一年目、六月
雲の隙間から、飴色の春陽がまばらに降りてくる。
優しい陽だまりに包まれるようにして、トランシスは小屋の前に崩れ落ちていた。
まるで、天に召されることを望むように突っ伏している。
あぁ、いつかの光景だ。
この男は、あの時このまま。
死んだ。
愛する娘が姿をくらまし、彼女を待って待ち侘びて。
死んだ。
食事を摂る事も、眠る事も、息をする事すら止めてしまい。
死んだ。
今回相違している点は。
「起きろ! あぁもう、お前はどうしていつもっ!」
トビィが駆け付けたのが早かった。トランシスの身体を抱き起し、すぐさま天界城へと連れ帰った。こうして彼は、不本意かもしれないが生き永らえる。
トランシスは、待ち続ける。
アサギが、戻ってくることを。
彼女と暮らす事だけを夢見て、今日も待っている。
「アサギを待つなら、生きろ。苦しくても生きろ!」
怒鳴るトビィにうっすらと瞳を開き、トランシスは「弱くて、ごめんな」と自嘲気味に吐露した。
この男にとって、アサギは空気そのものなのだ。側になくては、生きていけぬ重要なものなのだ。
知らなければ、そのまま普通に生活していただろうに。
しかし、知ってしまった以上、今更元には戻れない。
それをアサギの最大の大罪とするならば。……あの娘は、どうするのだろうか。
家族で夕食を摂る。
小学生の弟らはゲーム部屋に姿を隠し、明日も学校だというのにゲーム三昧だ。
「ごちそうさまでした」
私は両手を合わせ静かにそう告げると、空になった茶碗を流しに運ぶ。
「“マヒル”、手伝いは良いから宿題をしなさい」
「はい」
「学校生活はどう? 慣れた?」
「はい」
「今日、ご近所の方から美味しそうな和菓子を戴いたの。後でお部屋に運びますね」
「はい」
「それから“アサギ”、今度の日曜日だけれど、お墓参りへ皆で行きますからね」
「はい」
母親は。
時折私の事をアサギと呼ぶ。それは、自分でも気づいていないらしく、訂正することも不審に思う事もない。聞いている筈の家族らも、聞き流す。
アサギらが勇者になった時からの記憶が封印されたとするならば、私の名はアサギだと認識されるのだが。
アサギが名前を書き換えただけでは、皆の記憶から名前が抜ける筈もないのだが。
こう仕組んだのは奴らなのか、それともアサギ自身なのか。
私の憶測では、恐らく両者だろう。
本当に、用意された未来に向かって路を進める狡猾な奴らよ。
アサギよ、お前は両親らが傷つかぬ様配慮したつもりなのだろうが……お前は知らぬ。
腹を痛め愛情深く十二まで育てた娘の事を、忘れる母がおるのだろうか。母の愛は、偉大だ……お前もそう言っていただろう。
まぁ、私達は母というものになったことなどないので解らぬだろうが。
いや、違うか。
お前は幾度かその腹に子を為したことがあったな。
あの愛しい男の子を、授かっただろう?
そんなことも、妄想だと信じ忘れてしまっただろうが。
アサギ、お前はな。
死ぬことも、子を産む事も出来たのだぞ。
……とまぁ、この私が言ったところでどうにもならんのだが。
日曜日、父親の大型ワゴン車に乗り墓参りへと出向いた。その途中、自転車に乗って駆け抜けて行くユキと擦れ違った。
あちらは、気づいていないだろう。血色の良い顔色で、華やかなワンピースを揺らし、嬉しそうに駆け抜けて行った。中学生活を満喫しているのだろうな、よい路へと進んだらしい。
今度は、間違えるでないよ。
そなたが本当に親しくなりたい者と友達になり、親友として絆を強めると良い。無意味な自己主張は捨てるが吉だろうな。
そうこうしていると、リョウともすれ違った。サッカー部に入ったらしいからな、部活だろう。ケンイチと同じ筈だが、はて、親しくしているのかどうか。
最近めっきり家にも来なくなり、顔を合わせても話しかけて来ぬ。
少し、寂しい。
「私は、へっき」
ワゴン車の後部座席にいたその呟きを汲み取る者は、いなかった。
多くの雨を浴び、植物達と同じ様に人間も生気を取り戻す。うだるような暑さから解放され、人々は浮足立っていた。
雨は、天からの恵みだ。
惜しげもなく逞しい肉体を晒し、長い髪を邪魔そうにかき上げ、薄布を纏ったトビィは今日もベルーガの要塞へと足を運んでいた。この帝国ではここまで薄布になる週間がない為、訪問してきたトビィを物珍しそうに見つめている。女らであれば目のやりどころに困り、色めき立ったところだろう。
「見るだけでむさ苦しい」
然程変わらぬベルーガの衣服を見て、トビィは渋い声を上げた。暑くはないのか、と訊ねると、暑いが慣れた、と戻ってきた。
「そちらの状況は。トランシスの容態は回復したのだろうか」
もう、何度もこうして顔を合わせた。トビィ好みの赤ワインも用意され、色とりどりの食事でもてなされている。心地良い絨毯に直接腰を下ろし、気兼ねなく会話を交わす。
「生きてはいる」
一気にワインを呑み干し口を拭ったトビィは、やはり山羊のチーズに手を伸ばす。惑星クレオで食べていたものより臭みがなく、気に入ったらしい。
「生きてはいる、か」
「あぁ」
紅茶を啜りながら眉を顰めたベルーガは、トビィにしたためておいた話を包み隠さず話した。
「イルチャだが」
「あぁ、あのアサギに手を出し火だるまになった馬鹿か」
アサギがベルーガの妻としてこの地に滞在していた際に、ベルーガを嵌めようとして逆に返り討ちになった男を、トビィはそう言い表した。特に興味のない話題であった為、運ばれて来た山羊のモツ煮と肉まんじゅうを頬張り出す。
「意外な事に、イルチャが解決の糸口を握っているかもしれん」
神妙な顔つきでそう言い放ったベルーガに、トビィの喉が鳴る。