、震わす。
それにしても、やはり人間は面白い。
「おい、まただってよ。踏切付近で老人が死んでたって」
「多いよなぁ、最近」
「ここまで来ると殺人じゃないかって思うんだけど」
「でも、外傷とかないじゃん。みんな心臓発作だろ?」
「また起きねーかな、死体とか見てみたい」
「葬式で見られるじゃん」
「そうじゃなくてさ、なんかこう、事件性のあるやつ」
クラスメイト達がそう騒いでいた。最近はネットが繁栄しているおかげで、情報の伝達が素早く広範囲に蔓延する。手にした情報を誰かが話し出せば、瞬く間に小さな教室でも広がっていく。そこから、場所を変えて噂は移動していくのだろう。
「ねーえ、そう言えば佳代と喜一君、別れたって」
「聞いた聞いた! 結構揉めたらしーね、修羅場見たかったよ」
「原因何? 浮気?」
「元から、ソリが合わなかっただけっぽいよ。我慢するほど一緒にいたくないんじゃない? 顔だけは互いに気に入ってたっぽいけど」
春先に恋人となった二人が別れたという噂話は、女子達が密やかに、しかし大ぴらに話している。だが、結局真相には辿り着けていないようだ、あの二人は特に喧嘩別れしたわけではないので、修羅場などなかった。互いに別の好きな異性が同時に出来た、というだけのことだ。
ところで、やはり恋愛偏重の傾向があるのは女性なのだろうか。彼女らは死体について語ってはいない。
アサギも、そうだったな。
異様に興味を示していたものな、私はどちらかというと知育偏重を推奨したいが。
髪の毛の先を指で弄り、空を見つめながら皆の会話に耳を傾けていて思った。
特にここの人間は、人の不幸に興味を示す。男も女も、現場を見たいと言う。何故だろう、見て胸がすく思いにでもなるのだろうか。
他人の不幸は蜜の味、というのは、こういうことなのだろうか。
明日は我が身だとは、思わぬのか。
不思議なものよ、刺激が欲しいのだろうか。
刺激が欲しいのであれば、それ相応の刺激を与えてみようかとも思う。